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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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ふたりの祖母

 

 

母方の祖母

 

 先週は小生にとって悲しい出来事がありました。母方の祖母が亡くなりました。明治四二年生まれの九四歳でしたから、天寿を全うした齢ではありますが、小生は祖母にとって初孫だったこともあり、ずいぶん可愛がってもらいましたので、やはり悲しい思いは拭い切れません。今年の正月に小生の高校生の娘(祖母にとってはひ孫)を連れて会いに行ったのが最後になりました。お通夜では、祖母の七人の孫たち(小生の従兄弟たち)が勢揃いしました。従兄弟たちの中では小生が最年長ですが、ひさしぶりに会った彼らは、皆、立派な三〇代、二〇代の若者になっていました。祖母も空の上から、この頼もしい若者たちを目を細めて眺めていたことでしょう。

 

 小生の母は、祖母に怒られたり怒鳴られたりしたことは一度もなかったそうです。小生の記憶でも、たしかに祖母はいつもにこにこしていました。でも母は、祖母が「してはいけない」と言ったことは決してできなかったそうです。あまりに穏やかで怒らないので、逆に悪いことはできなかったといいます。子どもたちは、「この人を裏切るようなことはできない」と、悪さをしようとする自分を無意識に抑止したのでしょう。明治生まれの「いつも穏やかでにこにこしている人たち」には、子供たちが言うことをきかずにおれなかったほど、確かな人間信頼が満ちていたのです。

 

 考えてみれば、祖父が亡くなったのは小生が中学生になったばかりの頃ですから、祖母は夫を亡くして三〇年以上も生きてきたわけです。祖母の生涯は、経済的にも精神的にも決して恵まれたものとは言えなかったのですが、終生穏やかな微笑みを絶やさなかった気丈な祖母を、小生は心から敬愛しています。祖母の名前は「とき」と言いますが、ちょうど祖母が亡くなる数日前、日本原産の最後の朱鷺(とき)が亡くなったとの記事を新聞で見ました。去ってほしくない古き良き日本が去って行ってしまう、何と悲しい符合なのでしょう。

 

(追記)我が娘が運営するブログで「ひいおばあちゃん」の思い出を書いていました。こんな具合です。

「一昨年、父方のおばあちゃん方のひいおばあちゃんに会いに行きました。老健施設に入院していて、風邪をひいたっていうので(吐いてしまうから)、二、三日何も食べてないとか。でも私たちが行ったら精一杯笑ってくれて、手を握り締めておばあちゃんは泣いてました。名前呼んでくれて。しわしわの手には力がありました。『今度写真送るでねー、おばあちゃん』『また来るでねー』と言ったのに、会ったのはこれが最後でした。」

平成一五(二〇〇三)年十月二六日

 

 

父方の祖母

 

 今週火曜日に父方の祖母が亡くなりました。ちょうど百歳でした。代々続くわが本家の農家を支え続けた気丈な働き者でした。数年前に小生の父母、家内、娘で勢ぞろいして訪ねたのが最後になりましたが、その時はまだ元気で、小鳥の世話をするのが彼女の仕事でした。九十歳を過ぎてから、祖母の長男、つまり小生の叔父が亡くなってしまいました。その葬儀の場に祖母はしっかりと居合わせていました。悲しみにむせびつつも、祖母は我が子の死顔を慈しむように丁寧に拭いていました。そのたくましさ、健気さに小生は衝撃的なまでに感動しました。きっと、六人の子どもを育て上げた誇りが祖母を支えていたのだと思います。

平成一七(二〇〇五)五月一四日