宝慶寺参拝記
連休の一日、奥越前の宝慶寺(ほうぎょうじ)に参拝した。宝慶寺の概要は、僕が下手な解説をするより、寺が発行した「修行の寺
宝慶寺」という冊子から引用させていただいた方がわかりやすい。以下引用。宝慶寺は曹洞宗の古刹である。福井県大野市、といっても、市街地を離れること十二キロ、清滝川上流、標高五百メートルの谷ふところにある。大野の市街から車で約二十分、ゆるい坂道の参道は、両側にもみ、けやき、殊に杉の老樹巨木が連なり、深い緑に包まれている。総門(参道から境内に入る正門)は、比較的小さいが、却って枯淡な味わいをかもして奥ゆかしい。本堂へ入るのにくぐる山門は、優雅な楼門で、二階には美しい回縁がついている。
宝慶寺の開山は、宋の禅僧、寂円禅師である。永平寺の開山、道元を慕って来日した。道元亡き後、永平寺を去ってこの地に来り、銀杏峰の麓、谷あい深く分け入って座禅を組んだのが、宝慶寺創建のきっかけとなった。鎌倉時代の中頃、今から七百年前のことである。寂円禅師が来日するのは二十二歳の時であったが、既に幼少の頃から宋の天童山で如浄禅師の教えを受けていた。そして寂円十九歳の時、日本から留学し如浄に参学した道元と相見え、次第に道元の人柄に惹かれて、ついに師弟の関係を結んだとされている。
如浄一門は只管打坐の教えに徹していた。打坐の行を以って修行の真髄に迫ろうとする。そのためには、「焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、只管打坐あるのみ」(道元「宝慶寺記」より)と言って、打坐の純化と絶対性を追求したのである。如浄自ら、夜は十時まで座禅し、早朝二時から座禅に入ったという。只管打坐は永平寺にも宝慶寺にも受け継がれて、今日に及んでいる。(以上引用)
しかし現代において、宝慶寺が立ち行くのは容易なことではない。前住職の北野良道さんはこの冊子の中で、「むかしは『宝慶寺村』という門前村があり、全戸五、六十戸が檀家務めをしていたようであるが、今では一戸も残さず郷土を離れて大野、福井、名古屋、遠くは北海道までと散らばってしまった。お寺だけが置いてけぼりを食って、気息奄々である。」しかも「地元は無檀、民家から六キロも隔たっており、雪は永平寺の三倍も降る、冬季四ヶ月の苦行は、ここで初めて体験させてもらったが、町の近くに移転したい気持ちは察するに余りある。」しかし、「いくら雪に苦しんでも、開祖の廟を離れては意味が無い。」「この寺が生き残るにはどうしたらいいのか。(中略)開祖の孤危峻険なる苦行の道場を再現することである。必ずや追慕して訪れる新個の道人があるにちがいない。そうした雲兄水弟、居士大姉連によってこの道場を守り抜いてもらいたい。万一、ひとりの加担者も無く、托鉢に行っても応えて下さる方が無くなったら、それこそ開祖さまに見放されたのだから仕方が無い。開祖のお膝元で安楽然と、以って冥すべきであろう。」この覚悟と腹の据わりは素晴らしい。どんなに窮しても町の近くには移転しないし、観光や葬式に堕すること無く純粋な修行場として生きて行く、と宣言されている。この純粋さと厳しさは、まさに、如浄、道元、そしてこの宝慶寺の開祖・寂円と連なる系譜が今もこの寺に生きているということなのだ。
僕たちは、あらかじめお願いして宝物館の品々を拝見した。まず、道元の生前に描かれた、いわば彼の「本物」の肖像画。はじめは利発で切れ者の風貌に見えたが、よく見ると、求道者としての真摯さが立ち上っている。その真摯さにこそ、宋の人であった寂円は惹かれたのだろうか。
次に、宝慶寺の開祖・寂円禅師の肖像画。意志の強そうなきっとした目、きりっと切り結んだ口元…。道元を慕って故国を離れて来日する行動力。道元亡き後に永平寺を出てこの山で十八年間座禅を組み通す純粋さ。やがて地元の人々から敬愛を集めて宝慶寺を創建、九十三歳で亡くなるまで修行と教育に励んだ強健さ…。こうした事蹟の男にふさわしい顔だと感じた。
道元、寂円二人の共通の師、如浄禅師の画像は、いかにも温和な姿に見えるが、この人もまた峻険な修行の人だった。真に自己に厳しい人の顔は他者には温和に写るのだろうか。画はほかに、唐時代の曹洞宗の草創期の禅師、雲居の画像や釈迦三尊の画像もあり、如浄禅師像とともにこの三幅の画は、寂円が宋から持ってきたものだそうだ。
展示物はほかにも、寂円が使っていた法衣や頭陀袋、荷物を入れて背中に担いで歩くための一メートル四方くらいの黒い大きな木箱などがあった。大事な三幅の画とともに生活用品一式をこの木の大箱に入れて宋からやって来たのか、と、その志の純粋さ、気高さが改めて僕の胸を突いた。寂円の来日は、完全に無償の行為であり、目指すは求道のみだったのだ。
今、あの日寺を参拝し終えた時の何か満たされた清々しい気持ちは一体何だったのだろう、と考えてみる。たぶんそれは、自然の懐に抱かれた生きた修行の寺の姿を拝見した喜びであり、今も昔も変わること無き悟達を目指す人間の高貴な志を垣間見た感激であり、仏という自らを超越した存在への希求の営みに触れ得た喜びなのだろう。現に、宝慶寺では、あの日も一般の人を対象にした参禅会が催されており、受付の玄関には男女三十人くらいの色とりどりの靴が並んでいた。宝慶寺はまさに「葬式寺でもなく、祈祷寺でもなく、観光寺でもない。一途に修行をもって立ってゆくお寺」(北野良道前住職の言葉)なのである。今度は参禅に行ってみたいと思った。
平成一七(二〇〇五)年五月八日