主知主義から人間学へ―カント哲学に学ぶ
「知は力なり」(ベーコン)と言い、「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)と唱えた西洋近代哲学は、何よりも中世的迷妄から脱して知性が支配する楽園を乞い求めた。そこでは、神も世界も人間精神もやがて知性によって論理的に解明されるであろう対象であった。こうした主知主義、啓蒙主義の哲学が人間の知的理性と科学技術に全幅の信頼をおいていた一八世紀ヨーロッパにおいて、早くも、知的理性の限界を認識し、知・情・意などを併せ持つ全人こそが、人間の本来のありようであると述べた哲学者がドイツのカント(一七二四年〜一八〇四年)である。カントは啓蒙主義の完成者にして克服者と言われるが、その哲学は「主知主義から人間学へ」という標語で表すことができると思われる。その委細をみてみよう。
カントはそもそもどんな問題意識を持っていたのか。それは彼の著書「純粋理性批判」の中で掲げられている三つの問いに示されている。すなわち「私は何を知りうるか、私は何をなすべきか、私は何を望んでよいか」である。この問題意識に答えるべく書かれたのがカントの三批判書(「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」)である。三批判書の「批判」とは、第三者の立場から難癖をつけるという意味での「批判」ではない。それは、当事者として自己の知・情・意のありようを吟味検討するという意味である。
まず「私は何を知りうるか」、つまり人間の知性の吟味検討である(純粋理性批判)。カントは、科学的知識を生み出す知性の仕組みを解明しつつ、知性が捉えることのできるのは、「対象そのもの」ではなく、知性が直観や概念化によって把握できる範囲での「現象」に過ぎないとし、ここに知性の限界を見る。この世の中には、知性が解析しきれないもの、知的な認識の対象でないもの、無条件、絶対的にその存在を肯定せざるを得ないものがある。それが心(霊魂)であり、世界(宇宙)であり、神(根源的存在)である。
心と世界と神は人間に行為の規範を与える。そこで「私は何をなすべきか」、つまり人間の意志が吟味検討される(実践理性批判)。カントは、人間は行為の規範つまり道徳律にかなう行為をなさんとする意志を持つと言い、「汝の意志の準拠するところが、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ」という命令を自律的に実現しようとすると述べる。
「私は何を望んでよいか」という第三の問いに、カントは、自然や世界の美しさや有機体としての合目的性を感じることができる力を挙げる(判断力批判)。美を感受する力は美的判断力と呼ばれ、有機体の統一性を感受する力は目的論的判断力と呼ばれる。ここでは人間の感情や感性が吟味検討されているのである。感情や感性はまた信仰につながるとされる。
三批判書において、カントは、知的理性の限界を指摘し、デカルトに代表される近代哲学の主知主義を超えて、人間の理性には知性だけではなく意志や感情や信仰の働きなど広範な機能があることを認める。彼は「私は信仰に場をあけるために知性を制限しなければならなかった」と、知性が時には自己抑制されるべきであることを象徴的に述べている。カントは、知性や意志や感情や信仰が、ただバラバラに人間の内部に存在していると言っているのではない。知・情・意のすべてを統御し調和させるのが人間の理性であり、理性に統御された全人こそが人間であるというのである。科学も道徳も芸術も宗教も、すべて人間の理性の発現でなければならないのだ。
三批判書の形而上学を踏まえ、理想的な人間のあり方を実現するための「実用書」として、カントは最晩年に「人間学」を著している。西洋哲学史において、「人間学」という言葉が著書の表題に掲げられたのはこれが初めてとのことで、この表題こそカントの「主知主義から人間学へ」という思想を象徴している。「人間学」の中では、知・情・意のありようが心理学的知見も踏まえて具体的、平俗に語られるとともに、人間の性格をさまざまなカテゴリーに分類して詳述している。カントは、人間が悪に向かう性向を有していることをよく理解しており、この著書のところどころにクールで皮肉っぽい人間への嘲笑も見られるが、それでもやはり全体としては、人間の本性はよき道徳律への希求にあるという性善説に貫かれている。
この著書の最後の「人類の性格」という箇所で、カントは、人類は理性を具えた種として、民族間の不和を脱して和合を目的に自らを教育しなければならないと述べ、絶えず進歩する文化がそれを助けると言う。また、人類は粗野な自然状態から整った社会状態へと移行する大きな動機に動かされているとも述べ、人類は「自由と法則とを伴った権力(共和制)」の国家を実現し、その国家間の国際的な連盟を結んで世界市民の社会を地球規模で打ち立てる性向を持つ生き物であるとする。そのために、芸術や学問や倫理や宗教を通じて、自己修練することが人間の使命なのだと結んでいる。
主知主義を超えて人間学を志向したカントも、やはり啓蒙主義の時代の子である。啓蒙主義の目指していた理想的な人間社会とは何であったのか、ミルの「自由論」とともに、カントの「人間学」を読むと我々は明瞭に理解できるのである。ミルもカントも、人間が「理性に統御された全人」となり得ることを前提に未来の社会を想像している。
しかしカントの人類史の見通しは、現代の我々から見ると楽観的すぎたようだ。カントが克服しようとした主知主義と科学技術万能思想は、さまざまに批判されつつも、ますます猛威を振るって、「信仰に場をあける」ことなく人間と自然を解体しようとしている。科学技術はカントが想定していたものをはるかに超えて発展し、彼が「人間学」の中で「知り得ない」と述べているような人間の脳についての知識も既に我々の時代は有している。資本主義経済の巨大化も彼の想定し得なかったものであろう。国際的な連盟はなかなか機能せず、人類に戦争の絶えた年は無い。現実の人類は、科学技術や経済の発展ほどには「自己修練」に力を入れてこなかったのだ。近年、短期的成果を求められるようになった大学においては、自己修練の素材であるリベラルアーツ(歴史、文学などの人文科学)の相対的なウエイト低下はますます進んでいる。そもそもリベラルアーツ自体が、大衆の社会的ニーズから乖離して狭い専門性と衒学的な主知主義の牙城となっている面さえある。人類が地球を破滅させずに文明生活を持続させるには、私たちが「理性に統御された全人」になるための「自己修養」が必要であることは、カントの時代と少しも変わっていない。むしろそれは、ますます重く険しい課題となっているのである。
平成一八(二〇〇六)年六月五日
〈参考にした文献〉
カント「人間学」(山下太郎・坂部恵訳/理想社:カント全集第十四巻)
柏原啓一「総合人間学」(放送大学教育振興会)