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「古典派からのメッセージ・2009年〜2010年」目次へ戻る
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ドラマと歌舞音曲と−心に残る「羽衣」

 

 

 さる七月九日、水道橋の宝生能楽堂で催された若手中堅どころの活躍する「五雲会」に出かけました。お目当ては、僕が金澤で謡と仕舞を習った師匠の藪俊彦先生のご子息、藪克徳さんがシテを務める「羽衣」。能の中でもよく演じられる名曲で、僕も何回か拝見していますが、この日の「羽衣」は、とりわけ印象深いものになりました。

 

まず前半です。三保の松原の松に掛かった天人の羽衣を見つけた漁師の白龍がそれを持ち帰ろうとするその刹那、幕の彼方から「なう、その衣はこなたのにて候、何しに、召され候ぞ」と、悲痛な声で天人が呼びかけます。この声を聞いただけで、僕は胸が締め付けられました。羽衣を奪われ月世界に帰ることが出来なくなった天人の悲しみを、これほど切実に、これほど深く、これほど劇的に描いた「羽衣」を僕は今まで見たことがありません。能は、「歌舞音曲」でありながら、やはりメッセージを持ったドラマ(演劇)なのだということを痛切に感じさせられました。

 

シテの藪さんは決して大袈裟な演技をしているわけではありません。むしろ、能の様式、格式に律儀に生真面目に従って謡い、舞います。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、どんな天人も人間もいつ遭遇し翻弄されるか知れない「悲しみ」の普遍的な姿が能舞台に鮮やかに写し出され、見所(観客)は「悲しみ」の姿を共有し、胸を締め付けられたのです。演劇性を極限まで切りつめて型に徹することで時空を突き抜けた人間の普遍的な姿を映し出す、この不思議な逆説的なドラマの力は、能に特有のものだと、この日の「羽衣」を拝見して改めて感じた次第です。

 

 白龍から返してもらった衣を着けると、天人の面の表情は光り輝くばかりに歓喜に満ちたものに変じます。それにしても、序の舞から破の舞へと徐々にテンポアップして盛り上がる音楽と舞踊の一体感と陶酔感は何に喩えたらいいのでしょうか。少しの乱れもないシテの舞姿の端正な美しさはもちろんですが、この日の囃子方の四人も見事に舞と一体化し、歌舞音曲としての能の喜びを僕たち見所に伝えてくれました。

 

平成二十三(二〇一〇)年七月一〇日