福田恒存全集読書メモ(二〇〇三年〜二〇〇四年)
近代日本文学界の宿命
福田全集第一巻冒頭の「近代日本文学の系譜」を読む。古代から近代に至るまでキリスト教が一貫するヨーロッパに対し、背骨無き近代日本。明治維新と共に自己を喪失せざるを得なかった哀しき宿命。そこでは、文学が自己完成の堅実な営みではなくなり、自己主張、自己美化、特権的地位獲得の手段へと変容して行った。福田氏は、膨大な作品を渉猟した上で、誠実な文学者として、また、確かな目を持った歴史家として、近代日本文学界の特殊な宿命を論じている。
平成一五(二〇〇三)年三月七日
作家論
福田全集第一巻の前半は、生き方に照らした作家論で占められている。福田氏は、作品のひとつひとつに丹念に当たりながら、その作家の生きる姿、生活者としての誠実さ、信念の確かさ、志の高さを厳しく問う。氏は、横光利一を切り、萩原朔太郎を切り、宮本百合子を切り、石川淳を切るが、切られる作家には切られるだけの理由と責任があるのだ、と読者を納得させるのは、氏の生活者としての揺るがぬ倫理から出づる筆力である。私たちは福田氏のこの倫理力を感じ取るべきである。作家だから、芸術家だから、といった甘えを氏は許さない。彼らの特権意識、被害者意識、生活者としての甘さといった歪んだ自意識が容赦無く抉り出されるのである。
一方で、氏は、芥川竜之介の含羞を擁護し、永井荷風の深い詠嘆に心から共鳴する。その基調には、文明を取り入れるのに急ぎすぎて人間の倫理を置き忘れがちな近代日本の宿命への深い思い入れと関東大震災前の古き江戸文化への郷愁がある。
また、小林秀雄論における氏の率直さは驚くばかりである。批評家として自分の生きる道を示したのが小林であったことを、これほど率直に語った文章があるとは、僕には胸がときめくほど新鮮に感じられた。
平成一六(二〇〇四)年一月三〇日
大衆を拠り所にした本物の倫理
第一巻所収の「大岡昇平」は、思想劇とも言うべき内容である。ストイック(禁欲主義)であり偽悪家でもある点では大岡氏と共通している福田氏だが、大衆への信頼の有無で大岡氏とはっきり袂を別つのである。この同一化と決別とがまさに思想劇なのである。戦後の混乱の中で欲望にとらわれて右往左往する大衆の愚劣さを暴きながら、それでもなお福田氏は大衆に依拠しようとし、大衆を愛し信頼している。
大衆への依拠と信頼ということが無ければ本物の倫理は確立できまい。第一巻に収められた数多くの文芸評論は、単なる作家論や作品解説ではなく、常に良質の倫理学のテキストであるが、それは、氏が自らの言説と生き方に潔く責任をとっているからであり、同時に、大衆への依拠と信頼があるからである。戦前に流行った風刺文学の安易さに対する厳しい批判にも、福田氏の倫理の高さがよく現れている。
平成一六(二〇〇四)年六月七日
ロレンスとチェーホフ
第二巻前半の外国作家論では、ロレンスとチェーホフが最も印象に残った。ロレンスは、「個人的自我対集団的自我」という福田の思想の重要なテーマのひとつを喚起した作家である。「人はひとりになった時にのみ、はじめて眞のクリスト教徒たりえ、仏教徒たりえ、そしてプラトニストたりうる。が、イエスにしても弟子の前に出た時はひとりの師であり、ひとりの貴族であることを免れ得なかったし、人々の英雄崇拝熱に乗せられぬためには非常な意思の努力を必要とした。」(全集第二巻「ロレンスT」より) それゆえ、「ぼくたちは――純粋なる個人といふものがあり得ぬ以上、単なる断片に過ぎぬ集団的自我といふものは――直接互ひに互ひを愛し得ない。なぜなら愛はその前に自律性を前提とする。が、断片に自律性は無い。…(中略)…近代は個人それ自体のうちに自律性を求め、そして失敗した。自律性はうちに求めるべきではない。個人の外部に――宇宙の有機性そのもののうちに求められねばならぬ。ぼくたちは有機体としての宇宙の自律性に参与することによって、みづからの自律性を獲得し他我を愛することができるであらう。」(同上)
つまり何らかの共同体、個々の人間を超越した存在(=宇宙!)に依拠してしか人は他人を愛し得ないのである。僕は、これは、個人の自律性を確立すれば人は容易に他人を愛することができるという、あまりに楽天的であった近代個人主義の失敗を克服するために大事な認識論だと思う。
それとともに、ロレンスを通じて、福田は西欧の伝統がいかに根強いものかを観察する。というのも、ロレンスが如何に西欧伝統のキリスト教や合理主義に反発しようと、「彼の異教徒礼賛を通じてイエスの愛の訓へがひそかにみづからを主張している」(同上)からである。この観察も正しい。私たちは「西欧の没落」などを安易に信ずるべきではなかろう。
一方、チェーホフ論において、福田はチェーホフの本質をこう語る。 「人間とその生活とに対する眞の無垢の愛情――それのみが論理の世界を放下して生きる無執着の態度を保証し得るのである。チェーホフの作品があれほど軽快で透明でありながら、しかも雄勁な線を、甘美でありながら、しかも厳正な線を持っていた秘密はそこになければならぬ。チェーホフの目には、…(中略)…トルストイの道徳よりは指物師プトィガの技能の方がはるかに貴重に思えたのである。」(全集第二巻「チェーホフ」より)
僕は、福田のチェーホフ論に啓発され、それまで読んだことも無かったチェーホフの代表作のひとつ「伯父ワーニャ」を読んでみた。この戯曲では、都会生活をしてきたインテリの他人を愛し得ない自意識の病理と、田舎娘の純粋さとが対比されている。しかし、この劇は、インテリを告発したり田舎娘を擁護したりはしない。むしろ、それらの人々をすべて包み込むような静かな諦念と憐憫と微笑みに充ちている。僕はそう感じ、何ともいえぬ慰めに似た読後感を得た。確かにこうしたチェーホフのヒューマニズムは、トルストイの威圧的なヒューマニズムとは異質のものであろう。
僕がこうしたロレンス論やチェーホフ論を読んでいて強く感じるのは、晦渋な思考と表現を経ながらも、実は、福田が最後の最後では人間の善性を信頼し期待しているということである。それは、上っ面ではない、人間の悪を見つめ尽した上での、深々とした慈愛とでもいうべき福田の人間性である。
平成一六(二〇〇四)年某月某日
鴎外への眼差し
福田は、森鴎外の保守主義ないしは封建時代擁護とも思える作風に、むしろ深いヒューマニズムを読み取る。それは、封建時代に現れた「悪」を、いつに時代にも建設と秩序維持に必要なものであるとの観察から発している。悪の無い秩序は無く、悪に依らない革命は無い―この当たり前のことを進歩的知識人たちは直視しようとしない。彼らの思考停止した幼稚なヒューマニズムから比べると、鴎外のヒューマニズムははるかに深い。福田は次のように述べる。
「鴎外はもう史実以外のなにものをも記述しようとは考へなかった――それもまことに封建的な、平凡な生活者の『屈服』の生活だけを。が、このやうに鴎外の『屈服』が激しくなればなるほど、実は彼の人間性のための戦ひは正比例して激烈化し、彼のヒューマニズムは厳しい光を放つに至ったのだ。」(全集第二巻「急進的文学論の位置づけ」より)
「封建時代がその有機的秩序を維持するために、許した―といふよりは称揚した―悪の数々を思うてみるがよい。知識人の潔癖はそれを嫌悪し否定しようとする。彼らは切腹や仇討に不気味な蒙昧の匂ひを嗅ぎ付ける。鴎外はそれを凝視し、それに耐へた。それは果たして冷たい傍観者の眼のよくなし得ることか。選ばれてある者の責任であり、渦中にあって生きる者の意思的行為ではなかったか。」(全集第二巻「告白といふこと」より)
平成一六(二〇〇四)年某月某日