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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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舘野泉さんを迎えた記念演奏会にて

 

 

さる三月二九日、名古屋駅前のミッドランドスクエア誕生記念演奏会が愛知県芸術劇場のコンサートホールで催され、僕も関係の方からチケットをいただいていたので出かけてみました。この演奏会、ミッドランドスクエアのオーナーがトヨタ自動車などと共に毎日新聞社であることもあり、毎日新聞社の主催する全日本音楽コンクールの歴代一位受賞者を迎えての演奏会という趣向でした。プロデュースと指揮は沼尻竜典(りゅうすけ)氏、オケは名古屋フィル。

 

 はじめに去年の中学生ピアノ部門で一位だった古賀大路(だいじ)君のソロで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の第一楽章。なかなか堂々とした演奏ぶりでしたが、演奏し終わってから何度も観客やオケの人たちに向かってぎこちなくお辞儀するあたりが、何とも中学生らしくて初々しい。演奏がどうこうより、僕は、大人になりきれていない瑞々しさと脆(もろ)さが同居した青春前期の輝きが古賀君から発散しているのを感じ、自分や自分の娘が辿って来たあの希望と不安が入り交じった時期を思い出し、彼がここ何年間かをどう過ごすのだろうかと思いやられて胸がいっぱいになりました。同じような思いは、四曲目の三善晃作曲の詩篇頌詠を歌った浦和第一女子高校のコーラスを聞いたときにも僕の胸に去来しました。百人を超える女子合唱隊は、皆、白のブラウスに紺色のスカートの清潔な制服姿で登場しました。その彼女たちの瓜実(うりざね)顔と黒髪の何と美しいこと!彼女たちの歌う姿の何と誇らしげで清らかで生き生きしていること!そこには、携帯電話やゲーム機の人工空間で時間を消費するのとは正反対の人間らしい青春の姿がありました。僕は、彼女たちの人生に人間的な幸あれと祈るような気持ちにさせられたのでした。

 

情報と物質があふれ返っている現代日本で、人間的な青春を過ごし人間的な人生を営むのは実に困難なことに感じられます。古賀君や浦和第一女子高校コーラス部の子たちの健気な姿を見ていると、未来の日本を作ってゆくあの世代に何を残せるのか、我々大人たちには大きな責任があることを感じないわけにはゆきません。

 

 さて、二曲目は、二四年前の第三六回の全日本音楽コンクールの高校生独唱部門で一位だった浜田理恵さんのソプラノ独唱で、リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」。浜田さんはフランスを中心に世界中でオペラ歌手として活躍しておられます。僕は音のエピキュリアンとしてのリヒャルト・シュトラウスは嫌いではありません。しかし、この曲もそうですが、彼の音楽には倫理が感じられません。世の中がどんどん悪くなってもひとり傍観して眼前の快楽にふけっている芸術家を感じます。「ツァラトゥストラはかく語りき」なども、まるで鉄腕アトムの主題歌のような軽さで、ニーチェの天才的狂気の哲学とは全く無関係なお気楽な音楽です。リヒャルト・シュトラウスではない浜田さんを聞いてみたかったです。三曲目は、指揮者の沼尻竜典さん作曲の新作、ヴァイオリンとオーケストラのための「記憶の終焉」が、第三一回コンクール第一位の竹澤恭子さんのソロで演奏されました。鬼面人を驚かす類の現代音楽のショウピースでしたが、欧米で引っ張りだこのヴァイオリニストである竹澤さんをソリストで迎えるなら、彼女のソロをもっと楽しめる選曲にしてほしかったです。

 

 この演奏会の最後に、戦後間もない昭和二二(一九四七)年の第二回コンクールで小学生ピアノ部門第一位だった舘野(たての)泉さんを迎えて、ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲が演奏されました。ジャパンアーツの演奏会案内(http://www.izumi-tateno.com/)に記されたところによれば、舘野泉さんの略歴は以下の通りです。

 

「一九三六年東京生まれ。一九六〇年東京芸術大学首席卒業。六四年よりヘルシンキ在住。六八年、オリヴィエ・メシアン現代音楽コンクール第二位。同年よりフィンランド国立音楽院シベリウス・アカデミーの教授を務める。八一年以降はフィンランド政府の終身芸術家給与を得て演奏活動に専念。演奏会は世界各地で三千回以上、リリースされたCDは百枚にのぼる。人間味溢れ、豊かな叙情性をたたえる演奏は、世界中の幅広い層の聴衆から熱い支持を得ている。純度の高い透明な抒情を紡ぎだすこの孤高の鍵盤詩人は、二〇〇二年に脳溢血(脳出血)で演奏会中に倒れ、右半身不随となるが、〇四年に左手だけの演奏で復帰を果たし、新たな音楽世界を切り開いた。」

 

僕は、さきほどのリヒャルト・シュトラウスとは違い、舘野さんのラヴェルの協奏曲演奏から倫理そのものを感じました。ただし、それはラヴェルの曲からではなく、舘野さんの演奏する姿からです。舘野さんの左手が奏でるピアノは粒ぞろいの独特な美しい音色です。しかし観客からよく見える彼の右手はぶらりと下がったまま動きません。それは本当に痛々しい姿です。この右手さえ動けば何倍も華麗な音楽で聴衆を魅了できるのに…そんなうめき声が彼の背中から聞こえてきそうにも見えました。右半身不随となったピアニストはどれほど口惜しさに苛(さいな)まれたことでしょうか。しかし不思議なことに、演奏し終え、拍手に応えて不自由な体をおして何度も舞台に登場した舘野さんの表情からは、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」というようなベートーヴェン的な力みは全く感じられませんでした。むしろ、本当に演奏を楽しませてもらった、ありがとう、とでも言いたげな楽しそうな表情、或いは、人生の不幸など恐るるに足りないものさ、とでも訴えているような清々しい表情が僕の目に焼き付きました。

 

「舘野泉 風のしるし(http://www.izumi-tateno.com/)」というホームページに掲載された「小自叙伝」にはこう記されています。

 

「…病気で倒れてからも、以前のようにこの世界、自然には美しい、不思議な魅力を具えたことが数え切れぬほどあり、それはそれで自分の心を満たしてもくれたのですが、やはり演奏することには敵(かな)わないのです。一本の手でも描ける充実した世界に触れて、はじめて私はまだ生きている、いや、また生きているとしみじみ思ったのでした。」

 

この淡々として控えめな感想を読んで、僕は、自然の魅力を感得する感受性に裏付けられた感謝や気力の自然な営みが、彼を蘇生させたのだと感じました。彼の蘇生は決して押しつけがましい英雄譚というような姿をとらなかったのです。何としなやかな自由人なのでしょう。

 

僕は舘野さんのシベリウスのピアノ曲集はとても好きでしたが、この日まであまり彼のことを詳しくは知りませんでした。なぜフィンランドに住み着いたのか、奥様があちらの人だからだろう、という程度の認識でした。今回、舘野さんの「小自叙伝」を読むと、彼のお父さんはチェリスト、お母さんはピアニストで、二人とも武蔵野音楽学校創成期に学んだ人たちとのこと。しかも母方の小野家は、明治維新まで七代にわたって仙台伊達藩の能楽師だった家柄だそうです。舘野さんはこうした音楽家、芸術家の家系が生み出した駿馬だったのですね。戦中、戦後の混乱期も実に自由で伸び伸びした雰囲気の家庭で育った舘野さんの真骨頂は、文学を愛し権威主義を嫌う自由人たることにあります。「小自叙伝」に曰く、

 

「一九六四年、しばらくのつもりでヘルシンキに移住。キャリアも順調にスタートしていたのに何故北の最果てにと、皆から反対された。キャリアを積むならロンドンやニューヨーク、勉強するならウィーンやパリなどと言われたが、どちらにも興味はなかった。権威や組織、伝統だのお墨つき嫌いはいまも変わらない。文学を通して憧れていた北欧に住むこと、西でも東でもなく、重い伝統や権威などなくて、日本にも中欧にも適当な距離をおいて孤独でいられるフィンランドがよいと思った。スウェーデンやデンマークは西欧に近すぎるとも思った。六〇年代のフィンランドは本当に地の果てみたいに寂しく澄んでいて素敵だった。…(中略)…八〇年代はヘルシンキ・フィルや東フィルの海外公演のソリスト、そして欧米などのほかにインド、東南アジアの諸国、中国、中近東などにしばしば演奏旅行をするようになった。音楽の商業主義にまだ毒されていないこの地域で演奏することは好きで、これからも蒙古やチベット、ブータンなどで演奏出来たらと夢見ている。」

 

既成の楽壇的秩序や商業主義とは無関係に自由奔放に活動したい、その熱情が舘野さんをフィンランドに駆り立てたのですね。それにしても、モーツァルトがこの人のために左手のための協奏曲を書き残しておいてくれたら、と思わずにはおれませんでした。

 

平成一九(二〇〇七)年四月一日