私が今感じていること


3.キャンプについて。(初稿:1999以前)
 最近のアウトドア熱の高まりようは単なるブーム以上のものを感じますが、「なんだかなー」と一歩下がってしまう私です。アウトドアを私なりに解釈すると、それはドア(家)の外=非日常であります。そこには日常=日々の生活というバックボーンが存在することが大前提であります。文字どおりのアウトドア=野外では決してありません。しかるに、今日のブームがその本質を捉えたものなのか、若干疑問が残るところではあります。アウトドア(非日常)にライフ(日常生活)を持ち込む人がなんと多いことか。
 私、最近気がついたことは、人間の行動=質×量=C(一定)ではないかということです。どんなことでもマイノリティのうちは、そのことについて行動する人間の質に限っていえば非常に高いものがあります。しかし、何らかの媒体により世間に広められ、メジャーとなったとき、その行動をする人間の質は相対的に低下していきます。どんなことにもルールは存在します。仲間内で行動していたときはそれが暗黙の了解事項であったものが、多数の後から追っかけてきた人間にとっては理解できない、すなわちルール無用の世界を作り出してしまいます。
 キャンプという本来ならごくありふれた、おそらく誰もが一度は体験していることでさえ、最低限のルールが守られなくなっています。ひいてはそのことが後からやってくる人たちも同類に見られ、しなくていいはずの規制をやむなくしなければならないことになっているのが現状です。
 ここまで書けば皆さん、もうお気づきでしょう。そう、上宝村でも指定箇所以外でのキャンプはしないようお願いしています。その指定箇所は「キャンプ場」です。
 最近のキャンプ場は「何でもあり」です。水道はもちろん、場所によっては電気までひいてありますし、ごみは指定の場所へ持ってけばあとは処理していただける、トイレは水洗化され、流しの排水もろとも下水道が処理してくれる、まことに便利で衛生的なキャンプ場であります。いやいや、それじゃまだまだ認識不足だよ、といわんばかりに、シャワー施設やコインランドリー、はてはコンビニエンスな売店まで備えたところまであるにいたっては、何をかいわんや、です。おまけに(今じゃおまけでなくて当たり前になりつつありますが)自分の乗ってきた自動車はテントに横付けできなければならない。でも、そんなキャンプ場の方が人気が高いんだそうですね。
 バブルが弾けて以来、キャンプする人が増えているみたいですが(ちょうどアウトドア熱の高まりとリンクしているようです)、キャンプ場の施設がそれにつれて良くなっている。すなわち、キャンプに日常生活と同じレベルのものを要求する人が増えているということにほかなりません。昔はキャンプ場へ電気炊飯器を持ってきた、という話が笑い話でしたが、どうやら今では笑い話どころか当たり前になりつつあるようです。
 閑話休題。
 話を元に戻します。指定場所でしかキャンプができないということは、場所を指定しなければそこら中無法地帯化して、とり返しのつかないことになるということです。それだけキャンプする人たちの質が悪くなっているんです。たとえば、昨日河原にとまっていたクルマがいなくなった後にたき火と花火の燃えかすと、コンビニの袋いっぱいのゴミだけが残っていたとき、あなたが地元の人間ならばどう対処するか、ということです。
 '96年のお盆に台風がこの地方を直撃しました。ご記憶の方も多いと思います。上宝村では指定箇所以外の、特に河原でキャンプしている方に(残念ながら沢山いらっしゃいます)台風予想進路図入りの天気図を刷り込んだ警告チラシを配布し、危険なのですぐに安全な場所へ引き上げてくださいとお願いしたところ、逆にくってかかられたり、警告を無視してキャンプを続けた結果増水した河川の中洲に取り残され、大騒ぎになったこともありました。このようなごく一部のキャンプのイロハも知らない方たちのために、本当にアウトドアライフをおくりたい質の高い方たちにまで規制が及ぶことになるのは、非常に残念なことではあるのですが致し方ないことでもあります。




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