佐渡の人たちの心意気−武蔵国分寺薪能にて−
さる九月一八日、小生の自宅からほど遠からぬ武蔵国分寺の跡地で、国分寺薪能が催されました。国分寺市の姉妹都市である佐渡市から、能・狂言に精進してきた人たちがやって来て、能「巻絹」と狂言「鬼の槌」を演じてくれました。佐渡は、世阿弥が流された地でもあり、江戸時代以来、能楽の盛んな土地柄です。天気も良く、秋の虫の鳴き声を聞きながら薪能を楽しみました。
まず、能「巻絹」について。演者はお囃子方も含め、恐らく全員素人の方かと拝察しましたが、破綻なく見事に演じ切った気力と技術と演者の心の通じ合いに感服しました。自分も多少謡や仕舞を習っている経験からすると、素人だけで能を通して演ずるのは至難の技に感じられます。シテ、ワキといった立ち方と地謡方と囃子方の技術力の均衡と相互の信頼関係がないととても最後まで通すことはできません。佐渡の皆さんが稽古を重ねられた貴重な足跡を感じました。女流のおシテの堂々たる舞姿も美しいものでしたし、若い方もベテランに交じっていたのも素晴らしいと思いました。
次に、狂言「鬼の槌」です。まず、小生は、「和泉流」「大蔵流」以外に「鷺流」という狂言の流儀があったのは初めて知りました。また、佐渡や山口など日本のごく一部にしか残らなかった鷺流を復興・伝承しようという佐渡の人たちの「地元品へのこだわり」には敬服です。
その鷺流にしか伝わらないという「鬼の槌」という演目も印象的でした。演者が素人なので、プロの狂言師たちのような隙のないシャープな所作や謡は望むべくもなかったのですが、素朴で実直な演技が却ってこののどやかな演目にはマッチしていたように感じました。狂言が中世の民俗芸能から発したことを感じさせてくれました。
とりわけ、お人よしでおおらかという鬼のキャラクター設定が、全体を明るい雰囲気にしていたように思えました。鬼が、二人の人間たちの出来心から生じた盗みという「悪」を許し、却って「仇を恩で報いる」が如く、人間たちに富貴をもたらしてくれる、という筋書きからは、私たちの先祖の願望や人間への信頼の形が垣間見えたような気もしました。
平成二十二(二〇〇二)年一〇月二日