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御厨 貴「ニヒリズムの宰相 小泉純一郎論」を読んで

 

 

T.本書の内容

 

 

1.著者の企図とスタイル

 

本書は、ダイナミックに変動した小泉政権時代を分析することによって、現代政治の「道標」を示すことを志して書かれたものである。著者は、私たちが今、歴史上の、或いは世界の中の、どこに立っているかを示そうと試みている。

 

 本書では、小泉時代に生じた政治の「制度」と「過程」の様々な変動が取り上げられ、そうした変動が輿論の動向や世界的な政治の潮流をどのように反映しているのか、またどの程度まで小泉氏個人の特殊性によってもたらされたのかが分析され、将来に持ち越される本質的な問題が明らかにされる。その問題とは、ひと言でまとめれば、小泉時代の政治変動が、国民を政治の面白さに目覚めさせ政治を国民に身近なものにした反面、「政策」をめぐるロゴスの貧困が浮き彫りになり、ますます将来の見通しが立てづらくなったことであろう。

 

本書は、制度とか過程とか政策とかいった政治分析の要素毎に書かれるのではなく、政治の全体像を小泉純一郎という人物に表象して描くスタイルをとっている。著者の言う「講談政治学」のスタイルである。このスタイルは、分析的、学術的に政治を理解したい人には、いろいろな要素が重複して描かれて煩瑣な感じがする一方、政治学の専門家ではない一般読者にとっては、政治への興味を喚起され、理解を助けられるであろう。この「講談」スタイルは、小泉「劇場型政治」に倣って、若者がゲーム化、ビジュアル化した対象にしか興味を示さない傾向、つまりロゴスより感覚で判断する傾向に対応して、何とかロゴスの世界に彼らを連れ戻そうとする著者の工夫であろうか。以下では、著者のスタイルを政治の諸要素に分解して委細を見てみよう。

 

 

2.小泉時代の政治変動

 

 小泉時代の政治変動の第一は、憲法改定や皇位継承問題や靖国問題が政治の争点になったことに代表されるように、「大政治」「マクロな政治」「体制政策」「国家論」「イデオロギーの問題」が争点化したことである。こうしたマクロの政治争点で対立が激しくなると、自民党、民主党がリシャッフルされ、イデオロギーに依拠する政界再編が起こる可能性もある。

 

小泉時代の政治変動の第二は、政策決定過程における従来パターンの破棄である。すなわち、@自民党が野党との間で行ってきた水面下での政策調整(「国対政治」)の破棄、A政調会の事前協議を無視するなど自民党の政策関与の慣習の破棄、である。言い換えると、内閣中心、官邸主導の政策運営への転換である。これは小泉氏の個性によると同時に、制度の裏付けによるところが大きい。すなわち、橋本政権時代の行政改革による省庁削減や内閣官房と内閣府への権力の集中という制度の裏付けである。

 

政策決定過程における従来パターン破棄の典型事例が「郵政解散」である。小泉氏のやり方は、野党とも自民党とも調整せず、まさに内閣総理大臣の持つ強大な権力である解散権を最大限活用したのである。

 

 小泉時代の政治変動の第三は、政党の変化である。まず、自民党の派閥機能が権力配分などの力を失い弱体化させられた。派閥機能の弱体化は、特に党内最大派閥の橋本派を組閣や政策決定過程から排除することによって推進された。この変化が生まれた重要な転換点は、小泉氏が自民党総裁に選出された平成13(2001)年の自民党総裁選の予備選挙であった。この予備選挙は、地方組織が派閥の意思に従って動かないという自民党史上初の事態が生じて小泉氏大勝に終わり、以降の派閥機能弱体化の流れをもたらすことになった。

 

こうした政党の変化は、田中、竹下、橋本と継承された派閥主導の政治、つまり、政治家集団内の論理・慣習で動く「数の政治」から、公衆への直接の訴えとその支持によって動く「劇場型政治」への、民主主義の「型」の変貌とも言える。この背景では、政治に対する輿論の欲求が大きく変化していた。小泉氏はこれを鋭敏に察知したが、自民党の派閥首領はこの変化を見抜けなかった。

 

一方の民主党も、基本政策や支持基盤が自民党と類似してきたため、政権交代の受け皿になるチャンスは増しているにもかかわらず、輿論の変化に機敏に対応しているとは言い難い。万年野党体質の染みついた旧社会党勢力が残存しており、また、政策論争によって二大政党を目指す三〇歳代〜四〇歳代の若手も政治手法の未熟さが目立つ。

 

 小泉時代の政治変動の第四は、職業としての政治家像が変化したことである。小泉チルドレンに典型的にみられるように、彼らは政治家という職業を一生のものとは考えず、自己のキャリアの一環としてとらえる傾向がある。巷には当選マニュアル本も出現するなど、政治がここまで「軽く」なってよいのかという批判がある一方、政治家と他の職業との互換性が高まれば新しい人材が政治に動員される契機が増えるというプラスの評価もできる。

 

小泉時代の政治変動の第五は、官僚像の流動化である。官僚のライフスタイルも変化し、「ひとりの事務次官を出す」ことを目的とした同期の協調と競争という画一的なスタイルから、官僚という職業をキャリア形成のひとつととらえる傾向へ変化した。劇場型政治を反映して、官僚が世間に対してはっきりものを言う(説明責任を果たす)傾向が強くなる一方、1990年代のスキャンダルと小泉時代の大きな政治変動によって、とまどい萎縮している面も見られる。

 

 

3.小泉政治の必然と偶然

 

 以上のような小泉時代の政治変動の背景には、輿論の変化があり、また、世界的な潮流の一環という面もある。こうした輿論や世界的潮流が、小泉政治を不可逆の「時代の必然」にしたのである。

 

まずこの時代の輿論の動向をみてみよう。輿論は、もはや、政治家の内輪の論理や権威だけで政治が動くことを容認せず、輿論に直接訴えて支持を得ることを政治家に求めるようになった。小泉氏の「劇場型政治」は、それを鋭敏に察知してマスコミ(特に映像メディア)を効果的に使った政治手法であった。政治のマスコミ受けはますます重要になったが、かといって輿論はマスコミに盲目的に動かされているのではなく、逆にマスコミが流す映像を通じて政治の本質を見抜いている部分もある。国民は政治の面白さを楽しみたい「消費者」であるとともに、「受益者」「参加者」としての要求もする存在になったのであり、政治をゲーム化、スペクタクル化、ビジュアル化して理解する傾向の強い若者の政治への関心を下げないためにも、こうした輿論の変化に鋭敏に対応できる「政治の若さ」への希求が続くであろう、と著者は述べる。

 

一方、世界の政治の潮流を見ると、ヨーロッパの先進諸国でも小泉時代の日本と同様に、カリスマ的指導者が人気と権力を支えにして政治を進める傾向が見られる。この「大統領化現象」は、究極的には個人指導の下に国民投票で事を決する政治となり、議会の相対的地位が低下する傾向でもある。各国の大統領化現象の共通点は、第一に、権限や資源が首相や大統領に集中すること、第二に、政治指導者たちが、政党の活動家や派閥の領袖からではなく、首相や大統領個人の人脈から選ばれること、第三に、選挙も党首個人の影響度が強くなること等である。大統領化の時代が来ると、今までのように一、二年で首相が替っていた時代と違って、首相や大統領個人が明確にヴィジョンを打ち出し、その個性によって、ある程度長期間政権運営するようにならなければならない。そのためには、首相や大統領は若い人が務めざるを得ない。経験や実績よりも「プレジデンシー・メイク・プレジデント」を認めて、若い人の成長に賭けることが必要になろう。

 

以上のように、輿論と世界的潮流は小泉的政治現象を不可逆なものにしたが、一方、小泉政治はやはり小泉氏という個人の特殊性によって成り立っていた部分もある。それは次世代には引き継げない「偶然」の部分であり、次のような事柄である。第一に、小泉氏は、靖国にせよ、皇位継承にせよ、個々の政策についての見識や主張があるわけではなく、独特の勘で政治を進めたこと。第二に、このいわば「自覚なき宰相」は、「侠客の血が流れている」とも言われ、恐れを知らない性格と強運を持っていたこと。第三に、それと関連して、橋本派にしても道路族にしても、強い敵との喧嘩を得意とする性格であったこと。第四に、短期の輿論観察力に優れ、輿論調査をテレビの視聴率のように操る仕掛けが卓抜で、常に輿論の高い支持を得たこと。第五に、元来オペラ鑑賞などを好む孤独を愛する性格で、側近や相談相手をほとんど持たなかったことが思い切った行動を可能にしたこと。第六に、自民党内の重責を担った経験がなく、党に何の愛着も持っていなかったため、既存組織を信頼しない「説得せず、調整せず、妥協せず」のニヒリスティックな行動をとることができたこと。

 

次代指導者は、小泉政治の必然と偶然に学び、そこから継承できるものとそうでないものを峻別して、独自の首相像と政治運営戦略を作ってゆく必要がある。

 

 

4.残された問題点そして道標

 

 小泉氏の個性によって支えられ、輿論の支持を得、世界的な潮流とも相似する形で小泉政治は五年半に亘って継続した。しかし小泉政治が私たちに残した問題点も多々ある。著者はそれらを本書の随所で指摘している。

 

第一に、権限や資源が首相に集中することによって、首相が関心を持たない事柄や内閣でコントロールできない事柄は、逆に官僚任せとなる面があったこと。第二に、橋本派の排除など自民党を「ぶっ壊す」ようなやり方が通用したのは小泉氏の特異なキャラクターによるものであり、自民党との関係も含め、官邸主導時代の普遍的な政策決定過程を構築する必要があること。第三に、歴代政権が手をつけてこなかった「金融・不良債権問題」「道路公団民営化」「郵政民営化」「年金・保険問題」「北朝鮮問題」「イラクへの自衛隊派遣」といった政治課題を果敢に取り上げ、その場その場の決断はしてきたものの、どれも「生煮え」状態で成果が明らかになっていないこと。第四に、党首のイメージによって競うような「好感度選挙」では、上記のような重要な政策論争が選挙の過程で具体化せず深まらないこと。第五に、第三・第四と関連して、外交にしろ内政にしろ、中長期的な見通しに基づく政策の方向性が欠如したままであったこと。第六に、それを敷衍して、当面の二、三ヶ月しか見ないような政治が常態化すると、本来政治が持つべき、五年先、一〇年先への備えを考える機能が消滅する危険があること。

 

小泉時代は、国民を政治の面白さに目覚めさせ、政治を国民に身近なものにした。しかし、ゲーム世代に代表されるように、ロゴスが衰弱し感覚依存の強くなった輿論に適応して、上記問題点にも挙げられるように、政治が場当たり的になった。政策をめぐるロゴスの貧困により将来の見通しがますます立てづらくなった。著者は、本書の最後で、現在の政治の道標を次のように記す。

 

「小泉改革には、刹那的な『今』しかありません。歴史もなければ過去もない。ある意味、ニヒリズムの革命だと思うのです。彼がやってきたことの背景には『ニヒリズム』があります。そして小泉劇場のライトモチーフ(示導動機)は『終わらない戦後』だったのだと思います。」

 

「二十一世紀に入ってからの未来は、すでにあるものをどんどん壊していって、確かに小気味はいいのだけれども、その先に何があるかが皆目わからない。文字通り『一寸先は闇』だと皆感じ始めています。私たちの未来はそこで開かれているかというと、たぶんドアはまだ閉まったままなのです。」

 

 

U.感想

 

 

1.優れた現場感覚と輿論洞察

 

本書で私が一番感心したのは、著者の優れた現場感覚である。著者は、ジャーナリストの取材のように小泉時代の諸事象を生々しく把握している。それは、「あとがき」にも示されているように、著者の目的が、政治のある側面の詳細調査でもなく、政治の各側面にまんべんなく注意を払う研究でもなく、「政治の道標を示す」ことにあり、そのためには単に資料収集とモデル分析に頼るのではなく、全体的なダイナミズムを感じ取ることが必要だったためである。著者の鋭い現場感覚がいかに小泉氏の政治手法の本質を見抜いていたかは、いわゆる「郵政解散」を、事情通のマスコミ関係者が全く予想できずに狼狽する中、著者には当然起こり得る結果と見えていたことに端的に現れている。

 

関連して、本書は、小泉政治の背景にある輿論の洞察に大変優れている。国民は小泉氏の劇場型政治に騙されているように見えるが、逆にマスコミが流す映像を通じて政治の本質を見抜いている部分もあるという観察や、国民は政治の面白さを楽しみたい「消費者」であるとともに、「受益者」「参加者」としての要求もする存在になったといった観察は正鵠を得ていると思う。自民党の主要派閥の内輪の論理で物事を進め、国民には土建政治のおこぼれを与えておけばいい、といった戦後的政治に、いかに国民がうんざりしていたか、それに全く気づかない与野党やマスコミも含めた政治に関わる当事者の意識のずれをも、著者は正確に観察している。

 

ホリエモンが逮捕されたとき、私の周囲の三〇歳代の人たちが「やはりナベツネ(=読売新聞社の渡辺恒雄社長)が支配する世の中なのか」と慨嘆していたのが印象的だった。ホリエモンをどう評価するかは若者の間でもまちまちだが、著者も述べているように、確かに小泉以前の旧体制やナベツネに代表される旧世代の復帰を望む若者は皆無だろう。そうした若い人の政治への感じ方についても著者は的確な観察をしている。

 

 

2.道標に関連して

 

著者が小泉政治の問題点として挙げている「政策の生煮え」、「中長期ヴィジョンの欠如」は、まさにそのとおりであろう。たとえば、小泉氏が力を入れた道路公団や郵政の民営化は、「所期の目的」を本当に達成できるのか。「結果」は要検証である。竹中金融行政にしても(それ以前の措置も含め)、三大メガバンク体制で安定はしたが、いくつかの地域の主力金融機関を取り潰す一方で農林系や専門的金融機関に公的資金を投入して救うというのは、国民経済的には選択が逆ではないかと思われる。北海道拓殖銀行を取り潰した影響が未だに癒えない北海道経済の惨状から何故学ばないのか。

 

 ニヒリズムの革命―このように小泉政治を意味づける著者の論拠を私は理解できる。しかし私は、著者の示す道標が少し悲観的すぎるのではないか、という思いも抱いている。本書の最後に至って、私は、著者が道標の前で呆然と立ち尽くしているような印象を受けた。その部分は、本書の見開きに掲げられた、近衛新体制に向かう時代に対する林達夫の鬱勃たる憤りの文章と共鳴して、一層悲観的に感じられるのである。

 

 著者には、小泉政治の刹那性への危機感に加えて、果てしなく続く戦後の平和とそれに伴う自民党支配の継続という事態への倦怠と危機感があるように思われる。確かに長期間の平和と一党支配は人間社会を澱ませる。シェイクスピアも悲劇「コリオレイナス」の中で、召使に、「早く戦が始まればいい、その方が平和よりずっとましだ。それは昼の方が夜よりましな様なものさ。陽気で、目も耳も生き生きとしていて、何も彼も活気に満ちている。それに較べて平和と来たら、冬ごもりの動物そっくり、気抜けで、聾で、何も感じない。半分眠っているようなものさ。」(福田恆存訳)と言わせている。それは人間の心理と社会の真実であろう。しかし著者も言うように、次に日本が戦争をするときは、日本が破滅するときであろう。江戸時代は二六〇年平和と徳川支配が続いたのである。私たちも江戸時代に学んで「平和に耐える術(すべ)」を身につけるしかあるまい。

 

 

3.私にとって大きなヒント

 

私は、著者の優れた現実分析から、小泉政治に対して少し違う思いを抱いた。それは、「小泉氏の個性という偶然によって支えられた面はあるにせよ、輿論の支持を得、世界的な潮流とも相似する形で小泉政治は五年半に亘って継続した。その大きな変化は、時代の必然がもたらした変化だったと評価すべきではないか」という思いである。もしそうであれば、小泉時代に萌芽したマクロの政治争点を、生煮えで長期ヴィジョンの欠如した状態から脱却させ、長期的な観点に立った実質的な議論を政治家にさせるにはどうしたらいいかを考えるべきではないだろうか。著者も指摘するように、その議論にこそ野党の存在意義もあると思われる。大きく変動した政治体制や政治過程の中に、長期的観点からマクロ政治を実質的に議論できる仕組みを組み込むにはどうしたらいいのかを考えるべきではないだろうか。その場合、劇場型政治を求める消費者としての国民の欲望をどう満たすのか、受益者として参加者として政治の本質を見抜く国民の賢明さをどのように議論に反映できるのか。民主主義政治の主(あるじ)たる国民輿論に対する正確な観察と戦略的・戦術的対応とが従来以上に指導者には求められよう。

 

私は、本書を読んで、政治制度や政治過程における「大統領化現象」は、「マクロ政治」が政策の争点になってきたことと表裏一体ではないかという印象を持った。マクロ政治を争点にする必要のなかった冷戦秩序下では、政治の役割は、経済の安定的発展と貿易摩擦への対応、それに国内における経済成長の成果配分に関する微調整をもっぱらの任務にすれば事足りていた。その配分のやり方に派閥という機能が適したのである。冷戦秩序が崩壊した現在は、マクロ政治、体制政策を争点にせざるを得ない時代である。政治の役割は、もはや経済果実の配分・微調整ではなく、指導者が明確にヴィジョンを打ち出し、その個性によって、変転する国際情勢や国内輿論に対応することである。大統領化は必然である。小泉政治はその第一歩であった。もし日本が従来型の微調整政治を続けたら、世界の動向から取り残され、笑い者になり、大きく国益を毀損するのではないだろうか。

 

 そこで、私は、政治的指導者の調達・選抜のあり方はどうあるべきか、というテーマを追求したいと考えた。既に本書の中にも、そのヒントが随所に示されている。たとえば、@民主党の三〇歳〜四〇歳代の松下政経塾的な生真面目な政治家たちの未熟さという指摘。A参議院は、定数を減らし、大衆化と逆の専門化した長期的議論のできる少数の人で構成すべきだという提案。B職業としての政治家像の変化、官僚像の流動化といった指摘。C「プレジデンシー・メイク・プレジデント」を重視して若い人の成長に賭けることの必要性といった指摘等々。大統領化時代にふさわしい政治指導者の調達・選抜という課題を、小泉時代の検証、政治指導者選抜の制度・慣習の国際的な比較、政治学の古典的著書、経営学(経営者論)の知見などを材料に解明してみたい。

 

平成一八(二〇〇六)年一一月一六日