薪能を観る 新宿御苑で復活第一回薪能を観る。一六万坪の芝生と森の中での野外の能楽は、二六年ぶりの復興なのだそうだ。演目は、能「翁」、狂言「棒縛」、能「羽衣」という、僕のような能の素人にも親しみやすいものばかり。広い空間の中での能鑑賞の妙味は、能楽堂での鑑賞のように面や舞いの微妙な表情やニュアンスを味わうというよりは、むしろ全体として伝わる雰囲気や、音楽としての見事な「和声」を味わうことにある。 「翁」は、ストーリーというべきものはなく、演劇というより、長寿と豊作を祈願する儀式とでもいった性格を持つ。古来、めでたい催しの冒頭に舞われてきたというが、本日の復興第一回薪能の冒頭を飾るのにこれ以上ふさわしい演目はあるまい。「翁」の音楽や舞いの、力強く根源的な生命力、跳躍感は、何か僕に「神代」すら感じさせた。 狂言「棒縛」。主人の留守に酒を盗み飲みする召使の太郎冠者、次郎冠者。今日は主人は二人を縛って外出する。しかしそれくらいのことでへこたれる両人ではない。後ろ手に縛られたまま遂に酒を飲むことに成功する。不格好な姿で舞われる舞の滑稽さ。そしていつの間にか主人が帰ってきている…。盃に映る主人の顔を見て「さてさて吝(しわ)そうな顔ぢゃなあ」「誠に憎々さうな顔ぢゃ」と両人は主人を茶化す謡曲を歌う。「棒縛」は、人間喜劇だが、野村万之丞たちの見事な立ち居から、庶民の生きる喜びと悲しみとが照射され、僕には涙が出るほど純粋なものに感じられた。 「羽衣」は、言うまでもなく、天の羽衣伝説に題材を得る。美しい天女は三保の松原に降りて水浴中に、漁師に羽衣を取られてしまう。天女の懇願に漁師は羽衣を返し、天女は美しい舞を舞う。シテ・金春信高氏の舞いは幽玄そのもの。遠くからでも、音楽と全体的な雰囲気からその幻想性を十分味わうことができた。 能は歌舞伎と違って見物人に想像力を求める芸能である。「秘すれば花」「言ひ残す」「言はぬところに心をつける」といった言葉が、世阿弥を始めとする室町時代の芸人たちに共通のキャッチフレーズであった。西洋の演劇では、人間の内面をできるだけ表に描き尽くそうとするのに対し、能では、できるだけ表現を少なくしてあとは見物人の想像に任せる。人間の底に渦巻いているあらゆる感情や情念が、簡素な表現から自然に滲み出るように作られているのが能なのである。我々は大いに空想しなければならない。今世紀に至ってようやく象徴主義の技法を持ち得た西洋の演劇家や音楽家が能に惹かれる理由もまさにここにある。 能は形式や様式に縛られた古くさく形骸化した芸術だ、などと思っている人は、大いに間違っている。台本である謡曲は簡素なもので、それをどう解釈するか、どういう面をかけどんな装束を附けるか等は役者の裁量に委ねられる。役者の解釈の自由度が極めて高く、その意味では、能は常に新しく生まれ変わる芸術である。シェークスピア劇が永遠の生命力を持っているのと同様に、「敦盛」や「道成寺」も永遠に命を失うことはないだろう。私たちが偏見無く能に接しようとする限りは…。 (一九八五年一〇月三一日) 世阿弥(一三六三年〜一四四三年) 能楽の大成者。室町三代将軍足利義満の保護を受け、幽玄を本旨とする芸風を確立する。著書「花伝書(風姿花伝)」は、能に限らず芸術一般についての奥義を述べたものとして有名。 〈参考にした文献〉 林望「林望が能を読む」(青土社)