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ドストエフスキー読書日誌「罪と罰」(3/3)

 

(承前)[1]

 

 

【精神の自由をあくまで希求するラスコーリニコフ】

二つ目の作品論『罪と罰についてU』[2]では、小林はさらにラスコーリニコフの人物像に切り込み、古今の思想、哲学の世界を巡りつつ、ラスコーリニコフという人物を創造したドストエフスキーの人間観に分け入ってゆく。その迫力はまさに「思想劇」である。

 小林は、ラスコーリニコフが『地下室の手記』の主人公の発展形であることに読者の注意を促す。即ち、ラスコーリニコフは「奇妙に不安定な反抗児」であり、「浪漫派文学が創り出した、数々の輝かしい反逆者たちとは、凡そ遠いどこかの片隅で絶望している。」『地下室の手記』の主人公は、ドストエフスキー自身が乗り移って一人称で毒舌を吐いたが、ラスコーリニコフはドストエフスキーに操られている。しかし、『罪と罰』を一人称で書く構想をメモに残していたドストエフスキーは、この孤独な青年を単に「観察」しているのではない。ラスコーリニコフを知的に解釈しているのではない。「作者の通った道は、…(中略)…言わば愛は観察より遥かに広く深く見るという道」であり、「作者の愛は、もっと醇乎たる彼の魂を掴んで離しはしないのである。」

読者がこのドストエフスキーのラスコーリニコフへの愛を感得できるなら、「ラスコオリニコフの自意識も、殆ど無慙とまで形容したいような真率さに貫かれているのが見えるだろう。彼は、ニイチェアン(近藤注:ニーチェ哲学の信奉者)としては、単なる道化に過ぎまいが、ニイチェアンになるにはあんまり烈しく無垢であり過ぎた、というところが、彼の悲劇を生んだのである。」さらに曰く:−

 

彼は何も風変わりな思想を案出したわけではなく、誰の心にも潜んでいる疑い(近藤注:人生や世界に対する疑い)の種を、徹底して育てただけなのである。

 彼の疑いは、現実生活の制約なぞには一顧も与えず、自らの力でどこまでも突進するのであり、また確かにその故に凡そ空虚な世界に突入して行くのであるが、その努力は、観念の世界で何の代償も当てにしているわけではないのだから、その空虚な世界は、空虚なままに苦しく悩ましく、彼の不安な生存とともに烈しく鼓動しているのである。

彼が体現したものは、精神の自由の気違いじみた無償性であり、これに気違いじみた行為の無償性が呼応するところに、彼の悲劇が完成する。自由の種は、誰の胸にも宿っている。これを中途半端に育て上げた世の「五コペイカ銀貨自由主義者(近藤注:五コペイカは小銭であり、当時の進歩的自由主義知識人たちを揶揄した表現)」が、成心ある大人ならば、ラスコオリニコフは、見るも無慙な無心の子供ではないか。(傍点は近藤)

 

人間の「精神の自由」やそれが生み出す「人生や世界に対する疑い」は、ドストエフスキーが大切に考えていた価値観であろう。「自由の種は、誰の胸にも宿って」おり、「誰の心にも潜んでいる疑いの種」と小林が述べていることに注意を払おう。ラスコーリニコフは決して特異な人生観や世界観を持った青年ではなく、誰もが持っている「自由の種」「疑いの種」を純粋無垢な状態で育てようとした人間なのである。世間の大人たちや五コペイカ知識人たちは、早々に自由にも疑いにもケリをつけ、自由も疑いも心の片隅に置き忘れて「日常」に埋没し、流行りの人間解釈を称揚する。『地下室の手記』の主人公もラスコーリニコフも、これが我慢ならなかった。彼らは「成心ある大人」になるのを拒否した「無慙な無心の子供」だと小林が述べる所以である。

 

【「如何に生くべきか」という問いを眠らせる枕としての近現代の相対主義】

 だから、『罪と罰』は「犯罪小説でも心理小説でもない。如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』の記録なのである。」如何に生くべきかを魂の底から叫び声をあげて問うたドストエフスキーから見れば、ミルの功利主義やコントの実証主義の「生半可な」ロシアの弟子たち、流行りの進歩的革新運動の担い手たちが『罪と罰』を「懐疑派の宣伝」だと批判したことなど取るに足りなかったのである。

 十九世紀ロシアの知識人も、現代の知識人も、人間の「精神の自由」やそれが生み出す「人生や世界に対する懐疑」や「如何に生くべきかを悩み問うこと」を忘れてしまった。「何故かというと、道徳の歴史的社会的相対性という考えが、彼らの衰弱した懐疑が眠る柔らかい枕となってしまったからである。」小林のこの言葉ほど、現代の知識人の倫理観、道徳観の欠陥に対する痛烈な皮肉はないだろう。

 ここから、小林は、ドストエフスキーと同じくらい烈しい「懐疑」の叫び声をあげ続けたニーチェも、ニーチェが敵扱いしたカントやソクラテスも、「如何に生くべきか」という問題は、「ヘエゲル風に考えるにえよ、マルクス風に考えるにせよ、一元論的歴史主義の中には決して現れ得ない」ことをよくわかっていた、と述べる。さらにパスカルにとっても「考えるとは、如何に生くべきかを問うことに他なら」なかったと言う。

 シベリアの流刑地で病気になったラスコーリニコフは、アジアの奥地で発生して欧州にまで蔓延するかつてない伝染病に、全世界の人が犠牲になるという「悪夢」を見る。この伝染病の患者の特徴は、何事につけ、自分の考えが絶対に正しいと頑強に主張して決して譲らないことであり、人々は相互不信から殺戮を始めるというのだ。江川卓氏の訳注によれば、この悪夢は、ヨハネ黙示録の第八章から第十七章にかけての預言の言葉に対応しており、「新しきエルサレム」が到来する以前の恐ろしい時代の描写である。ドストエフスキー所持の聖書には、黙示録のこの部分に「社会主義」「文明」「全人類」などの書き込みがあるという。

 小林は、この悪夢は、「彼(近藤注:ラスコーリニコフ)の心の底にあった激しい倫理的問い」であり、「大きな倫理的飢渇によって創り出された」と述べている。この倫理的飢渇は、「社会主義」「文明」「全人類」を憂えたドストエフスキー自身のものであっただろう。小林は、この作品論『罪と罰についてU』を次のように閉じている。

 

 作者は『罪と罰』という表題については、一言も語りはしなかった。しかし、聞える者には聞こえるであろう、『すべて信仰によらぬことは罪なり』(ロマ書[3])と。

 

令和二(二〇二〇)年九月三日

 



[1] この写真も、レフ・クリジャーノフ監督によってロシアで映画化された『罪と罰』のDVDです。

[2] 小林秀雄『罪と罰についてU』、新潮文庫「ドストエフスキーの生活」より

[3] 「新約聖書」の中のパウロによる「ローマ人への手紙」から第十四章第二十三節