高度経済成長時代の大衆とリーダー
高度経済成長時代の日本をどう評価すべきだろうか。高度経済成長は日本人をどう変えたのか、またその間も変わらざるものは何だったか。我々は何を得て何を失ったのか。大衆つまり農業者やその工業化したプロレタリアートは何を感じていたのか。また、リーダーである企業家や官僚や政治家は何を目指していたのか…。そんなことをとりとめもなく考えてみた。
高度経済成長は日本人の衣食住すべてに渡って大きな変化をもたらした。日本の住宅も大きく変貌した。いつからだろう、赤や青の屋根やテラテラした(と、僕には見える)新建材の住宅が、風土と関わりなく林立するようになったのは? こうした風土と不釣り合いな住宅が増えたのは、産業構造の変化が人間の大移動を引き起こし、その結果、風土を離れたサラリーマン(エトランゼ、プロレタリアート)が増大したためだろう。もちろん、保守主義ないし旅行者的視点からだけ風景を見るのは公平を欠いている。しかし、戦後日本の、国土、住宅、産業構造、そして人間性の急激な変貌を思うにつけ、もう少し漸進的なあり方もあったろうに、と考えてしまう。
きょう歩いた京王線の中河原駅周辺に、そうした戦後日本の風景の急激な変貌が象徴的に現れていた。崩れかけた藁屋根の民家、戦前からあるような古いお菓子屋、コンクリート造りのアパート、新建材の「マンション」、今風に小粋な喫茶店、そしてこれらを貫く歩道のないアスファルト道路……。これらは高度成長の勢いに乗って乱雑かつ無秩序に地域社会に重層してきた。我々の「心」も、こうした風景同様、新旧雑多な要素が秩序なく重層してきたように思われる。僕は、楽観的エコノミスト流に、「大衆が望むが如きに発展してきた大産業時代賛歌」を歌うことはできない。急激な経済成長が伝統、文化、自然の破壊と我々の人間性の歪みをもたらしたことは否定できないと思う。こうした乱雑な風景に囲まれた「心」が、漱石や丸山真男が述べたような「神経症」や「混乱」と無縁だとは僕にはどうしても思えない。僕は、少年時代、ヤゴ採りをした沼がいつの間にか埋め立てられて安物のアパートと化し、沼に住んで居た生き物たちが一瞬にして生命を奪われたことへの衝撃と悲しみを忘れることはできない。
昭和四十年代はまさに風土や風景に人々が無関心だった時代である。昭和五十年代になって、ようやく自分たちの住む土地の風土や風景に関心を寄せる人が増えてきた。四十年代の大移動で動いたエトランゼ・サラリーマンたちが、十年を経てようやく「定住民」意識を持つに至ったのである。おりからの伝統回帰の心情もこれに輪をかけたであろう。この新しい意識がどういう変化を日本にもたらすのだろうか?
高度経済成長時代の大衆の願望は「貧困から脱出したい」ことに尽きる。例えば、我が父も典型的な農家出身のエトランゼ・プロレタリアートであるが、里芋の煮転がしといった、自分を育ててきた「貧しげな」田舎風の食べ物より、豊かさの象徴と考えられた肉やコーヒー、スープに憧れ、それらを喜ぶ。一方では、田舎の川で釣りをするのが楽しみでもあるのに…。これが高度成長を支えた大衆の基本的パトス(心的態度、情熱)である。戦後日本は、大衆の「物質的に豊かになりたい」という欲望に応えるように動いてきた。
吉田満氏がさだまさしに共感している(「戦中派の死生観」)のは、意外な感じもするが、よく考えると、さだの音楽は、文人趣味、貴族趣味、上流階級趣味、復古主義、伝統回帰の情熱が濃厚である。それらは、吉田氏のような、旧制大学を出た元エリート軍人の日銀マンの心には容易に溶け込むのである。それに対し、我が父母とりわけ母はさだに違和感があるようだ。母はむしろ西条秀樹の「かっこよさ」に魅力を感じている。我が母は、現代日本の驚異的な発展を支えた、経済成長を望む前向きのパトスを持った典型的大衆のひとりである。彼女は、「精霊流し」の復古主義的、古典趣味的音楽よりも、東海林太郎から西郷輝彦、西条秀樹に至るまで、次から次へと大衆の好みを反映して現れる新種歌謡曲に共感するのである。
僕は、高度経済成長期における自然破壊や風土と不釣り合いな風景の出現に強い違和感を持ちつつも、敗戦に挫けなかった大衆のたくましい前向きのパトスを偉大だと思う。かつ、日本の大衆の健全さ、勤勉さには深い信頼を寄せている。正月に、高校時代の友人O君が来て、途中立ち寄ったガソリンスタンドできりりと立ち働く従業員のおじさんの「自分の仕事が、世の為人の為に役立っているんだと思うと仕事に手抜きはできない」との篤実さにあふれた言葉にしきりに感心していたが、日本の発展は、こうした働く大衆のまじめな信念に支えられてきたのである。労働への篤実な献身は、日本の歴史が培ってきた日本独特の大衆の素晴らしい素養である。リーダーが強力な指導力で大衆を引っ張って行く遊牧や牧畜の社会とは正反対に、家畜の飼育が極端に少なかった純農耕社会である日本では、突出したリーダーよりも「共同作業における人々の協調性と優秀さ」が何より重要だったのである。
ところで、リーダーの強力な指導力がなければ成り立たない牧畜社会とは正反対の、純農耕社会である日本では、リーダーはまさに「音頭取り」ないし「御輿に担がれるだけの存在」で足りた。この、牧畜社会と純農耕社会におけるリーダー像の違いについての会田雄次の分析は恐らく正しい。日本は「偉大なリーダー」を生みにくい。そして、そうした社会特有の、リーダーシップ不足による国家としての意思決定能力の欠如や救いがたいポピュリズム政治の出現といった宿命を持つ。
しかし社会にリーダーは不可欠である。リーダーはその社会の文化や伝統を担い、継承しなければならない存在である。文化や伝統の継承が行なわなければ社会は衰弱する。大衆は、勤勉であっても、伝統の継承という使命感やプライドはない。どんなにリーダーの役割が小さい社会においても、文化や伝統の継承はリーダーの最低限の任務である。
明治以降の日本の中で、伝統継承者たるべきリーダーたちは、どう振る舞ってきたのだろう? 武士階級のエトス(習俗、倫理)が漸次消滅して行く中で、「ノブレス・オブリージュ」をどのように担おうとしたのだろうか? 技術としての西欧文明と特殊文化としての西欧文明のうち、明治の指導者を驚かしたのは前者であった。彼らは前者を取り入れつつ、特殊文化としては武士的エトスに支えられた日本文明を保持できると考えたのだろう(和魂洋才!)。しかし、幕末維新の武士たちの凛々しさと、太平洋戦争当時の軍部指導者たちの品性のなさを比べ、かつ軍部指導者が導いた敗戦という結果を考える時、結局、明治以降のリーダーたちは、武士のエトスを守ることに失敗したのではないか、と考えざるを得ない。だからこそ福沢諭吉のような「西洋派」でさえ、晩年に「痩せ我慢の説」を書いて武士的エトスの維持について強烈な危機感を訴えざるを得なかったのだ。
戦後、伝統の継承者となるべきエリートたちは、戦争と戦後の改革によってかなりの数駆逐されてしまっていた。生き残った吉田茂ら保守本流のリーダーたちは、経済成長以外の文化、社会のあり方をどうしようとしていたのか。或いはそこまで頭を巡らす余裕はなかったのだろうか? これらの人々は戦後、自国の文化、伝統を守るというエリートの使命に関して、どういう形でリーダーシップをとったのか、或いはとらなかったのか? この点について、僕は、戦後保守勢力が、左翼、進歩派勢力との主導権争いに勝つ為にとった「防衛、外交の全面的な米国への依存」というあまりに現実主義的選択が、本来あるべき保守政治の姿を歪めてしまったような気がする。自主憲法制定という自民党の党是は今や風化しつつあるように見える。保守政治家のかなりの部分が、自主独立の精神を忘れ、文化や伝統の継承どころかそれらを語ることさえ放棄し、経済至上主義に邁進し、ないし、それをやむなしとしているうちに、風土や風景、しいては日本の文化、伝統は破壊されてしまった。田中角栄の「土建屋政治」はこうした「精神なき保守政治」の典型である。
こうして考えると、リーダーたちは、武士的エトスの徐々なる消滅の過程で、文化や伝統の継承という使命感をも失いつつあるのではないだろうか? リーダーが果たすべき役割を果たさなかった結果、日本文明は自己のアイデンティティを見失う恐れさえあるのではないか?
ここまで考えてきて、少し悲観的になりすぎているような気がしてきた。そもそも日本は昔から外来文化の摂取が得意であったが、そこには、自らの文明の性質に合ったものだけを採り入れる、本能的取捨選択が鋭敏に働いていた。例えば律令制の摂取時にも、宦官制度は採り入れなかった。戦後のアメリカ文化の大量流入に際しても、アメリカものを何でもかんでも採り入れた訳ではない。日本(その他の国々もそうだが)はアメリカ文化の圧倒的な物質的豊かさ、プラグマティズム、人々の開放性や明るさ等々に大いに惹かれはしたが、捨てたもの(採り入れなかったもの)も多い。英語を公用語にはしなかったし、大統領制や陪審員制度も採り入れていない等々…。こうして肯定的に考えれば、日本は、リーダーシップの弱さにも拘らず、取捨選択本能を依然機能させており、したたかに自己を維持できている、という気がしなくもない。
無常について僕はセンチメンタルに考えすぎているのかも知れない。伝統の破壊、国土の急激な変貌は、確かに良質の保守主義者から見れば耐え難いことである。しかし、例えばアラブの乾いた風土の上に林立する高層ビルとか、破壊と建設を繰り返し「風景の連続性」など望むべくもなかった西域や三日月地帯の歴史を思ってみれば、いかにも僕の慨嘆は視野が狭い。民族のアイデンティティは、それほどひ弱なものではないのかも知れない。それらの地へ旅してみれば一層はっきりわかることだろう。無常ということを、そして高度経済成長期の大衆とリーダーの役回りを、もっと骨太の感性で、いつかもう一度捉え直してみたい。
(一九八一年一月二五日)