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「古典派からのメッセージ・2001年〜2002年編」目次へ戻る
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初級産業カウンセラー養成講座にて

 

宗教との隣接

 「精神分析的方法あるいは臓器移植的方法は、人を部品に切り刻むことだ」と、精神分析的方法や臓器移植的方法を否定し、「全人としての人間、全体としての人間」をあらゆる心身の療法の基礎とすべしと説く、龍谷大学・岸田教授のきょうのお話は首肯できる。梅原猛氏が脳死容認論への反論を唱えておられるのも、同様の考えであろう。人間は臓器や脳の寄せ集めではない。心身の有機体であり、小宇宙なのである。カウンセリングや医学は、本来、宗教と隣接した人間学でなければならず、カウンセラーや医者は、自分の領域の専門家である前に、まず、自身が全うな人間でなければならない。「全人としての人間、全体としての人間」として、人格の陶冶を怠ってはならない。

平成一三(二〇〇一)年四月一日

 

心理学、精神分析学への疑問

 心理学者、精神分析学者は、人間の全てがわかると思っているのだろうか。もし彼らが、心理学、精神分析学の方法で人間の全てが解決できる(人間は問題を解決すべき存在である)と思っているとしたら思い上がりも甚だしい。人間には「宿命」や「運」が必ず存在する。彼らは、心理学、精神分析学が人間のほんの一面に関わる「技法」にすぎぬことをまず潔く宣言すべきである。

 カウンセラーの「技法」は、日本の伝統的な人間関係の常識や知恵にすぎないものを「科学」の体裁で焼き直したものにすぎない。人工国家アメリカゆえ(また弱肉強食のストレス社会ゆえ)こうしたことが「技法」としてもてはやされるのだ。それらは「科学」ではなく、「人間学」であり、そのあり方は文化によって無限のヴァリエーションがある。例えば、カウンセラーがクライアントの顔を正面からじっと見据えることやリラックスするため足を組むのは、日本の文化ではむしろクライアントに不愉快な思いをさせ、マイナスになることが多かろう。

平成一三(二〇〇一)年四月一五日

 

精神分析学の危うさ

 現代カウンセリングの理論的基礎を作ったカール・ロジャースの精神分析学の中で、傾聴のあるべき態度としての「自己一致(congruent)」という概念がある。僕はこれを大変疑問に思う。これは「気持ちどおりに表現することである」という。つまり、心にも無いことを言わないということだ。例えば、サラリーマンが上司への反発心を抑えて「前向きの態度」を装うのは、心にも無い言動をとっているので自己一致ではないのである。カウンセラーがクライアントへの軽蔑心を抑えて一生懸命傾聴するふりをするのも、同様に自己一致とは異なる悪しき態度である、という。つまり、言葉や行動の内にある気持ちが、表に顕れた言行と一致していなければならない。カウセラーたる者、常にクライアントの症状に心の底から同情、共感しなければならない、という。

 本当に人間にこんなことが可能なのだろうか。例えば、家族の重病のために精神的に鬱状態にある時でも、カウンセラーは自己を虚しくして心の底からクライアントの言うことを傾聴しなければならないのか。自分の心を制御する、などという困難なことが、なぜカウンセラーには可能となるのか。カウンセラーもただの人間である。「自己一致」などを神ならぬ人間に求めること自体がおかしいのではないか。もしカウンセラー諸氏が、自分は精神分析学の知識とそれに基づく科学的訓練によって自己一致を実現できている、などと思っているとしたら、それは大変な思い上がりであり、それこそ自らの精神を誰かに分析してもらった方がよい。

 僕は、精神分析学という学問に、いつもこうした傲慢さや偽善の危うさを感じる。精神分析学は一応「科学」の衣を着ているが、自然科学と同じ意味での科学にはほど遠い。それは、科学で説明できない事柄について往々にして宗教や倫理に逃げ込む。この「自己一致」などはその好例である。精神を科学できる、などという傲慢な前提を精神分析学者は捨てた方が良い。精神分析学は、宗教や倫理の補完の役割しか果し得ない。その方がよほど健全な心構えだ。宗教や倫理を軽蔑する精神分析学者を僕は決して信用しない。

平成一三(二〇〇一年)四月一五日

 

少年時代の思い出―産業カウンセラー養成講座における「自己開示のための宿題」(一)―

 少年時代の思い出としては、近所の野原や田んぼで昆虫取りや「宇宙基地」ごっこをして遊んだことが忘れられませんが、ここでは、それら自然の中での遊びと同じくらい私が夢中になった、小学校のソフトボールのことを書いてみたいと思います。

 その頃(昭和四十年代前半)は、プロ野球界は川上巨人の全盛期でした。少年たちは皆野球選手に憧れていたものです。私は両親の影響もあって、「アンチ巨人」であり、地元球団である中日ドラゴンズの大ファンでした。私の小学校では、五年生、六年生には必ず二種類の運動クラブに入ることになっていました。小学校低学年の頃から近所の仲間と草野球とも言えないくらいのささやかな「野球ごっこ」に夢中になっていた私は、第一種目は迷わずソフトボールを選びました(その頃の私の田舎では、まだ「少年野球」は普及しておらず、小学校ではソフトボールしかやらせてもらえませんでした)。

 毎日授業が終わってから日没まで、市内の小学校対抗試合に優勝することを目指して、けっこう厳しい練習をしていました。私たちの学校は、それまで数年間優勝を続けており、何試合か連続で勝ち続けていたのです。当時は指や足に怪我をしたり、足の筋肉が引きつったり、辛い思いもしたはずなのですが、今思い出すのは、日々の練習によって技術が向上し、難しいゴロをさばくことができるようになったり、大ホームランをかっ飛ばしたり、といった「成長の喜び」ばかりなのが不思議です。

 印象的なのは、その頃サードの位置を巡って「ライバル」というものを初めて意識したことです。私のライバルはH君といい、九州からの転校生でした。彼に負けまいと、休みの日も父親や近所の友人に頼んで練習をしました。H君もまた私のことを意識していたようです。時としてH君の失敗や怪我を喜ぶ自分を発見しましたが、ライバルの失敗を喜ぶのは卑怯で醜いことであると、「巨人の星」から学んでいましたので、相手の失敗ではなく、自分の成長で位置を勝ち取ろうと努力したことを覚えています。この競争は、結局H君がキャッチャーに回ったため、勝負はつきませんでした。

 私は一番打者でサードという役回りで、正選手として試合に出ることになりました。しかし本番ではなかなかヒットを打てず、他の友だちの活躍で試合には勝ち続け、学校としては連勝記録を守ることが出来ましたが、私自身は疎外された辛い思いをしていました。しかしようやく最後の試合でショート強襲ヒットが出ました。その時、監督を務めていた先生が、飛び上がって手を打って喜んでくれ、私はようやく救われた気持ちでした。その時の先生の仕草は今でも忘れられません。

平成一三(二〇〇一)年四月二二日

 

今の私―初級産業カウンセラー養成講座における「自己開示のための宿題」(二)―

 今の私は、会社での人事の仕事と、家庭での父親および夫としての役割とで一日の大半の時間が占められている。会社での人事の仕事はそれなりに面白い。もちろん、経営の方針やら時間の足りなさなどに対して、不満はいくらでもあるが、人間相手の仕事は、それぞれの人の生きざまが興味深いし、従業員が働き甲斐を感じる職場にするにはどんな仕組みを作ればいいのか、人事制度を考える仕事も楽しい。部下も皆優秀だし意欲も高い。今の仕事には物理的な忙しさ以外のストレスは感じない。

 家庭はどうだろうか。妻とは結婚して十七年になるが、最近は会話らしい会話がほとんど無い。新婚当初の仲の良かった時代から激しくやりあった時代を経て、お互いに相手を傷つけない距離感がわかりすぎてきたのではないか、と思う。子供は中学三年生で高校受験の年である。我が家では(どこもそうだと思うが)、妻が子供の教育の細々した所にあれこれ気を遣いすぎるほど気を遣っているので、私は意識して子供の日常生活にあまり立ち入らないようにしている。そうでないと子供の息が詰まってしまうと思うからだ。しかし彼女がどんな事に興味を持っているのかは大体わかっているつもりである。

 ところで、会社や家庭での私は、いずれも組織の一員としての自分である。私は昨年の五月から自分のホームページを立ち上げて運営しているが、これは、会社と家庭とに還元できない自己を表現、実現するために、今まで書き溜めてきた文章などを順次掲載しているものである。私にとっては、ホームページ運営が、役割に還元されない自分だけの自分を保つために大切な時間だと感じている。見ず知らずの人からメールや掲示板で感想や励ましの言葉をもらうのは、楽しいことだ。

平成一三(二〇〇一)年四月二九日

 

現代の若者たちの繊細さと脆さ

 最近つきあった若い人たちの言動でどうも気になることがあった。まず、後天性聾唖者である友人に結婚することを告げられて、素直に喜べた自分にほっとしたと言うM嬢。自分の感じ方を自分でチェックする、何と繊細で内向きな精神だろう。僕は、あまりに精神的に無菌室で育ってきているような脆さを彼女に感じた。

 次に、言葉の厳密な使い方を習った方がいいF君。「入口を出口にしてはいけない」とは一体どういう意味なのか。ひとりよがりな物言いである。「初心忘るなかれ」という古くからの立派な言い回しがあるではないか。伝統的な言葉をあまりに知らない。

 僕の勤務先銀行の若い人たちの議論が、時に抽象論に傾き勝ちになるのも気になる。結局、古典を知らず、かつ相手と対話する姿勢が欠如し自分の観点にこもっているから、語彙が貧弱で抽象論に傾いてしまうのではないか。

平成一三(二〇〇一)年五月二〇日

 

日本のカウンセリング学の底の浅さ

 初級産業カウンセラーの養成講座を受講していて、日本のカウンセリング学の底の浅さに気づいた。もともとカウンセリング学自体がアメリカ直輸入の学問ないし技法だが、それを満足に理解、翻訳、消化できていない。この講座で使われているテキストでも、「特性」とか「因子」といった基本的な言葉の意味が明確に説明されていないのは不便だし、アメリカのEAP(Employee Assistance Programs、従業員援助制度)におけるカウンセラー資格を取得するのに何が必要かを質問されて即座に答えられないような講師では困る。こういう基礎的な理解や情報収集も生半可な状態だから、日本におけるカウンセリングの応用的活用など思いもよらぬ。日本人の人間観と、キリスト教を背景とするアメリカ人の人間観の相違も意識できていない。人間観が違えば当然カウンセリングの処方も異なるはずである。

平成一三(二〇〇一)年六月三日

 

「感じること」と「考えること」

 「頭ではわかるのだが、心の底からは納得できない」ということがよくある。例えば、仕事上のミスを注意された場合、ある上司に言われる時は、心から申し訳なく、次回からは決してこんなことをしないようにしよう、と素直に反省するのだが、別の上司に注意されると、わかっていはいても心のどこかで「お前なんかに言われたくないよ」という理不尽な反発心が頭をもたげるのを抑えることができないことがある。同じことを言われても、ある上司の場合は素直に受け入れ、別の上司の時は反発する。これは、叱られた人が、前者の上司にはいい感情を持っており、後者の上司には悪い感情を持っているからである。また、同じ上司に注意される場合でも、注意される側の感情の状態によっては、心から納得できる時と反発してしまう時がある。

 つまり、頭で理解することと心から納得することとは別のことなのである。人間関係は頭の理解だけではうまくゆかない。人の「信頼」は、頭で形成されるのではなく、心で形成されるのである。人に信頼されるには「理性」に訴えるだけでは足りず、「感情」にも訴えかけねばならない。理性に訴える力とは主に論理展開力であるが、感情に訴える力とは何だろう? 話し手の信念の強さ、相手の立場に立つ寛容さ、相手を惹きつける明るさなどは、人の感情に訴えるのに必要な要素であると思われるが、感情を動かす方が理性を動かすよりもはるかに多様で複合的な働きかけが必要である。

平成一三(二〇〇一)年七月七日

 

マクドナルドの悪

 職場のメンタルヘルスのコマで、生活習慣病の話があった。生活習慣病とは、食生活などの生活習慣に由来する病気で、心疾患、高血圧症、糖尿病などを言う。ここで、マクドナルドのハンバーグが問題となる。マクドナルドのハンバーグは、コスト削減を極限まで推し進めているため、油も上質のサラダ油ではなく質の落ちるラード油を使っている。ラード油はコレステロールの固まりのような食品素材であり、これを常用していると、心疾患、高血圧症、糖尿病などの生活習慣病に罹患しやすい。東南アジアにマクドナルドが進出すると、進出した国の国民に心疾患が急増することが判明しているという。こんな食い物を放置しておいていいのだろうか。

 近年、ラード油で揚げられたハンバーグと塩分たっぷりのポテトと有害物質の固まりであるコーラを一緒に飲み食いしている若者が目に付く。彼らの体が中年を待たずしてぼろぼろになるのは目に見えている。日本の将来のために、いや、世界の若者のために、こうしたアメリカ産の害毒食品を追放すべきである。ハンバーグ、ポテト、コーラ…これらのアメリカ食品は、日本や欧州やアジア各国の豊かな食文化の破壊者でもある。若者にこれらの食品の有害性を説く教育が是非必要である。家庭では、賢明な親はこうした食品を絶対に子どもに買い与えてはいけない。

平成一三(二〇〇一)年八月一九日

 

英米語の氾濫

 カウンセリング学においても金融や経済の世界同様、英米語の氾濫が目立つ。日本人にとってもはや漢語は実感を以って物事を捉えるのが難しい言葉になりつつあるようだ。これは、漢語で情報や思想を表現してきた先人たちと私たちとのコミュニケーションが図りにくくなるなるということで、由々しきことと僕は考える。

 ベトナムでは、二〇世紀初頭に漢字を使用しなくなったため、人々が歴史書や古典を原文で、つまり漢語で読むことができなくなった。最近になって、政府や心ある知識人が、中国文明の周辺文明たるベトナム人としての自己認識の重要性に気づいて、漢字教育に力を入れはじめているという。韓国でも戦後漢字を廃してハングルだけで表記するようになり、中国文明から派生した豊かな古典文学や歴史書を人々が読めなくなり、過去との分断が起こっている。

 日本は賢明にも漢字かな混じり表現を維持しているため、ベトナムや韓国ほど深刻な歴史との分断は起こっていないように思われる(尤も戦後の漢字かなづかいの簡略化によって、古典との距離は大きく開いてしまったが…)。しかし近年のこなれない米英語の氾濫は、私たちが言葉の意味をよく吟味する力を奪い、意味が曖昧なまま言葉を使う傾向を助長している。日本にこれ以上英米語が氾濫するのを容認してはいけないと思う。私たちはできるだけ、英語を和語、漢語に置き換えて表現すべきだ。「カウンセラー」はさすがに「相談員」でなく「カウンセラー」のままでいいとしても、「メンタルヘルス」ではなく、「心の健康」と言いたい。「アイデンティティ」ではなく、「自己」「自己認識」「出自」と言い、「エンプロイアビリティ」ではなく「転職能力」と言いましょう、カウンセラーの皆さん!

平成一三(二〇〇一)年某月某日

 

人と人とのぶつかり合いの大切さ

 クラスのある女性がクライアント役をやっていて泣いてしまった。彼女は、近所に住む姑さん(義母)との人間関係の難しさを語っていた。母一人で暮らす実家へもほとんど帰らずに、カウンセリングを学んで少しでも義母との折合いをよくしたいと切望する彼女――人と人とのぶつかり合いは、お互いを傷つけずにおれないが、その中から人は人間を学び成長するものであり、その意味で僕は彼女のひたむきさを立派だと思った。人間関係から逃げたりそれを避けたりしていては、いつまでも人間的な情感は育まれない。彼女の話を聞いていて僕も涙があふれそうになった。

平成一三(二〇〇一)年八月二〇日

 

発達心理学への軽侮

 発達心理学は、人生を「九つの役割」とか「四つの舞台」とかにパターン化し、そうした役割をうまく果たし、「社会にうまく適応する」ことを人生の目標にしているようである。「九つの役割」とは、子ども、学生、余暇人、市民、労働者、配偶者、家庭人、親、年金生活者であるという。また、「四つの舞台」とは、家庭、学校、地域、職場であるという。しかし、人間とは、こんな型にはまった「役割」を「うまく演ずる」ために生まれてきたのだろうか。

 発達心理学のちんまりした思想は、「超人」を良しとしたニーチェが生きていたら痛烈に皮肉ることだろう。近代社会の枠にはめられた人生のパターン化を戯画化することだろう。古代の英雄やルネサンスの天才はここからは出現しない。ニーチェは言うだろう「ああ、何とつまらぬ、規格品の人生!」「尋常ならざる才能と情念を宿した芸術家の卵たちよ、世を震撼せしめる英雄の卵たる無頼の徒よ、型にはまった人生を強いる近代社会の小市民の世界、発達心理学とキャリア・カウンセリングの世界を呪い蔑むべし」と。

 例えば、発達心理学では、人間は「学校へ行くこと」がひとつの必要な役割とされているが、モーツァルトもシューベルトも正規の学校教育など一度も受けていない。学校など無くても人間は偉大な能力を発揮できるのだ。

 要するに、近代社会は、人々の平等化を押し進め、人生の変動性を減らし、低リスク・低リターンの人生を人間に押しつけたのだ。凡人や劣人を無理やり引き上げ、天才や鬼才の頭を押さえつけるのが近代社会なのである。近代社会の負の側面を我々は謙虚に自覚しなければならない。そうでなければ、凡庸なくせに奢り高ぶった魂は、歴史と自然から痛烈なしっぺ返しを受けることになるだろう。

(追記)そうは言っても、この初級産業カウンセラー講座を振り返って、僕が最も興味を持てたのは、或いは将来「業」としてやるのであれば、発達心理学とキャリア・カウンセリングの領域であることも事実であります。

平成一三(二〇〇一)年九月三〇日

 

文化に根差したカウンセリング

 カウンセリングには文化的な背景、基盤がある。アメリカにおいては明らかにカウンセリングの背景にキリスト教の精神がある。日本におけるカウンセリングの危うさはこうした文明の背景や基盤を意識していないことにある。日本におけるカウンセリング学は、どこかうわべだけのアメリカからの「借り物」だと感じ、本当に日本人に合った学問かどうか疑問に感じるのは僕だけだろうか。仏教や、山本七平や小室直樹の言うところの「日本教」を基盤にしたカウンセリング理論がどうしても必要である。本当にクライアントが身を委ねられるカウンセラーは、日本文化を体にしっかりと身につけた人である。

 その意味で、日本文化に根差したカウンセリングの必要性を自説としておられた本日の講師である青木羊耳先生を、僕は信頼する。

平成一三(二〇〇一)年九月三〇日

 

産業カウンセラーとしての私の目標

 現在私は会社の人事部門に勤務している。初級産業カウンセラーの勉強をしようと思い立ったのは、日頃人事マンとして社内の多くの人と面談をするのに、面談の相手が少しでも「やる気」を出せるような対話をするにはカウンセリング的な素養が必要なのではないか、と、漠然と感じていたからであった。実際に勉強してみると、予想通りであり、傾聴の技法を学ぶ実習やマズロー、ロジャーズらの理論は日頃の私の実務に大きく役立っていると思う。

 さて、私の産業カウンセラーとしての目標であるが、まず一つ目は、「カウンセリング・マインドを持った人事マン」としてのスタイルをさらに磨くことである。これは日々実践してゆく目標である。

 二つ目は、生涯発達の考えに基づいて、人生二毛作時代のキャリア・カウンセリングを会社の中で浸透させることである。とりわけ女性のキャリア・カウンセリングの必要性は高いと思う。少子高齢化が進むと、企業も中高年や女性を戦力として積極的に活用していかなければならない。そのための仕組みとして、単なる職業選択や会社の中だけのキャリアを扱うカウンセリングではなく、生涯を通じたキャリアのカンセリングが必要であると考えており、会社の中でその仕組みを作り、自ら実践したいと思っている。

平成一三(二〇〇一)年一〇月四日

 

真の自己一致とは何か

 心理学者ロジャーズ曰く「『義務感』や『他者から植え付けられた価値観』から解放された自由な自己に我々は気づくべきである」――この一見救いと希望に満ちた宣言は、しかし、誤解されやすい。「拘束からの解放」という言葉は甘美だが危険である。ロジャーズが言う「義務感」や「他者から植え付けられた価値観」とは、ロジャーズ自身を取り巻いていた純粋培養的なキリスト教のことである。彼は初めての海外経験を中国で何ヶ月か過ごし、そこで初めて異文化の存在を知り、キリスト教の頚木から自由になれたと言う。これは、アメリカ人であるロジャーズを取り巻くキリスト教の束縛があまりに強いことへの反省と読むべきである。私たち日本人にとって、宗教の束縛はごく弱いものでしかない。したがって日本人にとって「自己」や「自己一致」は、ロジャーズとは異なる意味で理解されるべきである。

 少し冷静に考えてみるがいい。我々人間は「何ものにも影響されない絶対的な自己」など持ち得るのだろうか。「自己」とは、環境や文化歴史背景を捨象して絶対的にはじめから存在するわけではない。人は皆、その育った歴史、文化、家庭環境、そして遺伝的形質の集積なのである。「歴史に連なる自己」以外の自己など存在しない。「自己一致」とは、「何ものにも拘束されぬ、自由で絶対的な自己への気づき」などではない。遺伝的形質(その表象たる両親や家族)や歴史、文化、伝統がいかに自己を形成しているかを理解し、そのことを限りなく慈しみ、愛し、その結果、腹の底から、或いは魂の奥から生きる力が湧いてくることである。

 「自己一致」が、この初級カウンセラー講座テキストにあるような「他人から見た自分」と「自分が認識している自分」の一致というようなたわいもない定義なら(例えば、自分では音楽の才能があると思い込んでいた人が他人に音痴と言われ自己認識の過ちに気づくような事例)、まさに日常的なメンタルヘルスの世界だが、ロジャーズの心理学には、もっと異質な思想が混入している。いやロジャーズだけはない。一般的に、心理学や精神分析学は、歴史や文化や伝統に対し皮肉な否定的な見方をする傾向がある。

 心理学や精神分析学は、また、自由という名で、流行を追い求めるだけの刹那主義的な生き方を正当化する傾向がある。歴史や伝統を軽蔑し、放縦な自己肯定に陥りやすい。しかし、自己の源泉がどこにあるのか問わず自覚もしない自己とは、単なる流行に流された軽薄な放縦に過ぎない。社会の中で練磨されない小さなわがままを自己と称しているだけのことだ。

 大人は若い人に媚びず、彼らにこう言うべきだ。「君は君自身で居給え」――テレビや雑誌の「今をときめく人」の上っ面を真似ようとせず、自分の頭で考えよ。考える拠り所は今の流行りものの中には無い。拠り所は、自分の出自(両親、祖父母、ルーツ、生まれ育った地域、そしてこの日本)にある。出自を深く慈しむことが自らを愛し慈しむことにつながり、生きる自信へとつながり、その結果個性的な生き生きした人生を楽しむことが出来るのだ。また、諸君が考える拠り所は過去の偉大な遺産、つまりは古典や歴史の中にしか無い。古典や歴史から学ぶことである。過去の偉大な人物たちの中にこそ、諸君がまねぶべき対象を見出し得るのだ、と。

平成一三(二〇〇一)年一〇月二四日