私の「謡・仕舞」稽古日誌(二〇〇四年)
「高砂」で初舞台
先週の日曜日に「篁宝会(こうほうかい)」の新年会が能楽堂であり、小生も仕舞「高砂」と謡「鵜飼」を披露させていただきました。仕舞で舞台に立つのは初めてだったのですが、薮先生はじめ諸先輩の丁寧な謡に支えられて、何とか立ち往生すること無く舞い終えました。舞台が引けた後、会の懇親会がありました。七十人くらいの方がいらっしゃったでしょうか。男女比率はやや女性が多い感じでしたが、八十歳過ぎから二十歳代まで、キャリアも三〇年以上の人から去年始めたばかりの人まで揃い、華やかな宴になりました。そこで小生もいろいろな人たちとあらためて出会いお話しを聞かせていただき、心楽しい一時を過ごしました。それにしても、こんなに多くの人たちが薮先生を慕い、その小柄なしかししっかりとした背中を見つめて芸に打ち込んでいるのだと、金沢の宝生流能楽を支えている同好の方々の熱気に感じ入りました。
藪先生は、こうしたお弟子さんたちの稽古のほかにも、小学生に仕舞などを教えられたりと、加賀宝生の裾野を広げ明日の能楽界を背負う人材を育成するためにさまざまな活動をしておられます。その一方で、先生ご自身は、技術的にも精神的にも素人からは隔絶した実力を練磨されています。プロが超人的な芸を見せられなければ能の美は継承も展開もされません。懇親会の席でお話した方から、近年、金沢定例能での地謡が弱くなっているとのご意見をお聞きしました。小生は鑑識眼も無くよくわかりませんが、NHK・FM放送から録音した、往年の宝生流の名人、松本恵雄さんがシテを演ずる「自然居士」や「綾鼓」の実演を聞くと、確かに地謡のメリハリある劇的な謡い方は感動的です。小生の鑑賞経験では、藪先生が地頭をされていた昨年の「錦木」の地謡は充分盛り上がりがあったと思いますが、概して金沢定例能での地謡は淡々としすぎているかもしれません。お弟子さんたちは厳しい評家でいらっしゃることもあるのです。
先生はこの日の新年会に備えて番組を組み、準備をされ、当日はほとんどの仕舞で地謡を謡われ、欠席者があれば代役も務め…と、本当にお疲れ様でした。ここ金沢で善き師、善き仲間に巡り合えたことに心から感謝しています。
平成一六(二〇〇四)年一月二五日
「田村」と「鶴亀」
小生の謡の稽古は六曲目の「田村」を習い始めました。この曲は、平安時代初期に蝦夷征伐で名を挙げた武将、坂上田村麻呂の事蹟を描いた物語です。前半は、田村麻呂の化身である童子が、満開の桜を背景に、田村麻呂に縁の深い清水寺創建のいわれを語り、後半では、田村麻呂が武者姿で現れ、勇壮に舞いながら鈴鹿の鬼神退治の事蹟を語るというお話です。物語には観音信仰が横糸として通っており、最後に千手観音が空から現れ、千の御手に千の弓を持ち千の矢を一度に放って鬼神を討ちます。まるでウルトラマンなどの特撮映画のようで、昔の人の想像力に感心します。この曲の節付け(作曲)もなかなか凝ったもので、作曲技法が凝った曲は、習得するのが大変ですが、レパートリーが豊かになるのは楽しみでもあります。一方、仕舞は二曲目の「鶴亀」を習っています。皇帝の舞なので本来は優雅で威厳のある舞なのですが、小生は手順を追うのが精一杯でドタバタしており、とても皇帝どころではありません。まずは基本の型をしっかり体に染み込ませたいと念じています。
平成一六(二〇〇四)年二月一四日
合理的な仕舞の所作
仕舞を始めてみて強く感じるのは、仕舞の動き、手順、型には全く無駄が無く完璧なまでに合理的に出来ていることである。方向の変え方、回転の仕方、扇のかざし方等々、きっちりと稽古して慣れてくると自然に体が動くように出来ている。このことは、紋付き、袴の畳み方を習った時にも感じた。衣装を保存するために最もふさわしい合理的な畳み方が確立しているのである。こうした伝統文化の合理性は僕には驚くべき発見であった。
平成一六(二〇〇四)年二月二六日
送別会
小生と同じ転勤族で、いっしょに藪俊彦師に謡と仕舞を習っているMさんが東京へ転勤になりました。先月末、薮先生が、Mさんともうひとり結婚して金沢を去ることになったT嬢のために、ご自宅で送別の宴を催され、何人かの方といっしょに小生もおじゃまさせていただきました。宴に先立って皆で能舞台で舞を舞い、おふたりを送りました。薮先生も「熊野(ゆや)」の一節を舞われました。何と贅沢な送別会でしょう。先生の心からのおもてなしに一同大感激で帰途につきました。
平成一六(二〇〇四)年四月五日
リハーサルに参加
先週の篁宝会の例会で、本番に近い能形式の「船弁慶」の稽古に地謡で加わらせていただきました。前シテの静御前を演ずるのは小生と同じ日に習いに来ていらっしゃるKさんです。囃子も入った本格的な稽古でしたが、Kさんは緊張しつつも無事に乗り切られました。義経役の子方の坊ちゃんもよく台詞を覚えているなあ、と感心しきりです。こうした本番に近い形での稽古に加わるのは小生初めてで、しかも習っていない曲なので謡本を追うのが精一杯だったものの、本番さながらに皆さんで合わせる緊張感が新鮮で、面白い経験をさせていただきました。
平成一六(二〇〇四)年四月二五日
先生の謡本
篁宝会の春の大会に備えた「船弁慶」の稽古で、地謡に加わらせてもらったことがあった。そのとき、藪先生が、謡本を持っていなかった小生にご自身の「船弁慶」の謡本を貸してくださった。先生の謡本は、表紙の紙が柔らかくなるほど使い込んであり、背がちぎれて糸で結んであった。また、謡本のところどころにハネなどの書き込みがしてあった。しかし、我々素人のようにゴチャゴチャと注釈を書き込むのではなく、本当にポイントになる箇所にだけ、黒や朱のエンピツでサッと記号が書き込んである。小生はその謡本を使って謡っているうちに、先生が稽古で流した数知れぬ血と汗と涙を感じ、また、至芸の奥にある秘密の通路をほんの少しだけ垣間見たような気がした。
平成一六(二〇〇四)年五月二六日
春の発表会
先週の日曜日は、「篁宝会(こうほうかい)」の春の大会が能楽堂であり、小生も連吟「田村」と仕舞「鶴亀」で出演させていただきました。出来はともかく、諸先輩から歩の進め方などいろいろ助言をいただいて勉強になりました。この日、翌日の会議のため、あわただしく東京に帰りましたが、飛行機の中では何とも言えない満足感に満たされ、家に帰ってからも大会の話題ひとしきりで楽しい一時を過すことができました。ところで昨日届いた会報といっしょに、大会での小生の仕舞の写真を入れていただきましたが、何だか緊張しきった顔つきで、「鶴亀」のめでたさが感じられません。さらなる精進が必要です。
この大会では、小生と同じ日に習いに来ているKさんが初めてシテとして静御前に扮し、高校三年生のG君が平知盛の亡霊に扮した能「船弁慶」も披露されました。Kさんが英語の先生をされていることもあり、外国人の観客も大勢来て、大変な盛況でした。この曲で比較的重要な役割を演じるワキの弁慶や狂言方の船頭はプロが演じられ、舞台を引き締めていましたが、それにしてもお二人のシテも見事に演じられました。前場の静御前と義経の別れの「静」と、後場の平知盛の亡霊が義経一行を襲う「動」との対照を面白く楽しめました。
平成一六(二〇〇四)年五月三〇日
「猩々」の舞い
小生の仕舞の稽古が、三曲目の「猩々(しょうじょう)」に入りました。猩々はお酒の大好きな海の霊獣で、その面も髪も真っ赤です。還暦を迎えられた藪先生のお宅で催されたお茶会の主題が「赤」でしたが、その時、玄関に猩々の真っ赤な面と髪が飾られていました。仕舞は曲の最後の部分、猩々と親孝行で正直者の若者が酒を酌み交わし、興に乗じて猩々が酒の徳を称えながら舞いますが、酔って足元はよろよろと酔い伏してしまうその刹那、夢現(ゆめうつつ)になっていた若者が目を覚ますと、猩々が彼に授けた尽きせぬ酒壷(これは永遠の繁栄を象徴しています)が満々と酒を湛えてそこにあった、という場面を舞うものです。「秋の夜の盃」とか「足元はよろよろと」とか「酔ひに伏したる」とかの謡に合わせての舞いは、能にしては比較的写実的な表現で、見ている人にはわかりやすい舞いだと思います。ただし初心者として舞う小生にとっては難物であることに変わりありません。
平成一六(二〇〇四)年六月六日
本番に備えて猛稽古(?)
今月二六日の秋の大会に備えて猛稽古(?)中です。今回は、連吟「鞍馬天狗」の子方(牛若丸)と仕舞「胡蝶」と舞囃子「巻絹」の地謡で出演させて頂く予定です。仕舞「胡蝶」では、舞台で二度ほどクルリと廻る所作をスムーズにするのに悪戦苦闘しています。足の流れがうまく出来た時はスムーズに廻れるのですが、良い型がなかなか体に定着しません。当日、県立能楽堂の舞台に可憐な胡蝶の精が見えたら拍手喝采なのですが…(汗)。舞囃子での地謡も初めての経験です。舞い手やお囃子の方々に迷惑をおかけしないように、しっかり暗誦しなければなりません。曲は「巻絹」の最後の「そもそも当山は」以降の部分ですが、けっこう速度や音程にメリハリがついており、覚えるのは大変ですが、自分の中に定着してくるにつれ、謡い甲斐がある良い曲だなと感じるようになりました。
平成一六(二〇〇四)年九月一二日
三番出演記
さる九月二六日(日)に「篁宝会(こうほうかい)」の秋の発表会がありました。小生も能舞台に出る機会を三番いただきました。最初は、連吟で「鞍馬天狗」の冒頭部分の子方(牛若丸)を謡いました。鞍馬の大天狗と牛若丸が出会う場面で、当時の寵童趣味があからさまなのですが、不思議にさわやかな印象が残る詞章です。続いて、仕舞で「胡蝶」の最後の部分を舞わせていただきました。自分では普段よりやや不出来だったような気もするのですが、見ていて下さったやさしいおば様から「良かったわよ」と言われたので、そういうことにしておきましょう
f^_^;)。 さらに、舞囃子「巻絹」での地謡をさせていただきました。地謡座のすぐ横から間近に聞こえる能管や大小鼓や太鼓の音は、すごい迫力で、それに負けじと謡われる地謡後列のプロの先生方の気迫を込めた声に励まされつつ気持ちよく謡わせていただきました。こうして舞囃子に加わると、能というものが、立ち方(シテ、ワキなど)と囃し方と地謡との緊密なチームワークで成り立っているのだということがよくわかりました。これまではあまりほかの方の仕舞や謡を意識して観察したことはなかったのですが、今回、諸先輩の芸を拝見すると、なるほど、技の高度さとか、型の決まり方の見事さとは、こういうことなのかと、少しわかってきたような気がしました。また、何人かの子供たちの仕舞も披露されましたが、未来の加賀宝生を支える世代がどんどん舞台に立つといいな、とつくづく思いました。
平成一六(二〇〇四)年一〇月三日
「羽衣」と「経政」
小生の謡の稽古は「羽衣」の最後の方を習っています。「羽衣」は、天女が衣を返してもらって舞うあたりから、節付け(音楽)が大変豊かになります。それだけに謡うのは難しいのですがやり甲斐もある所です。最近、地謡をお囃子の拍子に合わせて謡うことの難しさを感じます。間の取り方や一音一音の伸ばし方などが拍子によって違い、小生のような初学者には謡本を見てもよくわからないのです。先生からの直伝をしっかりおさらいするしかないようです。謡というのは、声の美しさよりも発音が明瞭であることや拍子に合わせてノリよく謡うことが大切だとどこかで読んだ記憶があります。
一方、仕舞の方は「経政(クセ)」を習い始めました。本当は、もっと何通りかの基本的な型をしっかりと身に付けてから習うべき曲のようですが、先生から「何かやりたい曲はありますか?」と聞かれて、サムライものをやってみたいと思い、つい「経政」と答えてしまい、弱っているところです。確かにかっこいい型がいくつか出てくるのですが、身につけるのは大変そうです
f^ .^;)。まああせらずじっくりやります。平成一六(二〇〇四)年一〇月一七日
歌舞伎のルーツ?
今小生が習っている「経政」クセの仕舞では、「衣笠山も近かりき…」の謡に合せて「分ケヒラキ」という型をします。小生は「経政」で初めてこの型を習ったのですが、この「分ケヒラキ」という型は、歌舞伎で役者が「見得を切る」型のヒントになったのではないかという気がします。能の型はストイックに抽象化された表現なのですが、その中ではこの「分ケヒラキ」は、比較的華やかで見る人をハッとさせるような印象的な型だと思います。歌舞伎はその多くを能に負っていますが、歌舞伎で芝居が昂揚の極に達した時の表現として、能の「分ケヒラキ」をヒントに、「見得を切る」型が作り出されたのではないでしょうか。「経政」の仕舞でも、「分ケヒラキ」の所作は、夜遊の舞楽が頂点に達したその時の経政の気持ちの昂揚を表現しているように感じられるのです。
平成一六(二〇〇四)年一二月一二日