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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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河原の左大臣の情念

 

 

 きょう国立能楽堂で演じられた能「融(とおる)」に感動しました。能「融」の主人公、源融(みなもとのとおる。八二二年〜八九五年)は平安時代初期の貴族です。嵯峨天皇の子息として生まれ、臣籍降下して源姓を賜り、嵯峨源氏の祖になります。左大臣従一位にまで上り、六条河原の院に住んで風雅な生活を送ったので「河原の大臣(おとど)」と呼ばれました。六条河原の院は大豪邸で、河原の大臣は、その庭に鴨川の水を引き込み、池には毎月三〇石の海水を難波の浦から運んで海水池となし、周囲に陸奥国の塩釜の塩屋を模した建物を作り、そこで汐焼きをして煙の上がるのを見て楽しんだと言われています。宇治にも同じような贅沢な別荘を造り、これは後に平等院となりました。嵯峨の清涼寺(釈迦堂)も源融の別荘の跡だと伝えられています。また、詩歌管絃にも優れ、百人一首に

 

  みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに

 

の歌が採られています。

 

 さて、能「融」は、源融が亡くなったはるか後年の物語として設定されています。六条河原の院は相続する人も無く荒れ果てています。月の美しい秋の夜、そこを訪れた旅の僧が融の亡霊と出会います。亡霊は、前半、老翁姿で現れて僧に河原の院の由緒来歴を語り都の名所案内をし、やがて、かつての華麗な衣冠束帯姿となって現れ、昔をしのんで舞を舞い、夜明けと共に冥界に帰って行きます。世阿弥の詞章は殊のほか美しく、前半が月の出から真夜中まで、後半が天高く輝く月がやがて夜明けに月の入りに至るまでと、月をモチーフに叙景されています。きょうの演能で、老翁が舞台の端に立って汐を汲む所作をするときに、翁がさあっと月光に照らされる幻影を感じました。

 

今回の演能が大変面白かったのは、源融の経歴からどんな人物像を構築するかによって、この能の雰囲気は全く違ったものになるのを知ったからです。一般的な能楽解説書では、この曲は、「融の美的生活の追及を主題とし、旧跡を訪れた旅僧の誌的空想として描き出した閑雅な曲」、或いは、「既に滅び去ってしまった美しくも高貴なものへの憧れを、年月のあまりにも速やかな流れの中で、心ゆくまでうたい上げようとした曲」というように書かれています。しかし、林望さんが「能は生きている」(集英社文庫)に書かれた「融」の解説は、かなり趣を異にしています。林さんは、「大鏡」「今昔物語」他の説話で語られる源融に関する逸話が、いずれも、彼が人並みはずれて現世の栄華に執着した人であることを物語っていると述べておられます。陽成天皇の後継者を選ぶ際に、既に臣下に下ったにもかかわらず名乗りを上げて藤原基経にぴしゃりと挫かれたり、亡霊となって現れて宇多天皇にその愛人を自分によこせと言ったり、今は他人の所有になっている河原の院に醍醐天皇が行幸された際に、やはり亡霊となって現れて自分の邸宅に来るなと言ったり、という具合です。つまり、融は、世俗の欲望から離脱した風流人などではなく、皇位継承の野心を藤原氏に挫かれ、形の上では高位ながら実際の権力にはありつけなかった鬱憤を、財力に任せた豪奢な暮らしによって晴らそうとした、そういう人物とも考えられるわけです。

 

 きょうの演能では、まさに、「滅びの宿命への大貴族の憤怒」の劇として、融を描いていたと思いました。優美な衣冠束帯姿の融が、激しく扇を投げ捨てる所作や、「十三段の舞」という通常よりもはるかに長大な舞を舞い狂う姿は、彼の情念の強さ、深さを表しているかのようでした。十三段の舞で、シテは橋掛りまで出て舞い、また最後には猛烈な速さの早舞を舞います。融は、追憶の中の豪華な河原の院で舞っているはずなのですが、舞えば舞うほど、彼の背景が現実の廃墟に変容してゆくすさまじい幻影を僕は見たような気がしました。それは、悲しみというより、人間の欲望を覆う巨大な虚無です。その巨大な虚無感が胸に押し寄せてくる恐ろしい舞でした。融の面もどこか憂いを含んだ表情に見え、冠からあふれた長い髪も振り乱されていました。

 

シテをされた観世流能楽師・駒瀬直也さんは、僕と近い世代の方ですが、終始しっかりした謡と柔らかい中にも力強さをこめた所作や舞は、聞き応え見応えがありました。長大な舞の後のキリの謡もしっかりと謡われて安定感を感じました。一方、亀井広忠さんの大鼓、鵜沢速雄さんの小鼓、観世元伯さんの太鼓、一噌幸弘さんの笛という囃子方の皆さんの文字通り熱い熱い熱演が融の情念の噴出を見事に描いていました。きょうの「融」は駒瀬さんが年に一回催されている個人企画能「能楽バサラ」の第四回目の公演だそうです。「能楽バサラ」のバサラの趣旨は、駒瀬さんの挨拶文によれば、「バサラは、十二神将の伐折羅大将でもあり、室町時代のバサラ大名でもあります。型にとらわれず勝手気ままなとか、粋なとか、或いは派手派手しいなどの意味もあるようです。六百年受け継がれた型を大切にする能楽の舞台に、バサラというイメージを重ねるには少々無理もございますが、これは舞台をつとめます私自身の心持ちということで、どうしても内へ内へと抑えがちな舞台を、どこかで大きく飛散、飛躍させる機会を持ちたい、ということでしょうか。」とのことですが、人間の巨大な欲望がもっと巨大な虚無に押し流されてゆく破格のイメージ作りに、バサラの趣旨がよく現れた素晴らしい舞台でした。

 

平成一八(二〇〇六)年七月一六日