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儒家と墨家―人間信頼の思想

 

 中国古代に起こった諸子百家は実に多彩であった。諸子百家のうちでも比較的早く起こったのが儒家と墨家だと言われるが、この二派は様々な点で対照的である。

 まず、儒教が、例えば親子、兄弟などの間にある自然な愛情を重んじ、これを天下国家に及ぼそうという基本に立っていたのに対し、墨子は、家族などの社会的仲介を経ず、己れを愛するように、あまねく人を愛すべし、と主張する。これを墨子は「兼愛」と言うが、考え方はキリスト教に類似しているように思われる。

 また、儒教が、例えば死者が出ることは悲しい、その悲しみを心の中で感じるだけでなく、その悲しみを形に表わし、厚く弔う形式を作ることを重んじるのに対し、墨子は形式的な礼節は廃すべきで、質素・倹約を旨とすべきであるとしている。

 大雑把にまとめるならば、儒教は、人間本来の自然な感情を認め、その良い点を定式化して社会規範となし、それを以って平和国家・文化国家を築くことを目指しており、人間性の悪の部分は、個人的には克己によって、社会的には階層的秩序と為政者の徳政によってコントロールしようとする。現代的立場が儒教に対して行なう批判は、「階層的秩序の重視」が現代の民主主義政治と相容れないということに的が絞られるが、政治的共和主義の概念が存在しなかった古代中国においては、それなりに人間的かつ合理的な社会システムの思想であると僕は思う。

 それに対し墨子は、人間の自然な感情や慣習に頼るのではなく、もっと広い「愛」の可能性を人間に見出そうとする(僕は、人間が自分を愛するのと同じように世界中の人を愛せるとか、家族や朋友に対するのと同じ深さで赤の他人を愛せるとかいう説は、どうもにわかには信じ難い気がする。キリスト教もそうだが、ここまで楽観的な人間に対する見方は正しい人間観察とは言えず、そこに途方も無い偽善や尊大を生じる素地を感じてしまう)。


 いずれにせよ、対照的な点はあるものの、儒家も墨家も、人間信頼という大きな広場に立っている。理想と、それを実現し得る人間の力を信じている。孔子の生涯を見ればその信頼の大きさがわかる。

 孔子は始め魯の国の小役人だったが、五〇歳を過ぎてから魯公に重く用いられた。彼はそれまで魯国を支配していた三家老の勢力を押さえ、公室が本来持つべき権威を回復し、秩序ある文化国家を建設すべく努めた。政治的手腕も優れ、改革は殆ど成功したかに見えたが、旧守派家老の讒言に遭い、魯国を追放されてしまった。

 その後彼は、門人を引き連れ、自説を容れ自分を用いてくれる君主を求めて諸国遊説の旅を続ける。その遊説生活は決して優雅なものなどではなく、門人もろとも飢えの苦しみに逢ったり、盗賊に襲われたことも何度かあったという。難に遭い、お互いに行方がわからなくなってしばらく後、ようやく行き会えた時の孔子と顔回の喜び合う様が「論語」に描かれているが、読んで涙がでるほど切実な師と弟子の再会の喜びが伝わってくる。

 諸侯は孔子の言説を取り入れようとはしなかった。彼は六九歳の時、ついに再び故郷の魯国へ帰った。彼は魯を追放された時も自らの理想を捨てず、諸侯に説いたが、諸侯に認められなくとも絶望することなど全くなかった。彼は現世で認められなくとも未来を信ずる人であった。彼は六九歳で故郷へ帰って以来、八〇幾歳かで亡くなるまで、未来に生きる門人たちの教育と古典や歴史の研究に専心したのである。

(一九七四年三月)

 

墨子(紀元前五世紀頃)

中国春秋時代末期の思想家。魯(現山東省の辺り)の人。博愛、倹約、戦争反対といった民衆の立場からの独自の説を主張。その学派は団結が固く行動的であったので、一時期儒家を圧倒するほどであったが、秦代以降は全く衰えた。

 

孔子(紀元前五五一年頃〜紀元前四七九年頃)

中国春秋時代の思想家、儒家の祖。魯(現山東省曲阜)出身。その思想の中核を為す「仁」とは人間愛のことであるが、彼は過度な理想主義や観念論を避け、あくまで人間の現実の正しい観察に基づく人間愛を説いた。「論語」は孔子の言行を後世の弟子たちが綴ったもの。

 

〈参考にした文献〉

吉田賢抗注訳「論語」(明治書院:新釈漢文大系)

井上靖「孔子」(新潮社)

山本七平「論語の読み方」(ノンブック)