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保守本流の戦争総括−徳富蘇峰の「終戦後日記」を読む−

 

 

徳富蘇峰(文久三(一八六三)年〜昭和三二(一九五七)年)は熊本県生まれ。明治末から大正初期まで貴族院議員もつとめたが、彼の本領は何といっても、明治・大正・昭和を通じて言論人(ジャーナリスト)として、また、歴史家として活躍したことにある。主著「近世日本国民史」は大正七(一九一八)年に起稿し、昭和二七(一九五二)年に完結。史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全百巻の膨大な史書である。蘇峰は、雑誌「国民之友」などを創刊し、戦前・戦中は「亜細亜モンロー主義」を主張する大思想家として多くのファンを有したが、戦後は評価が一転した。

 

この「終戦後日記」は、蘇峰が終戦直後から綴った日記が初めて公開されたものである(僕が読んだのは「第一巻」で以下「第四巻」まである)。日記は、戦後、公職を辞して、GHQに戦犯指名を受ける覚悟をしていた蘇峰が、大東亜戦争に日本がなぜ敗れたかを忌憚なく述べ綴ったもので、いわば当時の保守本流から見た大東亜戦争の総括といった趣を持つ。勝利へ邁進しなかったとして昭和天皇に苦言を呈し、東條、近衛ら指導者たちを痛烈に批判し、大戦の行方を見誤った自らを深く悔やむ。その筆致は思いの外に柔らかく、依って立つ立場も世界史的に見て公平だと感じた。戦後に「変節」しなかった知識人の「良識」の一つの型が現れていて、大変興味深い。そして何よりも、文化勲章を返上し、GHQに「煮てでも焼いてでも食ってくれ」と腹を括って覚悟を決めたあっけらかんとした明るさが明治人のたくましさを感じさせて、読後感をさわやかなものにしている。

 

 「終戦後日記」の中でも、とりわけ昭和天皇の戦争指導への蘇峰の不満は、アジア・モンロー主義の旗印の下、米英をアジアから排除するために戦争を鼓舞した保守本流の立場から、大東亜戦争失敗の原因の核心に迫ったものとなっている。曰く:−

 

「今上天皇に於かせられては、むしろご自身を戦争の外に超然として、戦争そのものは、その当局者にご一任遊ばされることが、立憲君主の本務であると、思し召されたのであらう。しかしこれが全く敗北を招く一大原因となった…(中略)…自国が生きるか死ぬかと言ふ場合に、かかる生緩(なまゆる)き叡慮では、将兵がいかに奮戦勇闘せんとするも、克(あた)はざるものである。されば陛下に向かって、我等がしばしば、大号令を下し給ひ、鼓舞激励を与え給ひ、陛下ご自身陣頭指揮の実を挙げさせ給ふが、必勝の道であると、申し上げても、容易にお聴き容れのあるべきやうは無かったであらうが…。(中略)つらつら開戦以来のご詔勅を奉読するに、宣戦布告の大詔にすら、その文句はややもすれば、申し訳的であり、弁疎的であり、よって消極的気分が勝ってゐるやうだ。(中略)要するに戦争そのものが、至尊の好ませ給ふところではなく…」[1]

 

「報道によれば、主上はモーニング・コートとシルク・ハットで、霊南坂の米国大使館に御出で遊ばされ、マッカーサー元帥をご訪問あらせられたといふ。(中略)今日これだけのご奮発を遊ばるる程であったらば、大東亜戦争中に、二重橋の外に出御ましまし、自ら大本営を設けさせられ、あたかも明治天皇の広島に於けるが如き、ご先例に則らせ給ふたならば、如何程それが戦争に影響したかといふことを考え、洵(まこと)に恐れ入ったことではあるが、遺憾千万と言はねばならぬ。」[2] 

 

明治天皇が日露戦争の時に自ら広島の大本営に移って必勝を期したように、昭和天皇にも皇居から出て将兵を鼓舞してほしかった、との蘇峰の無念が、思わず「遺憾千万」という「暴言」を吐かせたのである。しかし、もともと平和主義者だった昭和天皇が戦争に臨んだ苦悩は、蘇峰はもちろん、後世の私たちの想像を絶する。個人的には「反対」の戦争を、機能として憲法の定めに従って遂行しなければならないのだ。戦争に至るまでの道のりを振り返っても、内閣は混迷し、軍部も不統一で「下克上」状態であった。およそ戦うための一丸となった戦略も乏しいまま戦争に突入した。戦後の東京裁判は、ナチスの指導者たちを裁いたのと同じ論理で、「共同謀議」を理由に日本の指導者たちを「平和に対する罪」によって裁こうとした。しかし、「共同謀議」ができるくらいに指導者たちが一丸となっていたなら、もっとましな戦争ができただろう。昭和天皇の逡巡は、指導者たちの分裂の結果であると共に原因でもある、と蘇峰流に言えば言えることになろう。

 

平成二〇(二〇〇八)年九月二七日

 



[1]  徳富蘇峰(御厨貴解説)「終戦後日記−頑蘇夢物語−」(講談社、二〇〇六年)、p九一〜九三

[2]  同上書、p一七〇