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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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「陽春花形歌舞伎」を楽しむ

 

 

先月、御園座の歌舞伎公演「陽春花形歌舞伎」を妻と拝見しました。今が旬の働き盛りといった風情の坂東三津五郎と中村橋之助に若い世代の尾上菊之助の三人を主な役に立てて、「盟三五大切(かみかけて さんごたいせつ)」と「芋掘長者(いもほりちょうじゃ)」とが演じられました。

 

「盟三五大切(かみかけて さんごたいせつ)」は、四世・鶴屋南北の作になる江戸後期の世話物(当時の世態風俗を描いた現代劇)です。このタイトルは、芸者に身をやつした小万(こまん)という美しい女性の腕に彫られた文字に由来しています。三五とは、小万の夫、三五郎のことで、盟(かみかけて)大切なのですから、いわば「三五郎、私の命」と腕に彫ったわけです。パンフレットの英語解説をみると、「盟三五大切」のタイトルは“Sango,My Life”と訳されています。小万はこの彫り物を彼女に惚れ込んでいた源五兵衛に見られ彼に恨まれ殺されてしまいます。

 

「盟三五大切」のストーリーは、忠臣蔵のひとつのエピソードを下敷きにしながらも、むしろおどろおどろしい人間の欲得の世界を描いたものです。複雑な筋立て、入り組んだ人間関係、錯綜する因果、怪異な出来事、歌舞伎特有の滑稽味などが入り交じっており、その内容を簡潔には言い表せない芝居です(詳しいストーリーは、

 http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/sango.html  

をご参照ください)。

 

四世・鶴屋南北(一七五五年〜一八二九年)は、江戸後期(文化文政期)に最も人気を集めた劇作家で、特に「東海道四谷怪談」は有名です。芝居の非日常的な迫力と面白さを極限まで追求した恐るべき奇才ではないでしょうか。「盟三五大切」でも、源五兵衛の五人殺しの凄慘なシーン、とりわけ源五兵衛が小万の手を取って彼女の生んだ赤児を殺させる残虐な場面や、殺害した小万の首を懐に抱えて雨の中を去ってゆく壮絶な姿や、供えられた彼女の首が突然に口を開く奇怪さなど、要所にグロテスクと言えるほどの怪奇趣味が現れます。

 

赤穂浪士の資格を持ちながら主君の仇討ちよりも女に身を持ち崩しかける源五兵衛、最後に改悛するもののずるくて欲の皮の突っ張った三五郎、流れに身を任せたような主体性のない小万(三津五郎、橋之助、菊之助の見事な人物造形が小生に時空を突き抜けてリアルな人間像を感じさせてくれました)など、この芝居の登場人物の多くが、人間の醜悪さを体現しているかのようです。劇作家の冴えて醒めた世相観察が伺えます。唯一、解毒剤といっていいほど一途でさわやかな人物は、源五兵衛の身代わりになって番所に引っ立てられてゆく八右衛門で、彼の好男子ぶりは印象的です。

 

この頽廃ムードに満ちた芝居を見ていて、小生は、同じ江戸時代の芝居でも初期の近松門左衛門(一六五三年〜一七二五年)の人形浄瑠璃が、いかに清潔なものかを感じないわけにはいきませんでした。近松の「曽根崎心中」なども、素材としては愛し合う男女の心中という重苦しいテーマを扱っていますが、表現ははるかに高潔で観客を清らかなカタルシスに包んでくれます。近松門左衛門と鶴屋南北の違いは、近代西洋音楽でいえば、同じウィーンの音楽でも、ハイドンやモーツァルトの時代とリヒャルト・シュトラウスやマーラーの時代の違いといえるでしょう。時代が下がり人間が素直さ、素朴さを失うと共に、退廃的な世相が顕著になる、江戸時代の日本と近代欧州に共通の歴史を感じます。「盟三五大切」という芝居が比較的近年になって好まれ演じられることが多くなったという解説を読んで、現代日本はやはり江戸後期に近い時代なのか、との思いを抱かざるを得ませんでした。

 

さて、もう一つの演目「芋掘長者」は、大正時代に岡本柿紅という人が書き下ろした舞踊劇です。常磐津と長唄が掛け合う中、純朴な芋掘り青年を中心とした舞踊の数々が繰り広げられる、屈託のない祝儀曲です。歌舞伎でも、芝居的要素は少なく、華やかな音楽と美しい舞踊を楽しむ演目です。三津五郎と橋之助の息の合った溌剌とした舞い姿が印象的でした。

 

ところで、この舞踊劇のヒントになった芋掘り長者の伝説は、実は「金沢」の地名の由来となった加賀地方の伝説なのです。曰く、

 

「平安時代の養老年間のこと。加賀の国に芋掘藤五郎という農夫が住んでおりました。藤五郎は心が清く欲が無く、村人たちから親しまれ尊敬されていました。藤五郎は毎日山に入って芋を掘って生計を立てていましたが、ある時、芋を掘ると金の小粒が出てくることに気づき、それを妻に話すと、観音様を厚く信仰していた妻は、観音様を念じながら掘った土を湧水で洗ってみては、と言います。藤五郎がそのとおり土を湧水で洗うと、金の小粒がきらきらと光を放つのでした(生方注:要は砂金が出たのですね)。夫婦は睦まじくこの金の小粒で仏像を造り、寺を建てて安置したのでした。」

 

この湧水が「金洗い沢」と呼ばれ、金沢の地名の由来となりました。現在の兼六園脇の金沢神社の境内の湧水がその「金洗い沢」だと伝えられています。また藤五郎夫婦の建てた彼らの菩提寺は寺町にある伏見寺だそうです。きょうの「陽春花形歌舞伎」のいい席を取っていただいたTさんご夫妻も金沢の方で、たまたま小生が金沢に居たときのご縁から名古屋で知遇を得た次第です。この日の演目が金沢との不思議な縁(えにし)を感じさせてくれたのでした。

 

平成一九(二〇〇七)年五月三日