ショスタコヴィッチの苦渋
過日、ニューヨーク・フィルの演奏会に出かける機会があった。主要曲はショスタコヴィッチの交響曲第五番ニ短調「革命」だった。今年はショスタコヴィッチ生誕百年ということで、演奏会で取り上げられる機会も多いようだ。僕はこの手の二十世紀音楽が苦手で聞かず嫌いだったが、初めて生でこの曲を聴いて、意外に美しい旋律や和声も出てきてちょっとほっとした。もっとも、ショスタコヴィッチは、ソ連当局から勤労大衆に親しみやすい音楽を作れと命ぜられて、嫌々ながら、「森の歌」などという平明な佳曲も書いているから、本来はメロディメーカーとしても優れた人だったのかもしれない。
それにしても、こんなに苦しげな表情の音楽はそうないだろう。革命を描いた一種の交響詩であろうが、ショスタコヴィッチは決して共産主義革命の正義など信じていない。素直に結ばずに歪んでつながる旋律線、お義理で取って付けたような歓喜のフィナーレなど、作曲家の苦渋の表情が目に浮かぶような音楽なのである。唯一彼の心がほぐれるのは、組織人から離れて一個人の家庭生活に還った喜びを表すかのような第三楽章のラルゴにおいてだけだ。共産主義に内心反発しつつも、おそらくロシア人とロシアの伝統に深い愛情とプライドを持っていたショスタコヴィッチは、亡命という道を選ばなかった。その苦悩は私たちには察することのできない激しいものだっただろう。
僕が不思議に感じたのは、資本主義の権化のアメリカのオーケストラの人たちが一体どんな気持ちでショスタコヴィッチの「革命」交響曲を演奏しているのだろうか、ということだ。ニューヨーク・フィルは確かに優れたマシンのような精密な演奏を聴かせてくれた。だがそれはやはりアメリカ資本主義に組み込まれた巨大産業、巨大エンターテインメント装置としてのオーケストラだった。僕には、オーケストラの面々がどんな思いでこの曲を演奏しているのか、最後までわからなかった。滅びし共産主義への勝者の哀れみ? いや、僕にはそれすら感じられなかった。彼らはただ巨大な資本主義オーケストラの一員としての任務を果たしている、そんな印象だった。
僕がそんな思いに陥ったのは、ひとつには、この演奏会にS銀行の顧客を招待したイベントが組み込まれていたからだ。入り口にS銀行の行員たちがぞろぞろたむろして、彼らの得意客たちを次々にご案内する。演奏会終了後は隣の場所でパーティが用意されている。ニューヨーク・フィルの演奏会は、富裕層顧客への高級なサービスとして提供されていたのである。S銀行に選ばれた顧客でない、純粋に音楽を楽しみに来た大部分の人たちは、決して愉快な思いはしなかっただろう。私たち一般の音楽ファンはこんなイベントが組み込まれていることなど事前に知らされていない。S銀行やニューヨーク・フィルには、一般向け演奏会とS銀行の企画演奏会の日を分けるくらいの配慮が何故無いのだろうか? この日の演奏がとりわけショスタコヴィッチの苦渋の表情を色濃く滲ませているように感じられたのは、こうした金融資本主義的イベントが付帯した演奏会だったからかもしれない。
平成一八(二〇〇六)年一一月二七日