U.音楽へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ2001年〜2002年編」目次へ戻る
表紙へ戻る

 

江戸の社寺めぐり

 

 東京の街中を歩いていると、よく神社を見かけます。こうした神社にふらりと立ち寄ると、思わぬ歴史の発見があったりしてけっこう楽しいものです。最近立ち寄った神社のいくつかを紹介しましょう。

 まず九段下の小生の勤務先隣にある「築土(つくど)神社」です。ビジネス街の神社らしく、正月には近所の会社の人たちが初詣に来ています。この神社には、高千穂に降臨した邇々杵尊(ににぎのみこと)と、平安時代に朝廷に反乱して一時期関東一円を支配した平将門の二柱が神として祭られています。ここに限らず、東京の神社にはしばしば平将門が祭られています。将門がこれほど手厚く鎮魂されてきたということは、古代の関東地方において平将門の乱がいかに衝撃的な出来事だったかを示すものでしょう。

 築土神社から徒歩一〇分くらいで西神田の「三崎神社」に着きます。ここは、江戸時代に参勤交代の大名たちが旅の無事を祈るために必ず詣でた神社だそうです。この神社へ立ち寄り、江戸詰めから解放されて久々に領地へ帰る大名たち一行の気持ちはどんなだったのでしょうか。

 三崎神社から水道橋を抜けて本郷へ入ると、「三河稲荷神社」という小さな神社を見つけました。三河地方出身の小生としてはこの神社の由来が気になって入り込んでしまいました。神社の来歴書によれば、この三河稲荷神社は、もともと三河国碧海郡上野郷にあって徳川家康の信仰厚かったため、家康が江戸に入る際に移って来たとのことです。碧海郡は三河西部の平野地方で、今の刈谷市、知立市あたりですが、上野郷というのはどの辺なのでしょうか。家康の江戸入府に際して三河からついて来たのは武士だけではなかったのですね。そう言えば商人たちも来て酒屋などを営むことが多かったので、東京の酒屋は「三河屋」の商号が多いというのをどこかで読んだことがあります。

 さて、本郷を北へ上がり、赤門から東大の校内を歩いて池之端門へ出た所に「境稲荷神社」があります。ここは、室町幕府の第九代将軍足利義尚が一五世紀後半に普請した神社で、忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境目に位置することからこの名が付けられました。この神社の脇に「弁慶鏡の井戸」がありますが、これは、兄頼朝に追われて奥州に落ちて行く途中の源義経一行がここを通った時に弁慶が見つけた泉なのだそうです。このささやかな井戸が、昭和二〇年の米軍による東京大空襲の際、人々を渇きから救ったという記録を読むと、感謝の気持ちで神社を詣でないわけにはいきませんでした。

 上野の山で、新緑の鮮やかな色と草いきれの匂いに木々の生命力が横溢するのを感じた後、両大師堂へたどり着きました。両大師堂は神社ではなく仏教寺院で、家康のブレインであった天海僧正が、その尊崇した一〇世紀の名僧慈恵とともに祭られています。慈恵は仏教論理学に優れ、その著作が中国にも送られてかの国の仏教者たちにも賛嘆されたほどであったとのこと。徳川初期政権を支えたブレイン天海は、こうした論理学に強い大先輩に学んで、シャープな頭脳と卓抜な政治感覚を身につけたのでしょうか。

平成一四(二〇〇二)年四月二九日