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「古典派からのメッセージ2001年〜2002年編」目次へ戻る
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荘子と孔子―アッシュさんの書き込みへの感想

 

〈アッシュさんの書き込み その一〉

 管理人さん、はじめまして。荘子で検索していてたどり着きました。管理人さんがどういう方なのか失礼ながら、まだ充分わかっていませんが、銀行員の方なのでしょうか。いえ、そんなことよりも古典を幅広くお読みになっているので驚きました。言い遅れましたが、わたしは三十代で、本好きの東海地方在住の会社員です。管理人さん、荘子はすばらしい思想家です。決して変人なんかじゃありません。精神的に自由になる法を説いた人です。わたしは尊敬しています。

 

〈書き込みへの管理人コメント〉

 アッシュさん、書き込みありがとうございました。小生も老荘思想大好きです。アッシュさんの言う通り、荘子はとらわれなき自由人です。本文の「荘子(内篇)を読んで」「湯川秀樹氏と荘子」を読んでもらえばおわかりの通り、世の中の多くの評家や歴史家が荘子を変人奇人扱いしてきましたが、福永光司氏や湯川秀樹氏のような感性の柔らかな人たちに導かれて、小生は高校生時代以来、荘子を愛してきました。

 

〈アッシュさんの書き込み その二〉

 昨日は言い足りなかったので、補足します。フランス人の中国学者が書いた老荘思想の本を拾い読みしていたら、わたしが長年感じていたことがそのまま書いてあったので、うれしい思いをしました。西洋知識人は老荘思想を好む人が多く、論語をはじめとする儒教はあまり好まない、とのことです。しかし日本人には、「中国は儒教国家である」という強力な先入観があるために、西洋人の好みが理解できないようだ、というのです。

 何故、論語をはじめ儒教が好まれないのか。ヘーゲルは論語を仏訳だか独訳だかで読んで、次のような言葉を残しているのですが、これが西洋人の考え方を代表するものだと言ってよいでしょう。

「論語に書いてあることは、常識で理解できる通俗的な哲学である。この程度の哲学ならどんな民族も持っている。論語に書いてあることは、西洋の古典を読めばどこかに必ず書いてあることであり、論語を読むくらいならセネカを読んだほうがはるかによい。孔子の名誉のためにも、論語は翻訳されなかったほうがよかったとさえ言える。」

 たしか司馬遼太郎がどこかで書いていたのですが、論語の英訳をアメリカ人に読ませてみたら「インディアンの酋長の話みたいだ」と言ったそうです。わたしはこれを読んで笑い出してしまったのですが、ヘーゲルの言葉といい、このアメリカ人の言葉といい、わたしが長年感じてきたことと同じです。

 もうひとつ私が論語を好まない理由は、論語の中に、「人の上に立つ人は徳をもって立っている」という意味の言葉があります。わたしの解釈では、孔子が言いたかったのは、客観的に観察すればそう見える、ということだったはずです。それを後世の人間が勝手に拡大解釈して、「人の上に立つ人は徳を持って立っているのだから、下にいる人間はおとなしく従いなさい」という教えに作り変えてしまったのではないでしょうか。これは言うまでもなく、権力者には都合のいい教えになります。アジア諸国の権力者が儒教を統治原理として尊重した理由がよくわかります。

 わたしは西洋知識人の言うことを単にありがたがっているわけではなく、彼らのほうが論語・儒教の特質を客観的によく見ているのではないか、と考えるのですがいかがでしょうか。

 

〈書き込みへの管理人コメント〉

 小生は儒教というより孔子という人が大好きです。孔子といえば封建道徳の元祖という程度の認識の人もいるようですが、そういう左翼的固定観念やステレオタイプの見方から離れて「論語」を読むと、実に感性豊かな「人間孔子」が立ち現れてきます。肉の味も忘れるほど大好きな音楽に聞き惚れてしまったり(「論語」述而編)、政治的野心や官僚的出世よりも季節の散策や詠歌を大切にする(「論語」先進編)人なのです。

 確かに孔子の思想は近代西洋哲学から見れば雑多な思索の寄せ集めに過ぎないかも知れません。しかし、雑多といえば、聖書や仏典やプラトンの対話編だって決して体系的とは言えません。しかしそうした古代から伝承された聖典たちには、人生の「知恵」が詰まっています。小生は、古典を読む時には近代以降の知の営みや思考形態にとらわれてはいけないと考えます。古典を近代の思考枠で解釈するのではなく、古典を素のままに体に注入するような読み方が人間には必要だと思います。そのことは、最近、斎藤孝氏が「声に出して読みたい日本語」(草思社刊)で述べておられますし、丸山真男のような、「近代派」に属しながらも歴史や古典の意味もよくわかっていた人が繰り返し説いています(本文中の「丸山真男と古典」参照)。

 司馬遼太郎の「アメリカ素描」は小生も読みましたが、「論語」をアメリカ人が「インディアンの酋長の話みたいだ」と言ったことについて、小生はアッシュさんとは違う感じ方をしました。小生は、インディアンもモンゴル系の人種として、古代中国人と同じような感性で様々な人生の知恵を言葉に残したのだな、と感じたのです。小生はインディアンを野蛮人だとは思いません。思考形態の異なる現代アメリカ人がインディアンの知恵を理解し得ないだけのことです。論語を通じて古代中国人とインディアンの共通項を鋭敏に感じ取った司馬さんの直観力は素晴らしいと思った次第です。

 

〈アッシュさんの書き込み その三〉

 当方よりの突然でぶしつけな私見に対して、丁寧なご返事をいただき本当にありがとうございます。あらためてお礼を申し上げます。わたしは老荘思想を好むと言いましたが、この思想にも問題がないわけではありません。中国の知識人の間には、「荘子の毒にあてられた」という意味の言葉が伝わっているそうです。

 政治家の宮沢喜一氏は老荘思想に造詣が深いのだそうです。氏が時折見せる受身の態度はその影響ではないかと、わたしはひそかに考えています。氏が首相を勤めていた時期、日米摩擦が激しかった頃、氏の失言がアメリカ側の反発を招いたことがありました。たしか、「黒人・ヒスパニック系は労働意欲が低い」という趣旨の発言だったと記憶しています。アメリカ側の反発に対して、氏は何ら弁明することはなく、「まあ真意をわかってくれる人もいるでしょう」と言っただけでした。

 中国の政治家も教養の一環として老壮思想の本を読むそうです。しかし中国の政治家は厳しい権力闘争の中を生きてきたせいか、宮沢氏のような受身の態度は取らず、自己もしくは自国が不当に攻撃されると、すかさず反撃に転じたりしているようです。国際政治の常識から言えば、こちらのほうが当然と言えば当然の態度なのですが。中国の政治家は、老壮思想の本は読んでも影響を受けないのでしょうか。それがわたしには不思議でなりません。どうやら、本を読んでどういう影響を受けるのか自分でコントロールできる所まで行かないと、本物の読書人とは言えないのではないでしょうか。

 渡部昇一・谷沢永一共著「三国志 人間通になるための極意書に学ぶ」(致知出版社)を読んでいたら、「日本人は孔明から影響を受けすぎたのではないか。結果はともかく義のために戦う、という孔明のような発想は伝統的な中国人にはない。むしろ孔明のライバルだった司馬仲達のような人物こそ典型的な中国人であり、学ぶべき対象だった。それは勝てなくても負けなければいい、と考えて最後には勝って生き残っているような発想の人物である。こういう発想は旧日本軍にはなかった。」と述べていて面白いと思いました。

平成一四(二〇〇二)年四月二一日