福田恆存の演劇を味わう
さる六月二四日(土)、文京区・千石の「三百人劇場」で劇団「昴(すばる)」によって演じられた福田恆存作「億萬長者夫人」を見た。昭和四二(一九六七)年に初演されたこの作品は、美貌で華やかで頭脳明晰で空手四段、しかも父親の遺産によって億萬長者でもある「彌生(やよい)」を主人公とする喜劇である。喜劇といっても、やたらにギャグを連発してその場限りの笑いをとろうというような代物ではない。カネと愛情をめぐってのてんやわんやの出来事を通じて、現代日本の社会のあり方と人間の生きる姿が、これでもか、これでもかと風刺され、活を入れられる、苦い味わいの「おとなの喜劇」である。
特に、インテリ階層に属する弁護士、ジャーナリスト、前衛音楽家の卑しい本性が皮肉たっぷりに描かれている。法の専門性だの社会正義だの世界的芸術だのと息巻いているその端から、彼らの顧客への卑屈な諂(へつら)いやだらしのない性欲や芸術家という名に酔った虚栄心が露呈してゆく。最後の場面で、彌生が五千万円の小切手を五枚用意し、欲しい人は自由に持って行きなさいと挑発したとき、これらの人々は、もっともらしい理屈を述べては、結局小切手を持ち帰ろうとする。彌生が気に食わないのは、彼らがもっともらしい精神論を並べて自己の金銭欲を正当化することである。「なぜカネが欲しいと素直に言わないの!」という彌生の叫びは、福田恆存の叫びでもあり、この作品の主題をなす。
ちょうど、劇団「昴」のこの演劇を拝見した翌日、「福田恆存を読む会」の例会があり、世話役であるY氏がまとめられたレジュメの中に、まさにこの演劇の主題と同趣旨の恆存の文章が引用されていた。すなわち福田恆存曰く、
「(近代西洋では)科學技術と社會制度の民主化との過程が進むにしたがって、それまでの精神の領域に属し精神がこれを解決すべきだと信じてゐた諸問題が、逐次、物質の領域に移されて、物質の問題として解決されていった。物欲に打ち克つといふ克己の倫理も、充分に欲望可能な物質を生産するといふことで解決されてしまふし、病苦に堪へるといふ美徳も、醫學の進歩が徐々にそのやうな精神の無益な負担を軽減しつつある。」(福田恆存全集第二巻「近代の宿命」より)
「肉體の自律性は当然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは、物質で解決すべきことを、精神の重荷とするなかれ―精神には精神のみの解決しうる問題を当てがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのとき初めて精神は自律し、その權威は輝くであらう。
が、ぼくたち(注:近代日本人)は今日まで何と精神を神聖化し、さうすることによって精神の負担を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかったからである。明治以降の日本人は、あらゆる物資的なこと、肉體的なことに、すべて精神のヴェイルをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。彼らは肉欲を肉欲として是認することを恐れ、それに精神的な戀愛の衣をかぶせた。物欲を物欲として是認することを恐れ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、その他の種々雑多な大義名分をかぶせた。」(福田恆存全集第二巻「肉體の自律性」より)
近代西洋は、物資文明を発達させることにより、肉体の領域のことは肉体で、物質の世界で解決できることは物質で、経済で解決できることは経済で、政治で解決できることは政治で、という具合に、精神の領域を精神にしか解決できない問題に特化し自律化させた。ところが、近代西洋文明を表層的に取り入れた近代日本は、肉体や物質や政治や経済で解決すべきことがらにまで、精神の衣を着せ、言い訳したり美化したりする。そこにこそ、指導者やインテリの偽善がはびこる余地がある。福田恆存は、自らの境遇や性欲を精神主義で正当化する田山花袋や島崎藤村ら日本の自然主義文学やその末裔である白樺派文学に特に強く偽善臭を嗅ぎ分けている。「私娼を買ふにも、頽廢のかげに純情を探し求めるのが目的」(福田全集第二巻「肉體の自律性」より)であるかのように自己正当化する田山花袋や島崎藤村の文学、「女中に手を出しておいて、その人權を認めるかどうかなどといふ『人道主義』的な苦惱」(福田全集第四巻「個人主義からの逃避」より)に苦しむ主人公を自分に重ね合わせて描く志賀直哉の「暗夜行路」など、ブンガクシャの特権意識にあぐらをかいた自己正当化と自己美化に近代日本文学は事欠かない。
さて、では、偽善インテリ男たちの本性を暴露する彌生自身は、幸せな女性なのだろうか。否である。彼女は強者だが、強者の幸福に浸れない。なぜなら彼女は男から「女として」愛されないからである。彼女に近寄ってくる男たちは皆カネか体が目当てなのである。彌生の孤独と嗚咽は、「男は女によって作られ、女は男によって作られる」という、男女が率直に信頼しあう基盤が欠如している現代社会への慟哭のように思える。
演劇「億萬長者夫人」の、喜劇でありながらほろ苦い味わいは、以上見たように、福田恆存という「ものの見えている人」、「純粋に怒ることのできる人」が今日いかに孤独な存在にならざるを得ないか、その悲しさからきていると思う。僕は喜劇なのにこの演劇を見ていて涙があふれてきた。恆存の強烈なアイロニーの底にある彼の熱い涙を感じないわけにはいかなかったから。
さて、福田恆存の喜劇は、テンポの速さ、言葉の多さ、その応酬の論理的ゆえに滑稽なことなどが特徴である。彼は、演劇は何よりも言葉が主役であることを私たちに思い出させてくれる。たまたま、さきのY氏に、平成一〇(一九九八)年に大阪・松竹座で演じられたシェークスピアの「ハムレット」(福田恆存翻訳)を録画したビデオをお借りして鑑賞した。これも言葉が実に豊かな演劇だった。慣れるまでは、過剰と感じるくらいの言葉の遊戯にあふれている。主人公ハムレットを演じた市川染五郎さんが、汗だくになって、シェークスピアと福田恆存が構築した言葉の世界と格闘していたのが印象的だった。
「ハムレット」が実際舞台で演じられるのを初めて見て感じたもうひとつのことは、シェークスピアの劇は決して「こむつかしい」ものではないということだ。筋書きといい、台詞といい、じつに明快であり、最後に悪が滅ぶというカタルシスも用意されている。大衆を喜ばせるユーモアや役者のかっこいい「見得」もふんだんに出てくる。当時の大衆が土間にゴザを敷いた席で張り出した能舞台のような舞台で演じられる劇を間近で見て喝采していたというシェークスピア演劇の原点を実感した。古典というものは世界中のあらゆる人々に開かれているのだと改めて教えられた次第。
平成一八(二〇〇六)年六月二七日
追記:この日の演出は、昭和四二年の原作を現代の風俗に翻案していたが、特に痛快だったのは、ゲイジュツカを自負する前衛音楽家の姿を、当節はやりの韓国ドラマの俳優よろしくマフラーをつけたキザな格好に仕立てていたことだ。韓国ドラマに入れあげているのは、中年主婦たちだそうだが、実際にどれだけのファンがいるのだろうか。韓国の政府機関にカネをもらった電通などの広告代理業者が仕組んだ「作られたブーム」というのが実態ではないかと僕は疑っている。あの韓国ドラマの男優には知性のかけらも感じられない。呆けた微笑は、ホストクラブのホストの下品で媚びた笑みだ。僕は虫唾が走るほど韓国ドラマが嫌いである。
平成一八(二〇〇六)年七月一日