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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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胡蝶の舞

 

 小松市公会堂で宝生流能楽「胡蝶」を観賞しました。シテ(里女、のち胡蝶の精)は我が謡の師である藪俊彦氏、ワキ(旅の僧)は苗加登久治氏ほかの皆さんによる演能でした。「胡蝶」のあらすじは以下の通りです。

 『吉野の奥に住む僧が、花の都を見物しようと上京し、一條大宮のあたりにやって来ると、そこに由緒ありげな古宮があり、御殿の階の下に梅が今を盛りと美しく咲いています。僧が立ち寄って眺めていると、人気(ひとけ)無さそうな家の中から、一人の若い女が現れ、声をかけてきて、この御殿や梅の木について語ってくれます。僧は喜んで、女の素性を問いただすと、実は自分は人間ではなく、胡蝶の精だと明かします。そして「春、夏、秋と草木の花から花へと戯れる身ですが、まだ自分が姿を現わすことの出来ない早春に咲く梅花とだけは縁が無いのが悲しく、御僧におすがりし、法華経の功徳を受けたいのです」と言い、荘子が夢で胡蝶になったという故事や、光源氏が童たちに胡蝶の舞を舞わせて舟遊びをしたという故事を語り、もう一度、御僧の夢の中でお会いしましょうと夕空に消えて行きます(ここまでが前半)。

 さて、夜になって、僧が読経して木陰に仮寝をしていると、その夢に胡蝶の精が現れ、法華経の功力によって梅花とも縁を得たことを喜び、花に飛び交う胡蝶の舞を見せ、やがて春の夜の明け行く霞の空に去って行きます。』

 「胡蝶」は、能について一般的に言われる深遠とか幽玄とかいった趣の曲ではなく、また、人間の情念や怨念が癒される展開の「昇華劇」でもありません。むしろ、胡蝶の精を主人公とする可憐で軽みのある能劇で、まことに早春にふさわしい華やいだ曲だと感じました。

 舞台の正面には紅梅の立木が設えられ、物語が梅を中心に展開することを象徴しています。ワキの僧もこれを眺め、前シテもこれを見て泣き、後シテもこれを巡って華麗に舞うのです。胡蝶の精の女面は、前半には、早春に存在し得ないはかない生き物として、可憐でつつましやかな表情に見えたのに、後半は、梅の花と戯れるシテの舞の様(さま)により、その表情が喜悦にあふれていたように見えたのは、それこそ仮面劇の最高の効果だとわかってはいても、実に不思議で幻想的な光景でした。

 それにしても、どんな演劇の主役でもそうかもしれませんが、この能のシテの役者としての演じ甲斐と充実感はいかばかりでしょう。可憐さを漂わせる前半の里女の姿から、後半は、紫と赤を基調にした華やいだ長絹の装束に胡蝶をかたどった金冠をつけた姿に変身して登場し、華麗な舞を見せるのです。観衆の驚きと溜め息とが手に取るようにわかるシテのエクスタシーはいかばかりでしょう。

 また、地謡の斉唱と笛、大鼓(おおつづみ)、小鼓(こつづみ)、太鼓の四重奏とが醸し出す、えも言われぬ緊張感、しかもそれらがテンポや謡い方の変化によって物語の展開を暗示している様(さま)は、音楽としての能の素晴らしさも堪能させてくれました。

 この曲の最後の場面はこんな具合です。思わず口ずさみたくなるような名調子です。

 『春夏秋の花も尽きて、霜を帯びたる白菊の、花折り残す枝を廻(めぐ)り、廻り廻るや小車(おぐるま)の、法(のり)に引かれて仏果に至る、胡蝶も歌舞の菩薩の舞の、姿を残すや春の夜の、明け行く雲に羽(はね)打ち交し、明け行く雲に羽打ち交して、霞に紛れて失せにけり…』


*         *         *


 たまたま二月二一日の朝日新聞の夕刊に、作曲家の細川俊夫氏がこんなことを書いておられました。

 『私は西洋オペラの愛好者ではない。オペラ音楽は好きなのだが、歌手たちの紋切り型の演技にはついてゆけない。それがヨーロッパ人だったらまだ何とか我慢できるが、日本人が大袈裟な表情をして歌うと、思わず目を伏せたくなる。

 私の頭のどこかに、音楽・言葉・所作が様式的に統一されている能のイメージがあり、それが西洋オペラを遠ざけるのだろう。…(中略)…能には、世界的に見ても独創的で深遠な表現があった。しかし今の能を見ると、…(中略)…なぜあんな明るい能楽堂で演じるのか。なぜももう少し工夫をした演出が無いのか。

 こうした疑問から新しい「能オペラ」を作ろうと思った。台本は現代作家に書いてもらい、音楽は能楽で使う楽器は一切使わない。そして能楽師に指導を受けながら、新しい演出をする。衣装も舞台も現代のアーティストによって作ってゆく。既にある能を模倣するのではなく、能の優れた抽象性と精神を学びながら、現代に生きる斬新な「能オペラ」を生み出してみたい。』

 確かに日本人の演じる西洋オペラは様になりません。逆に西洋女性の和服姿は悪趣味に見えます。やはり自身の文化に忠実であるに如くはありますまい。細川氏のように、自らの出自(アイデンティティ)をよくわきまえ、伝統に学びつつも、現代に生きる芸術を創作する志を持つことは貴重です。氏の「能オペラ」の完成を心から待ちたいと思います。

平成一五(二〇〇三)年二月二三日