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「古典派からのメッセージ・2001年〜2002年編」目次へ戻る
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福田恒存全集読書メモ(二〇〇一年〜二〇〇二年)

 

スペシャリストということ

 「何々家や何々者であるよりまず人間でありたい」という福田氏の希望は、スペシャリストである以前によき人間でありたいとの希求である。それは、ちょうど古代ギリシアで、弁論のスペシャリストになるためのノウハウ伝授、教育を行っていたソフィストたちに反対したソクラテスと同じ立場である。「スペシャリストになる」とは、技術や技能を修得することであり、人間的価値には無関係である。ソクラテスは弁論の技術や技能を身につけようとしている主体たる「人間」そのものの生き方を問うた。人間の中身を横に置いておいて様々な装束でその身を着飾っても、人間そのものが充実し幸福に満たされるわけではないのである。

平成一三(二〇〇一)年二月一八日

 

和魂洋才

 日本が生きて行くスタイルは和魂洋才しかないが、今我々に足りないのは洋才よりも和魂の方だ。和魂の衰弱(主体性のなさ)こそが常に問題だ。ただでさえ周辺文明の宿命で不足しがちなのが「頑強な主体」である。もともと和魂とは、「才が、学んで得た知識に関係するのに対し、和魂の方は、これを働かす知恵に関係する」(小林秀雄「本居宣長」新潮文庫本上巻二九八頁)ものである。無魂洋才では知恵のない知識や情報だけの人になってしまう。これでは主体的な判断力も思考力も発達しない。今我々に必要なのは知識、情報よりも知恵であり自ら考える力である。

 福田全集第五巻所収の「論争のすすめ」で、福田氏は、和魂洋才論における和魂の衰弱説は俗論である、と言う。洋魂を究めようとしなかったことこそ問題である、というのが、氏の論点である。僕は、氏の趣旨をこう理解する。即ち、西洋の魂を究めることは、即ち和魂の自覚ではないのか。山本新氏著「周辺文明論」に書かれた近代インドにおける西洋との対決のごとき、真正面からの西洋の魂との対決が望ましいあり方なのである。要は「才」を採り入れることに急であった明治期日本は、「魂」の問題を置き去りにしてきた。福田氏はそのことを問題にしているのだ。

一連の米国式の経済・社会のあり方(株主価値極大化、時価主義会計、短期的成果主義、確定拠出型年金等々)とどうつきあうか、という問題を投げかけられている現代日本のビジネスマンは、ちょうど西欧文明とどうつきあうかを問われた幕末・維新の武士たちと同じ境遇にある。今日、「和魂米才」の「米才」については、情報があふれ返っている。ただし、米国において何故その制度、仕組が必要とされたか、その背景、つまりは米国の魂まで掘り下げた良心的な情報は少なく、ただ「流行だから追うべし」との笛吹きが多い。特に近年の経済論壇では、論者が本気でそうすべきであると考えているのかどうかさえ定かでない、単に米国でこうしているから日本もそのようにすべきだ、といった粗雑で責任感の欠如したアジテーションが横行している。

 僕の携わっている人事制度の問題についても、米国流の成果主義や職務給の導入を急げ、との無責任なアジテーションが盛んである。その点、人事コンサルタント高橋俊介氏の「職務給」についての記述は、米国でなぜ職務給が行われたか、文化的背景もきちんと紹介している点、良心的である(「職務給」とは、職務の内容、職責、必要となる能力要件などの職務分析を実施して職務記述書を作成、職務の重い軽いを基に給与を決める仕組みのことである)。

 高橋氏の「カフェテリア・プラン」(日経BP)によれば、近年、日本企業で米国流の「職務給」を採り入れる企業が増えているが、米国で職務給が導入された背景には、公民権問題があることに注意を要するという。公民権法(一九六四年施行)では、雇用・昇進機会を、性別、年齢、人種によって差別してはならないとされている。米国企業は公民権法に抵触するリスクを避けるため、職務給を用い、「職務」だけを見て「人」を見ずに給与を決めるようになった。男女、老若、人種といった違いだけでなく、仕事に対する姿勢といったような「属人的要素」から目をそらしてきた。しかし、一九九〇年代になって、米国ではもはや職務給は時代にそぐわないものとなりつつあり、米国企業は「人を見る」経営に大きく方針を変えているという。こうした米国固有の文化背景を理解した上でなお、我々は本当に職務給を自社の人事制度の根幹に据えるべきかどうか、よく考えるべきである。職務給の端的な例を出せば、「あなたは企画課長から庶務課長に職務が変わりましたのできょうから月給が五万円減ります」と言われて、我々は納得できるだろうか。「私は企画課長として何が足りなかったのですか」と、たちまち「人の能力、資質」が問題になるに決まっている。「人」を評価することを人事の根幹に据えずに人事が成り立つはずがない。日本企業の人事がよくないのは、人を評価する基準や過程があまりに不明確、説明不足なことであろう(非言語的直観に頼りすぎている、恣意的である、と言ってもよい)。だからと言って職務給に逃げ込んで公正で納得性ある人事ができるとは限らないのだ。

問題はやはり米国の制度(米才)を取捨選択する主体である「和魂」の鍛練が足りないことである。即ち、自分とは何か、自分を動かしている原理は何か、の理解と自覚が足りないのである。主体的に米才の背景たる米魂にまで踏み込んでその価値を考えないことがいけないのである。和魂がしっかり確立していないと、無自覚に何でも取り入れてきた反動が来て、逆に極端な排他主義に振れ、必要な制度改革を行なえずに競争社会に取り残されてしまうこともあり得よう。

平成一三(二〇〇一)年三月七日

 

近代日本を表象する歌

 斎藤茂吉のこの歌に福田氏は、近代日本のあまりに性急たらざるを得なかった宿命を見て取っている。その視点はどんな歴史家にもまして慈愛に満ちている。

 吾(あ)が母の 吾(あ)を生ましけむ うら若き かなしき力を思はざらめや

明治日本は「うら若」かったのであり、また、「かなし」かったのである。福田氏のような真の批評家を追い出してしまった昭和五十年代以降の日本の論壇とは、何と情けない存在であろう。全人格を賭けた、論壇人としての全責任を賭したような、血の出るような議論は今日殆ど見られない。

 福田氏の文体を見よ。そこには、カタカナを最小限に抑えた、端正な居住まいの文章がある。氏は意味の明白でない言葉を決して使っていない。言葉の定義も充分吟味しないまま、カタカナ用語に頼り切って、あいまいで無責任な論理を展開する評家たちよ、福田氏の文体を規範とせよ。

平成一三(二〇〇一)年四月一三日

 

初夏の祭礼

 昨日秋葉原へ買い物に行った時、ちょうど神田明神のお神輿が秋葉原の街を練り歩いていました。今頃は日本各地でこうした初夏の祭礼が営まれていることでしょう。まさに「初夏」という言葉にふさわしい、少しばかり汗のにじむ好天でした。

 福田氏は祝日や祭礼の意味を重要視していますが、氏の言うとおり、祭礼によって私たちは、とかく自然に反しがちな人間の日常生活から離れ、自然との繋りを確め、更に農耕を根源に持つ共同体を確認することができること、そしてそのことによって再び日常生活に戻って行く活力を身につけるのだということを、初夏の祭礼に出会って心から実感しました。

平成一三(二〇〇一)年五月一三日

 

正漢字体・歴史的仮名遣い

 小生が敬愛する英文学者、劇作家、評論家である福田恒存氏に関するウェブページに「福田恆存」があります(アドレスはhttp://members.jcom.home.ne.jp/w3c/FUKUDA/)。戦後行われた漢字の簡略化と仮名遣いの変更に抗し、正漢字・正仮名遣いの合理性を訴え続けた福田氏についてのHPらしく、正漢字体と歴史的仮名遣いで記載されています。正漢字体・歴史的仮名遣いへ変換できるワープロソフトが紹介されているのも興味を引きます。

 最近、名字に正漢字を使う人が増えています。例えば、「渡辺」ではなく「渡邊」と表記したり、「浜田」ではなく「濱田」といった具合です。なかには、新字体で書かれると自分でないようだ、というくらいこだわりを持つ人もいるそうです。この傾向に対しては、一部専門家の間からは、「正漢字の本当の使い方も知らない人がいい加減に使っている」との批判もありますが、むしろ、人々が、正漢字を使うことで伝統や歴史に無意識に連なろうとしている、と素直に受け取るべきではないでしょうか。正漢字・正仮名遣いは江戸時代以前の国語表現との連続性を維持していました。いたずらに表音主義にとらわれるのでなく、言葉の起源に忠実な表記法を用いるほうが国語表記として合理的なのだ、との福田氏の説に僕は賛成です。正漢字の名字にこだわる人々も、単なる懐古趣味ではなく、言葉の起源に忠実な表記法の合理性を感じ、戦後の簡略化された漢字を「正式でない」「仮物」と感じているのではないでしょうか。

平成一三(二〇〇一)年五月二六日

 

抽象論を語らず

 福田氏は具体的な事象について具体的に語る。まさにイギリス的である。語られるのは、沖縄返還問題への社会党の対応の偽善性であり、浅間山荘事件についてのマスコミの取り扱いの偏向である。それらの具体的論評は、江戸っ子たる福田氏の「かんしゃく」(正義感、公正感の発露)を基礎にした、健全な歴史意識と保守思想と人間信頼の哲学とに貫かれている。

平成一三(二〇〇一)年一〇月二日

 

推薦図書

 福田全集第六巻で氏が薦めている本がふたつある。ひとつは、「新潮国語辞典」。現代語と古語をいっしょに収録することで、日本語の歴史的一貫性を実感できるように配慮されている。古語をまるで自分たちの言語と無関係なものとしか感じないような感性を子供たちに身につけさせてはいけない。もう一つは「海外評論通信」。英米のマスコミの主要論文を翻訳したもの。日本のマスコミ報道だけ読んでいては世界の(アングロサクソン主導の、と言うべきか)論調は見えて来ない。

平成一四(二〇〇二)年二月二五日

 

「人間 この劇的なるもの」

 この著書は、福田氏としては珍しく、英国流具体論ではなく、大陸風抽象論であり、氏の人間観を発露した書である。氏自身が演劇人としての「行動家」たる自己を見据えた上で、「行動家」「生活者」たる人間の宿命を説いた書である。宿命といっても決して悲観的人間観などではない。むしろ私たちは、この書を読むと、倫理的存在としての自然な人間のあり方に、腹の底から希望や信頼がじわじわと湧いてくる。のみならず、私たちは、もはや死を忌避しなくなり、「意味ある死」を考えるように導かれるのである。

平成一四(二〇〇二)年三月二八日

 

アイデンティティ

 福田全集第六巻「言葉の芸術としての演劇」で、氏が「セルフ・アイデンティティ」という外来語を「自分の身元」と訳出しているのは実に的確だ。「自分の身元」に自信の無い者に限って、古典の前におどおどしながら、その劣等感を押し隠し、古典の現代化、新解釈によって自己の優越を保とうとする、との指摘も正鵠を得ている。真の個性とは、自分を打ちのめすものにぶつかって行って、しかもなお生き残るものでなければならない。まずは現代を捨て、古典の神髄に迫ろうとすること、それが第一で、その結果否応なく出て来るのが個性であり、現代人としての自己、日本人としての自分なのである。

平成一四(二〇〇二)年四月七日

 

「私の国語教室」復刊

 福田恒存氏の「私の国語教室」が文春文庫で復刊された。これまでも新潮文庫、中公文庫と文庫本になっては廃刊になっていたが、真に生命力ある古典は必ず蘇るものだと強く感じた。この本は、戦後間もなく、どさくさに紛れて一片の内閣告示によって行われた「国語改革」(歴史的かな遣い〔正かな〕に代わる現代かな遣い、正漢字の簡略化、漢字使用制限)に対する徹底的な反駁の書である。

 しかし、その反対の論拠は、決して復古主義や文学趣味からではなく、国語に対する深い愛情と正かな・正漢字の合理性を基礎にした合理主義からである。このことを我々は理解した上で本書を読むべきである。

 戦後の国語改革論者の主な改革の論拠は「しゃべるように記す」「話し言葉と書き言葉の一致」といった「表音主義」であった。しかし、そもそも話し言葉と書き言葉は来歴の異なるものであり、どの主要言語でもきちんと区別されており、その方が合理的であること、また、戦後の改革については表音主義にもなりきれない中途半端なものであり、そのことで国語の合理性が歪められたこと、福田氏の改革反対の論点はこの二段構えで成り立っており、いずれの論も堅固な立証を伴っている。

 表音主義は決して科学的な主張ではなく、むしろイデオロギー、頑ななドグマと言うべきである。例えば英語を考えてみればよい。英語が表音的かどうか、「psychology」という単語を発音してみればいい。この単語は「サイコロジー(=心理学)」と読み「プシチョロギー」とは発音しない。「cho」は、「コ」と読んだり「ショ」と読んだり「チョ」と読んだりする。書き言葉は発音とは関わりなく、その語の起源に忠実に表記される。言葉は、その起源がわかる方が体系的に覚えやすいものだ。英語圏の人たちはこのことをよくわかっているから、英語を表音化したいなどという議論は無い。日本語も全く同じであって、書き言葉にはそれぞれの言葉の起源があり、それに忠実に記載するのが合理的である。戦前までの正かな・正漢字はこの原理で成り立っていた。日本語ワープロの発明でこのことは一層明らかになった。言葉の体系に即していた正かな・正漢字の方が現代かな遣いや新字体よりはるかに漢字変換の論理になじむのである。

 本書の解説者であり、正かな・正漢字変換ソフトの考案者でもある市川浩氏の解説から引用しよう(原文は正かな・正漢字で表記されているが、それらを使いこなせない小生は現代かな遣いでしか表記できません。お許しください)。

「そもそも正かな・正漢字は語の歴史を背負い、日本語の基本原理を表現しており、そのゆえにこそ、其の歴史と原理の下で言語生活を営む日本人にとって扱い易く、ひいては人間の脳を模型化したコンピュータでも容易に扱えるのである。外国人に日本語を教授する際、歴史的かな遣いで説明すると、語幹不変の原則や、動詞語尾の一行活用など五十音図との美しい整合性がよく理解されるという事例も、これを傍証すると同時に、この整合性がコンピュータの論理によく適合し、「契沖(注:正かな・正漢字変換ソフトの名称)」の開発をも容易にしたのである。漢字も部首と部材の組み合わせに整合性のある正字体が、これを破壊した新字体よりコンピュータとの相性が良いのは当然で、幼児は画数が多くても正字体の方をたやすく覚えるのともよく符合している。」

 このような正論がなぜもっと議論されないのか。言葉の起源に立ち戻り、正かな・正漢字を取り戻すことはできないだろうか。なお、この本を論じたサイトを見つけましたので、ご紹介しておきます。

http://homepage1.nifty.com/~petronius/kana/kokugo.html

(「『私の国語教室』復刊を祝す」というサイトです)

平成一四(二〇〇二)年四月一四日