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福田恆存の近代化論をめぐって

 

 

さる八月の福田恆存読書会で、全集第七巻所収の「醒めて踊れ」が取り上げられた。演劇論的人間観に立って、日本人にとっての精神の「近代化」とは何かを論じたこの文章を読み、また、この読書会の世話役をしておられるY氏がまとめられた各種のレジュメを拝読して、いくつか解明したい事柄に思い当たった。

 

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まず、Yさんの永年の福田読み込みの成果ともいうべきオリジナル・テキストを参照しながら、西洋精神史と近代日本との関わりについての福田の見解を整理・紹介したい。なお、以下の「 」は福田の文章からの引用、( )内はYさんまたは筆者の注記。

 

 福田は、ロレンスを敷衍して、人間は集団的自我と個人的自我を持つと述べる。集団的自我とは、家族、企業、国など、様々の集団に属してその中で必要な役割を演じる自我であり、個人的自我とは、そうした集団に帰属させ得ない純粋な個人としての自我である。人間は、集団的自我によって世俗的な諸事つまりは政治、経済といった社会的な活動を行い、個人的自我において精神的な諸事つまりは文学や宗教に向き合う。福田の言葉で言えば「すすんで他と関はり合い、他を支配したり他に支配されたりすることを通して自己を生かさうとする」のが集団的自我であり、「おのれを完成せしめんとする」のが個人的自我である。

 

福田によれば、西洋では、絶対者としての神(キリスト教の神)と個人的自我が向き合う。キリスト教の創始者イエスにとっては、「もはや政治(=支配被支配の自己つまりは集団的自我)すら不要であった。」イエスの自我のすべては神と向き合う個人的自我であった。中世の人々にとっても、集団的自我は最小限の存在であり、支配被支配の社会性はカトリック教会による教門政治があるのみで、集団的自我の果たす機能は最小限であり、神と向き合う個人的自我が自我の大部分を占めていた。

 

ルネサンスは古代地中海文明の実証精神の復元であるといわれる。しかしこの時代はまだ神に向き合う個人的自我は自我の大きな割合を占めていた。したがってルネサンスの実証精神とは、神に似せた人間の姿の追求であり、神への奉仕として現れたのである。一方ルネサンスは世俗的欲求の解放運動でもあった。肉体を悪と見なすことをやめ、肉体的、金銭的等々の世俗的な欲求をそれ自体として肯定した。世俗的欲求を解放し、世俗的問題を信仰の問題(個人的自我)から切り離し、世俗的手段によって解決しようとした。病気は祈祷によってではなく医学によって、貧困は慈悲によってではなく政治によって解決すべきだと考えられるようになる。個人的自我に対して集団的自我の領域が拡大され始めたのである。

 

十八世紀になると神は次第に希薄になった。人々の個人的自我は、それまで向き合っていた絶対者たる神を押しのけて、そこに自分自身を据え、自己主人公化が行われるようになった。個人主義が浸透し始めたのである。国家と宗教の分離も進んだ。英国は既に英国国教会を設立して政治のカトリックからの脱却を終えており、フランスもフランス革命によって政教分離した。実証精神は自然科学と産業技術を発展させ、集団的自我の領域がさらに拡大した。それまで個人的自我によってしか解決できないとされていたあらゆる問題(宗教に救いをも求めるしかないと思われていた問題)が、文明の進歩とともに政治、経済、科学技術によってやがて解決されると思われるようになったのである。福田の言葉を借りれば、「十八世紀が楽天主義の時代に見えるのは、個人の純粋性(=個人的自我)と支配・被支配の自己(=集団的自我)とのあいだの調和に合理化が行われ得ると信じられてゐたためであった。」

 

しかし十九世紀にはその楽観主義は裏切られる。資本主義の矛盾と呼ばれる問題や帝国主義の膨張は、人々に不安をもたらし、文明の未来を疑わせた。人々が国家や企業の中で演じなければならない役割はますます増大し、そうした集団的自我の拡大によって最小化した個人的自我は、もはや神を失い、自己を絶対化した。人々の個人的自我には、神意に基づく必然感や充実感は無く、自己満足とナルシシズムがそれらに取って代わった。ニーチェが「神は死んだ」と言った趣旨はまさにこのことであろう。生の充実を失った近代個人主義は行き詰まったまま現代に至っている。

 

福田は以上のような西洋の精神史の教訓から、西洋に追いつこうとした明治以降の日本の課題として私たちが考えなければならないポイントをふたつ挙げているように思われる。ひとつは、機械化、組織化、合理化というハードウェアの近代化に対応するソフトウェアすなわち精神面の近代化を図るべきであること。精神の近代化とは実証精神の貫徹である。近代日本は、西洋の物質文明を取り入れたが、物質文明の基礎であり彼らの精神史のエッセンスでもある実証精神を学んでいない、と福田は言う。「明治以降の日本人は、あらゆる物質的ないし肉体的なことに、すべて精神のベールをかぶせ、それをことごとく精神の発動として自己満足してきた」ことが、近代日本の大きな問題であると福田は述べる。特に社会的不満者としての文学者が持つ歪んだ劣等意識とその裏返しの特権意識や無責任性を厳しく糾弾している。「ぼくたちのうちに政治では救ひ得ぬどんな苦悩が存在してゐるというのか」と。今でも例えば日本の社会科学分野では、精神論に傾きがちな規範的言論が多く、事実やデータの累積や国際比較といった普遍性のある実証的方法が必ずしも主流になっていないと思われる。社会科学の基盤たる集団的自我と精神論の基盤たる個人的自我とのすり替えを行ってはならないのだ。集団的自我の領域の問題すなわち政治、経済、科学技術によって解決できる問題はそれら自身による解決を求めること、すなわち「カエサルのものはカエサルへ」を貫徹し、純粋に個人的自我の問題だけを文学や宗教や精神論の問題として扱うことこそ、西洋の実証精神であると福田は述べる。

 

実証主義の貫徹と関連して、福田は、言葉との距離を置けとも述べている。文明開化、自由、民主主義、グローバリゼーション…。これらの言葉に飲み込まれ、これらの言葉の起源や自分たちにとっての意味や距離の置き方などをよく吟味せずに、とにかくそれらに適応しなければいけないと、流行りものへの適応異常を繰り返してきたのが近代以降の日本の歴史である。自己と言葉との距離を最大限にせよ、と、福田は、それが演劇にも必須であることをふまえつつ繰り返し説いている。「醒めて踊れ」とはまさにこの趣旨である。福田は、西洋的実証精神を身につけよと訴えているが、同時に「西洋と距離を置け」と言っており、それができて初めて日本人の精神の近代化が成し遂げられることになると述べている。精神の近代化すなわち実証精神とは、対象との距離を置きそれを自由に統御する「精神の政治学」でもある。福田の言葉で言えば、「国民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の集団的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる」ことである。

 

西洋の精神史から私たち日本人が考えるべきもうひとつのポイントは、西洋近代の個人主義は行き詰まっており、これを超えるべきであるということだ。神を追放し自己を絶対化した近代西洋の個人主義は必然感と充実感に満ちた人生をもたらさなかった。個人的自我の上に自己を超えた絶対者を据えることで初めて人生はより良き宿命に満たされた人生の充実感を持つことができるのだ。福田曰く「・・・国民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の集団的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動力は何かといふことである。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力に繋がっていなければ、人格は崩壊する。」筆者が下線を引いた「過去の歴史と大自然の生命力」とは、まさに何らかの絶対的存在、自己を超えた存在のことであろう。しかし同時に、近代個人主義を乗り越えた「完成せる統一体としての人格」は、単に伝統に戻る復古主義では醸成し得ない。近代に(つまりは実証精神に)徹することでこそ近代は超克し得る、と福田が述べていることに私たちは注目すべきだ。福田は復古的ロマン主義者ではなく、あくまで現実的な戦略家として近代の超克をイメージしようとしているのである。

 

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 福田の近代化論を以上のように理解したうえで、僕の疑問点の第一は、純粋な個人的自我が向き合う絶対者は、各自任意に立てればいいのか? という疑問である。極端なことを言えば、昨日はカトリックの神を拝み、今日は儒教的な天を信じ、明日は禅の空を押し頂くというような、「日替わりの絶対者」でもいいのか? いや、そうではあるまい。「過去の歴史と大自然の生命力」とは、その人の属する自然環境や風土や歴史を背景にした絶対者でなければならないのではないか。言い換えれば、共同体の倫理の基礎たり得る絶対者でなければならないのではないだろうか。それとも、日本人であっても、カトリック信者たることが必然であるのなら、カトリックの神と向き合えばいいのだろうか? また、たとえば学生時代に運命的に出会ったとすれば、禅と向き合うことも絶対者を持つことになるのだろうか? 個人個人がめいめい選ぶ絶対者は果たして絶対者といえるのだろうか? これと関連して、小室直樹氏は、「痛快!憲法学」(集英社)の中で、欧米の憲法にはキリスト教の基礎があり、憲法の基礎には絶対者が必要であることに気づいた明治の元勲たちが、天皇を絶対者にした「天皇教」を基礎に明治憲法を創案したと述べている。明治憲法の創案者たちは、共同体の倫理の基礎としての絶対者が必要であると気づいたのだろう。

 

僕の疑問点の第二は、集団的自我を統御しつつ絶対者と向き合う個人的自我、すなわち「完成せる統一体としての人格」を持つことが日本人にとって可能か、という疑問である。近代の超克はいかにして可能なのだろうか? いやそれ以前に、まず福田が掲げる第一の課題である精神の近代化すなわち実証精神を貫くことは可能なのだろうか? 実証精神とは、神に似せた人間の姿の追求であり、神への奉仕として現れたものだとすれば、絶対者の影が薄い日本の歴史と現実から、いかにして実証精神が生起し得るのか? 福田が言うように、日本において、言葉と距離を置くことが「小説では可能だが芝居では無理」だとすれば、実人生ではもっと難しいということにならないだろうか?

 

 僕の疑問の第三は第二の問題と関連する。福田が「実証精神の欠如と距離感の喪失による適応異常」を問題としている日本の近代化を、日本の高い柔軟性との積極的な評価をする識者も内外に存在する。もし外来文明への鋭敏な反応(悪くとれば過剰反応ないし適応異常、良くとれば順応性ないし柔軟な日本的適応)が周辺文明の宿命だとすれば、そして、人間の精神ほど変えにくいものはないとすれば、小笠原泰氏が「なんとなく、日本人」(PHP新書)で説く「変えられぬもの」としての精神の政治学があってもいいのではないか。つまり、「変わりにくいもの」としての日本人の心性の本質を保守し活性化するような制度的枠組みの確保、危機的状況の回避である。小笠原氏の趣旨は、自己をよく認識し、アメリカと距離を置いた上で日本的な外来適応を意識的に円滑に行えということであろう。そうであれば、「醒めて踊れ」と述べる福田と同趣旨ではないか? 要は、私たちは、日本を封建的な遺制の残存する遅れた国とするような、或いは組織人として汗水流すビジネスマンを社畜と軽侮するような自己特権化のナルシシズム(個人的ナルシシズム)に酔う左傾知識人や、日本の特殊性こそ世界に冠たる美点だという日本賛美のナルシシズム(集団的ナルシシズム)に溺れる保守言論人に注意すべきなのだ。国を思う熱い心を持ちつつも、ナルシシズムではなく「醒めて踊れ」の実証精神で責任ある言論を行っている本物の思想家に耳を傾けるべきなのだ。本物の言論人と似而非の言論人を見分ける眼力もまた実証精神から生まれるものであろう。

 

平成一八(二〇〇六)年九月六日