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「猩々」三題

 

 今日は、我が師匠、薮俊彦先生の第八回「能の会」に出かけました。これは先生が年一回催される「企画能」で、今回は、日本舞踊、語り、能の三種類の芸能で「猩々(しょうじょう)」を楽しもうという趣向でした。猩々は人に幸福をもたらす中国の珍獣。酒が大好きな生き物なので、能では面も頭も装束も真っ赤な姿で登場します。能「猩々」は、親孝行を称えながらそれ以上に酒の徳を称え、また商売繁盛を祝う面も持つ祝賀的な曲です。

 さて、最初に、能からアレンジした日本舞踊「猩々」が、藤間勘菊社中の三人の女性によって艶やかに舞われました。僕はこれを見ていて、小林秀雄のこんな言葉をふと思い出しました。

「ぼくは男と話すのは死ぬほど退屈だ。男は意識の世界の住人だが、女は無意識・エロスの世界に住んでいる。しかしこのごろ仕事に就く女が多くなったせいか、そのエロスの世界にふたをしたような女がふえてきた。」(「文藝春秋」昭和四十年一月号巻頭「日本の顔」より)

 誤解無きよう言い添えると、小林は女の無意識とエロスを愛しく大切なものだと言っているのです。さて、日本舞踊はまぎれもない女の舞踊です。首の傾(かし)げや指先の動きなど、ふたを取り除いた女のエロスの表現です。珍獣を描写するので足を開いて踏ん張る型が何度も出てきますが、この大胆な型も大変悩ましく映じました。日舞はまた表現がより写実的というか説明的になっています。例えば、盃を飲み干す所作は能より現実に近い型になるし、挙げた盃の数を指折り数えるような所作は能ではあまりしません。つまり誰が見てもわかりやすくなったわけです。このわかりやすく艶やかな女のエロス、何曲も見ると本当に酔いがまわって来そうな気がしました。

 次は、平岩弓枝作「猩々乱(みだれ)」を、熊沢南水さんが「ひとり語り」しました。朗読ではなく暗誦した物語をまさに「語る」のです。話は、芸統を守るために十四年間狂人を偽装し通した江戸期の小鼓方能楽師の執念の物語。一子相伝の秘曲「猩々乱」を伝えぬまま狂人と化した主人公が、一瞬だけ正気に戻り、笛に和してこの秘曲の鼓を打つ場面を頂点に作られています。熊沢南水さんの語りは、明瞭で写実的でしかも劇的なものでした。「語り」も、ここまで来ると、まさに「芸」になるものだと知らされた次第です。

 そして最後は、能「乱(みだれ)〜和合」です。この「乱」は、中の舞に舞う「猩々」と異なり、足を踏み挙げる独特の型に舞う、「猩々」の異曲で、上記物語にもあるように秘曲とのこと。しかも今日演じられたのは、夫婦の猩々が同じ装束で二人舞を舞う「和合」という特殊演出でした。この秘曲の特殊演出、見ていて大変楽しかったです。二匹の猩々は、ある時はシンクロし、ある時は時間差で動き、またある時は相補って舞います。能の舞というものの楽しさを心から堪能しました。それにしても、能は、必要最小限のきりつめられた所作を写実的にではなく象徴的に表現する芸能だと、前の日本舞踊やひとり語りとの対比でつくづく感じました。それは、練りに練られたストイックな芸であり、「意識の世界の住人」の芸なのです。

平成一六(二〇〇四)年一一月二八日