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丸山真男と古典

 

 丸山真男「文明論之概略を読む」をかじり読みする。この思想家が福沢諭吉という個性と直に向かい合う姿は、まるで小林秀雄が本居宣長と向かい合う姿と同じなのは驚くべきことだ。この書の冒頭における丸山氏の古典観、歴史観は、小林が何度も何度も様々な変奏を以って繰り返し述べてきたものと全く同じと言ってよかろう。

 

「古典を読み、古典から学ぶことの意味は――すくなくとも意味の一つは、自分自身を現代から隔離することにあります。『隔離』というのはそれ自体が積極的な努力であって、『逃避』ではありません。むしろ逆です。私たちの住んでいる現代の雰囲気から意識的に自分を隔離することによって、まさにその現代の全体像を『距離を置いて』観察する目を養うことができます。…(中略)…

 いうまでもなく、『文明論之概略』の学問的研究のためには、維新直後の時代背景とか、福沢が依拠したT・バックルやF・ギゾーとの関連とか、さらに福沢の全生涯とその思想の歴史的変遷とかいう問題の中で、この書物を位置づけることが必要です。けれどもここでは、あくまで古典から学ぶための一つのサンプルとしてこの書物をとりあげるわけで、したがってそういう歴史的背景の詮索をひとまずヌキにして、読者とともにじかに原典にぶつかって行くことにします。

 古典に対するこうした『直接の』対面という仕方には、しばしば歴史学者の側からの強い抵抗があります。およそ時代の歴史的諸条件の十分な理解なしにどうして福沢の書物と思想とを語れるのか、という疑問が、歴史家の間髪を入れない反応です。商売柄もっともであり、また古典の歴史的理解のためにはもちろんのこと、古典の内容の解釈のためにもそうした知識があるに越したことはないでしょう。

 けれどもサンプルを変えて、たとえば『論語』とか、プラトンの『国家』といった思想的古典をとってみると、歴史的諸条件とか社会的基盤とか言っても、それほどはっきりしたものでないことが分ります。春秋戦国時代の中国とか、紀元前四世紀ごろのギリシアの都市国家について、現存の資料でどこまで経済的基盤とか支配関係の実態が解明されるでしょうか。孔子やプラトンの生涯さえ不明なことが多いのです。にもかかわらず、『論語』にしろ、プラトンの対話編にしろ、格別立ち入った歴史的基盤を問うことなしに何千年も読まれ、語り継がれ、そういう仕方で影響を与えてきたのは厳然たる事実です。…(中略)…

 私の先生で、数年前に故人となった南原繁という学者がいます。南原先生と話していて談たまたま『論語』に及ぶと、先生は『あの人はね』云々というのです。『あの人』というのはむろん孔子のことです。けれども『あの人はね』といわれると、何か孔子が同じ町内に住んでいる老人のようで、私などには、そこに漂う一種の不自然さがおかしみを誘いました。けれども、この何気ない言葉遣いのうちに、古典――先生の場合には専攻からいって主として西洋政治哲学ですが――と直接かつ不断に対決してきた精神の軌跡が躍如としています。…(中略)…

 私のように青年時代からいわば『歴史主義的』思考の毒に骨の髄まで冒された者にとっては、こういう先生の態度にはどうしてもなじめないものがありました。けれども、政治思想史の方法論としては、そこにどんな批判の余地があろうとも、これこそまさに古典を読み、古典から学ぶ上での最も基本的な態度であり、しかも現代日本ではますます希少価値になってゆく心構えだと思います。こういう心構えで福沢を読んでみようというわけです。孔子やプラトンさえ隣人なら、同じ日本の、しかも、たかが一世紀前の人間が私たちのすぐお向かいに住んで、『文明論之概略』を書き下していても一向不思議はないはずです。」(丸山真男「文明論之概略を読む」序から)

 

「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきり逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない。そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういうことをいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。…(中略)…

 歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕らに余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕らを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。」(小林秀雄「無常ということ」から)

 

「彼ら(伊藤仁斎や荻生徂徠)が、古典を自力で読もうとしたのは、個性的に読もうとした事ではない。彼らは、ひたすら、私心を脱し、邪念を離れて、古典に推参したいと希ったのであり、もし学者が、本来の自己を取り戻せば、古典は、その真の自己を現わすはずだと信じたのである。」(小林秀雄「弁名」から)

 

 以上の引用からわかるように、全く立場は異なるが、偉大な思想家(思想紹介者ではなく、考える人としての思想家)として、小林が最後に宣長との「対話」を選んだのと全く同様に、丸山氏が最後(?)に福沢との「対話」を選んだことは、二人の古典や歴史に向かう姿勢が、ほとんど奇跡に近いほど、似通っていることを示している。

 この二人はもともとの専門領域が全く異なっていた(小林はフランス文学、丸山氏は政治思想史)うえに、二人の思想は、ほとんど一八〇度と言っていいほど異なる方向を向いて展開した。

 丸山氏は、戦前、マルキシズムを中心とした抽象的思想体系(様々なる意匠)への小林秀雄の攻撃が、普遍者の無い日本で、次第に戦争という既成事実への追従と決断主義(葉隠れの世界)へと行き着いた様を、苦い筆致で描いている(「日本の思想」)。戦前の日本型ファシズム、超国家主義への怨念を出発点としている丸山氏としては、当然の視座であろう。一方、小林が戦後の一億総懺悔の時代にきったと言われる啖呵「利口な奴はたんと反省するがいい、僕は馬鹿だから反省なぞしない。」は、先の戦争については何でも反省して詫びれば済むといった戦後の安易な政治・外交が行き詰まりつつあり、真に主体的な外交の確立が必要となって来た近年の状況に、大きな一石を投じている(そもそも戦争それ自体には、どちらかが一方的に善玉で相手は一方的に悪玉であることなどあり得ない。日中戦争史、太平洋戦争史については、日本国民が納得し得る、もっと冷静で世界史的見地からの見直しが必要だと僕は思う)。

 政治的スタンスはかくも異なっているが、二人とも真の古典の読み手であり、古典や歴史に向かう物腰は明らかに共通している。また、両者は、思想家としてたまたま同じ素材を扱っていることもある。例えば、小林にも福沢諭吉を論じたエッセイがあるが、僕は両者が同じ素材をどのように扱っているか非常に興味がある。福沢については、丸山氏の「文明論之概略を読む」をもう少し子細に読んでから考察したい。また、伊藤仁斎や荻生徂徠ら江戸時代の儒学者も両者共通に取り上げているが、江戸儒学についての僕の底の浅い知識では比較のしようがない。後日の勉強課題としよう。

(一九八六年八月三日)

 

丸山真男(一九一四年〜一九九八年)

戦後日本の代表的政治学者。戦中応召し、戦後間もなく発表した「超国家主義の論理と心理」でセンセーションを巻き起こす。戦後進歩派の偶像的存在。大学紛争直後に東大を退官し、以降、現実の政治状況については沈黙を保った。

小林秀雄(一九〇二年〜一九八三年)

戦前、戦後を通じて我が国を代表する評論家。戦前はプロレタリア文学運動に対抗して同人誌「文学界」を創刊。戦後は、歴史、芸術などを素材に、古典主義の美学を貫いた思想を展開した。保守派の守護神ともいうべき存在。

 

〈参考にした文献〉

 丸山真男「文明論之概略を読む」(岩波新書)

 丸山真男「日本の思想」(岩波新書)

 小林秀雄「無常ということ」(新潮文庫)

 小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫)