ドストエフスキー読書日誌「罪と罰」(2/3)
(承前)[1]
【ソーニャとラスコーリニコフのその後】
『罪と罰』に陽光を差し込んでいるもう一人の登場人物はソーニャである。物語の後半から特に最後の「エピローグ」では、ソーニャの存在が大きくなる。エピローグでは、ラスコーリニコフが自首した後の裁判の経緯や流刑地シベリアでの生活が淡々と描かれている。ソーニャはずっとラスコーリニコフに寄り添い、監獄近くに住んで裁縫で身を立てながら彼の面倒を見る。
しかしラスコーリニコフはソーニャに対して粗暴で軽蔑的な態度をとり、ソーニャを怯えさせた。それは、彼が監獄生活においても自分の罪を感じることができず、屈従の日々を送ることが自身の誇りを傷つけていることに苦しみ続けたためであった。彼は、自分が特別な存在として「何のために生きるのか?何を目標にするのか?何を目指すのか?…」への答えを欲する強い欲望に苛まれていた。その苦しみは次のように描かれる:−
せめて運命が彼に悔恨をでも贈ってくれたなら、心を打ち砕き、眠りを奪い、そのあまりの苦痛に首吊り縄や深淵が目先にちらつくほどの、焼き付けるような悔恨を贈ってくれたなら!ああ、彼はそれを喜んだことだろう。苦痛と涙――これもまた生ではないか。しかし彼は、自分の犯行を悔いようとはしなかった。[2]
自分の犯した罪に悔恨の気持ちさえ抱けないラスコーリニコフの目には、周囲の囚人たちは「すべて人生を愛し、人生を大事にしている」ように感じられた。そして彼らは神へ厚い信頼を寄せていた。いつも陰鬱な表情をしたラスコーリニコフは囚人たちから愛されず、避けられ、憎まれてさえいた。民衆とラスコーリニコフのようなインテリとの間には「恐ろしい、越えられることのない深淵」が横たわっていた。彼は「あんたは旦那衆だよ。斧なんか持ち歩くのはあんたの柄じゃねえ」と老婆殺しの罪を嘲笑された。教会へ皆で祈祷に出かけたときには、「この不信心者め!おめえは神様を信じちゃいねえだ!」とつかみかかられ殺されそうになった。(こうした監獄内のやりとりは、ドストエフスキー自身の獄中経験を色濃く反映していると思われる。)
一方、時折ラスコーリニコフを訪ねて来るソーニャは、囚人たちから好かれていた。彼らはいつしか彼女の身の上を知り、彼らが肉親にあてる手紙を彼女に代筆してもらったりするようになった。労役に向かう囚人たちがソーニャと顔を合わせると、彼らは「あんたは俺たちのおっかさんだ、やさしい、思いやりのあるおふくろだよ!」と帽子をとってお辞儀した。
やがて、ある日、労役に出たラスコーリニコフは、現れたソーニャと並んで丸太に座り、不意に涙を流して彼女の両ひざを抱える。二人に「新しい物語」が始まることが予兆されてこの物語は終わっている。
私は、このエピローグを涙なしでは読めない。生きる意味を見出せずに苦しむラスコーリニコフと、あくまで傲岸で頑なな彼に無償の愛を注ぎ続けるソーニャ。ソーニャの愛は、神の愛となって、ラスコーリニコフの心の氷を溶かし得たのだろうか。「新しい物語」は一体どんな物語なのか。こうした思いが湧き出してきて、私は心を揺さぶられる。
【ドストエフスキーは甘くない】
小林秀雄は、『罪と罰』についての作品論を、昭和九(一九三四)年と昭和二十三(一九四八)年に書いている。
最初の作品論『罪と罰についてT』[3]で小林が読者に注意を促すのは、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいう人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈」でこの作品を「納得」して「わかったつもり」になったのでは、受験勉強のようなその場限りの「知識」しか身につかず、「古典」を読み味わう意味は小さくなってしまう、ということだ。古典を特定の学説や解釈に当て嵌めて「理解する」だけでは、あまり読書の意味はない。古典は、読者自身の感性で感じ、読者自身の生き方を映し出す時に大きな意味を現わす。このことを、小林はドストエフスキー論と限らず、著作の随所で述べている。
『罪と罰についてT』において小林が強調しているもう一つは、ラスコーリニコフとソーニャの「新しい物語」を感傷的、楽観的に捉えるべきではないということだ。「何故ラスコオリニコフはソオニャに惹かれたのか」といえば、「ソオニャという女が彼の創作」であり、「この貧弱な、無学な、卑屈とみえるまで謙譲な一人の人間に、彼は己の本性を映すに最も好都合な鏡を見つけ出した」からだと小林は述べる。
ソーニャはラスコーリニコフが勝手に自己投影するのに便利な存在でしかないとすれば、「多くの読者が、この場面(近藤注:エピローグ)に何かいわゆる良心の問題を或いはいわゆる宗教の問題を容易に見つけたがる」が、「作者の筆はここでも同じように残酷なのだ」として、小林は、ラスコーリニコフのソーニャへの突然の憎悪や意地の悪さが描かれた場面をその証拠として挙げる。エピローグに描かれた復活の希望、新しい物語の始まりは「半分は読者のために書かれた」のであり、ドストエフスキーはそんなに楽観的になってはいない、と小林は言う。なぜなら、次作の「白痴」が新しい物語の主題を提示してはおらず、「彼(近藤注:ラスコーリニコフ)の復活物語をドストエフスキーは省略したばかりか、以後生涯この世界に踏み込んでみせてはくれなかった」からである。
確かに、ソーニャの愛を神の愛として受け止めて、ラスコーリニコフが改悛し人間として蘇生した、というような「美しい未来」を、このエピローグから空想してはいけないのだろう。そのような甘い感傷で『罪と罰』を読み終えることもできるように、ドストエフスキーは、読者へのサービス精神を発揮したが、それはこれが最初で最後なのだ。小林にそう言われてみると、確かに、私がエピローグに至って涙を禁じ得ない理由も、単純なハッピーエンドの予感で感極まったわけではない。むしろ「そうであってほしいが、そううまくはいくまい」という悲しみの方が色濃い。ラスコーリニコフはあくまで「時代の子」「近代のインテリ」であり、彼が素直に神を受容できるとは到底思えないからである。
(続く)