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レヴィ=ストロースの感性

 

三層の感性

 レヴィ=ストロースは構造主義の元祖だ、などとレッテルを貼っても、彼について何も語ったことにはならない。民族学者レヴィ=ストロースの偉大さは、ブッダにも通じる、柔らかでしなやかで鋭敏な感性にある。事実、現代フランス人である彼自身が、仏教を柔らかく受容し、ブッダに深く静かに自己同一化した経験を語っている。

「…この簡素でゆったりした広間、寝台枠の上に置かれている藁蒲団の脇に立つ二人の僧の鄭重さ、集会の場や祭祀の飾りを作る時に漲るあの感動的な勤勉さ、そうした全てが、私が聖所というものについて思い浮かべることのできた観念に、かつてなかったほど私を近づけてくれた。…この祭祀と私との間に、どんな誤解も入り込みはしなかった。この場合、偶像の前で頭を下げるとか、いわゆる超自然の秩序を崇敬するということが問題なのではなかった。ただ、一人の思想家あるいはその伝説を生んだ社会が、二十五世紀前に熱心に求めた、そして私の文明は、それを確認することによってしか貢献できない、決定的な思想に敬意を捧げることだけが問題だったのだ。」(「悲しき熱帯」下巻より)

 レヴィ=ストロースは三層の感性を持っているように僕には思われる。まず、ショパンやドビュッシーやオペラや猫を語る時、或いはブラジルにおける西洋人の冒険者たちを語る時には、彼の生まれ育ったフランスの環境が育んだ、意識のごく表層から取り出された日常的感性が働いている。

 第二層の感性は、イスラム教や仏教や日本を語る時、即ち、西洋以外の諸文明を語る時に、知性と学識と好奇心に支えられた意識の中間層から発露する。例えば、現代日本の芸術である芹沢_介の染色や楠部彌弌の陶芸の美を感知し、それらが先祖伝来の技術と連続していることを感じ取る第二層の感性の冴えに僕は驚嘆する。芹沢_介の染色は、僕も倉敷で見て、こんな染め物を身近に置けたら素晴らしいと思ったが、素朴さの中にも優美さと繊細さを備えた芹沢の染色のことが、まさかレヴィ=ストロースに語られるとは思わなかった。

 そして第三層の感性は、未開社会を語る時に発揮される。彼自らの最基層の意識から取り出された感性は、未開社会に溶け込み共鳴し共振する。何がしかはジャン・ジャック・ルソーの見識に依存しながらも…。

 南米ボロロ族の一村落にたどり着いた時、それまで見て来たカインガング族やカデュヴェオ族の半ば文明化した「度外れの惨めさ」とは対照的な、生命力を保持した純粋な未開社会を初めて見た時の、精神の「とまどい」と「しびれ」の感覚は、いわば、自分の最基層の意識が呼び起こされた「無意識の覚醒」によるのであろう。

 彼のナンビクワラ族の家族生活についてのメモは、人間の原初の美しさに触れた者だけが描写し得る、共感に満ちた文章である。

「…この人間たちは、何か恐ろしい大変動によって、敵意を持った大地の上に圧し潰されたかのようである。覚束なく燃えている火の傍らで、裸で震えているのだ。……しかしこの惨めさにも、囁きや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎて行った結合の思い出に浸るかのように、抱き締め合う。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人は感じる。そして、これら様々な感情を合わせてみる時、人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じ取るのである。」(「悲しき熱帯」下巻より)

 この最初の南米踏査以降、レヴィ=ストロースは、二十年にわたって、豊かなインディオの神話世界に深く耳を傾け、その普遍的な意味の解明に自らを投じ、捧げた。彼は、感性と理性が切り離されることなく世界を感知し、自然とコミュニケートしていた新石器時代の人々の精神のありようを、心底実感することができたのだ。彼は、自分の置かれた人種的、民族的、歴史的な立場を滅却して、何の偏見も無く、自らを対象に同一化できる柔らかな感性の持ち主だったのである。未開の人々の位置に自分を置き、我々の位置に彼らを置き、両者の出会いの場所を自らの内に作り出すことで、彼は、未開社会の「野生の思考」が、いかに自然の生命形態の多様性と自然種の豊かな差異によって目覚めさせられ、複雑な思考体系を形成したか、その結果、新石器時代の人々がいかに、植物の栽培、動物の飼育、機織り、金属加工といった諸技術取得にいたる思考の蓄積、伝播を行ない得たかの秘密に迫ろうとする。彼のあらゆる書物の中で、第三層の基層感性がいかに鋭敏に活動していることか! しかも、第一層の感性に支えられた何ともフランス的な知性が、いかに、いい意味で饒舌に我々に語りかけて来ることか!

 彼の傷つきやすい感性は、西洋人の語る冒険譚の欺瞞性を嫌悪する。そして、人類学の知識で正しく対象を認識できるのに、対象である未開文明が既に生命力を失っている現代の冒険と、未開文明は生命力に溢れているのに、それを正しく見る術を持たなかった昔の冒険との矛盾に呻吟する。これほど西洋人的自意識、西洋的偏見から自由な人も珍しい。

 

歴史観T 西洋的価値観への抗議

 レヴィ=ストロースは、近代社会に特有と信じられている現象を、未開の中にも見出し、人間性の普遍を発見する。例えば彼は、ナンビクワラ族の社会を観察し、権力が「同意」に基づくものであること(まさにルソーの「社会契約説」!)や、国家の「社会保障」は原始社会にも存在することや、原始社会が必ずしも伝統に個性を押しつぶされた社会ではなく、個人の差異は大きく社会もそれを入念に利用していることを報告している。

 彼はまた、未開と文明の習俗の違いを、低い、高いで評価しない。全ての社会の習俗は、良き人間の意思の一片を反映するが、またどんな社会も絶対的な徳を有するわけではない。例えば、死者を埋葬することで死者の脅威を「遠ざける」文明社会と、死者の肉を食うことで死者の威力を無にし、その力を活用しようとする食人部族とは、死者に脅威を感じその脅威を取り除くという共通の意思を持っており、ただその習俗のあり方が正反対であるにすぎない。食人の慣習を絶対悪だとすることさえ、文明の偏見にすぎない。

 こうした諸文明の相対性、対等性を、レヴィ=ストロースの著書「人種と歴史」ほど、雄弁かつ簡潔に語った書物はあるまい。この著書で彼は、原始社会、非西洋社会への頑なな偏見に対し、柔らかな感性を以って抗議する。

 例えば、西洋人の記述する「世界史」の中で、文明が未開を発見したかの如く書かれている、ヨーロッパ人の「新大陸発見」の件(くだり)は、次の事実を踏まえて正しく書き直されなければならない。まず、新大陸が旧大陸にもたらしたのは、じゃがいも、ゴム、タバコ、コカ(現代麻酔術の基礎)、とうもろこし、落花生、カカオ、トマト、パイナップル、綿花、唐辛子など、新大陸の住人たちが永年の間に「自然環境の諸資源を完全に探査し、彼らの薬や毒とするために極めて多種の植物を馴化し」た豊かな文明の実りであった。一方、旧大陸が新大陸にもたらしたのは、馬や車輪や銃の他には、新大陸に無かった疫病(これで新大陸の住人の大半が死滅した)、伝統ある王国と文化の武力による破壊、住人の殺戮、奴隷化といったものであった。ヨーロッパ人は、当初、インディオが人間かどうか調べるため調査団を派遣したあげく、「インディオは、野放しの獣でいるより、人間の奴隷になる方が望ましい」と、キリスト教の価値観に基づいてインディオは獣であるとの結論を出した。一方、インディオたちは、白人の死体が腐敗するかどうか確認するために、つまり、白人が本当に人間なのかそれとも人間以外の何者なのかを確認するために、白人の死体の周りに何週間も見張りを置いた。どちらも無知に基づいた行動だが、インディオの方がはるかに科学的であり人間に値する態度をとっている。これらレヴィ=ストロースの挙げる事実から、新大陸に住んでいたインディオたちと、旧大陸から来た西洋人のどちらが野蛮人だと言えるだろうか。

 

歴史観U 累積的歴史とその条件

 レヴィ=ストロースは、歴史の「進歩」なる概念を当事者の主観にすぎないとし、世界の変化を確率的な現象の組み合わせと捉える。人類は、階段を一歩一歩着実に昇る人物ではなく、運がサイコロの目の出方にかかっている賭博者である。うまいポイントが偶々何度も続いた時、歴史は「累積的」に動き、そうでない時に歴史は「停滞」する。累積的歴史は、我々の視野の範囲では近代ヨーロッパに典型的に観察されるが、コロンブス以前のアメリカ大陸にも、永年の間に「自然環境の諸資源を完全に探査し、彼らの薬や毒とするために極めて多種の植物を馴化し」た驚くべき累積的歴史が存在した、とレヴィ=ストロースは説く。

 しかも文明が累積的か停滞的かは全て相対的なものである。あたかも、ある距離に焦点を合わせた顕微鏡の観察者には、ほんの数ミリでも前後して置かれた物体はぼやけて見えるように、また、移動する列車からは同方向に動く向かい側の列車はほとんど静止して見えるように、我々も自己の文明の価値基準に従ってしか相手の文明を観察できない。恐らく、自分の価値尺度に近い文明は累積的に見え、そうでない文明は停滞的に見えるのだ。レヴィ=ストロースは言う――

「そこで、我々が、あるひとつの人間社会を惰性的ないし停滞的だと規定することになった場合には、いつも、次のように自問すべきなのである。すなわち、一体この見かけの不動性は、我々がその社会の意識的ないし無意識的な真の関心の在り様に無知であることの結果ではないかどうか、また、この社会が、我々とは違った基準を持っていて、我々の方で錯覚の犠牲にしているのではないか、と。」(「人種と歴史」より)

 例えば、最悪の地理的環境に打ち克つことを価値基準にすれば、極北のエスキモーや砂漠のベドウィン族は最も賞賛に値する人々であり、壮大な哲学体系の構築に価値をおくのであれば、古代インド人に勝る人々はない。医学の体系に焦点を当てれば、ヨガや漢方やマオリ族の内蔵体操といった数千年の歴史を持つ方法が存在し、最近話題の無土壌農法はポリネシアの住民によって数世紀に渡り実践されてきた。また、音楽におけるリズム感なら、アフリカ諸民族を挙げないわけにはゆかない等々等々……。

 西欧の専売特許のように言われる産業革命は、もちろん十八世紀に西欧で始まったが、すぐにアメリカでも生起し、十九世紀末に日本にも現れ、二十世紀に入ってソ連でも実現した。今からおよそ一万年ないし八千年前の、人類に農耕を誕生させた偉大な新石器時代の革命は、エーゲ海、エジプト、シリア、インダス川地域、黄河流域で、「ほんの二千年程度のずれでほぼ同時に」生起したものである。我々の視野の範囲では近代西欧に起源を持つとされる産業革命も、永劫の時間のスケールで考えれば、先着順位などとるに足らぬ問題となる。

 一方、レヴィ=ストロースは、歴史が累積的に展開するための重要な条件も考察する。それは、文明が互いに異なることによって影響し合い協働することである。近世西欧のルネサンスは、ギリシア、ローマ、ゲルマン、アングロサクソンの諸伝統の坩堝の中から生まれたものであり、イスラム社会や中国からの影響も大きな役割を果たしている。一方、同じ累積的発展を遂げたコロンブス以前の南北アメリカの諸文明は、相互にあまり違いのないパートナーの間で展開した。それが、柔軟性を欠いた組織を形成し、ごく少数のヨーロッパからの征服者に滅ぼされた原因である、と彼は説く。

「人間集団を苦しめ、その本性を充分に実現することを妨げるような宿命的な力、他に比するものなき欠陥、それは孤立してあることである。」(「人種と歴史」より)

 この意味で、皆が同じになることを志向するような統一的「世界文明」の観念は全く空疎なものである。我々は互いに異なっていることに感謝しなければならない。

「世界文明は、それぞれが独自性を保っている諸文化の提携、世界の縮図以外のものではあり得ないのである。」(同上書より)

「人類に課された義務は、…一つの人種、一つの文化、或いは一つの社会にだけ特権を与えるような盲目的個別主義を警戒することである。だがしかし、また、人類のいかなる部分も、全体に適用されるべき命題を勝手に私しないこと、さらに、ただ一つだけの生活様式に嵌まり込んでいる人類というのは、骨だけに化した人類であるから考えられないということ、これらを決して忘れないことである。」(同上書より)

 

人類学の良心

 以前の人類学では、未開の世界の住民に対して、生水を飲まぬようにとか、下着を着けるようにとかの生活改良指導を行ったり、隣の部族との戦いや食人といった悪い習慣を止めさせたり、薬品の配布によって寄生虫や風土病を防止するといった活動が行われた。しかし、こうした「上からの強制的な」文化干渉や慣習破壊は、住民の免疫性の喪失や抵抗力の減退によって、却って広範な部族社会の衰退を招いただけでなく、「上から強制された」文化改造は、独自の文化体系破壊に対する深い恨みや憎しみを住民から買うことになったのである。たとえどんな良心から発したものであろうと、自らの「文明」と「正義」を振りかざしてこれを他の文化を持つ人々に押し付けるのは、今日の人類学の見識からは許されないのである。

 近代キリスト教の「宣教師根性」やマルキシズムの「国際主義」は、それらが武力の裏付けを有するだけに、最も性質(たち)の悪い文化侵略であった。英国やフランスが、植民地支配していたアジアやアフリカ諸国の独立で手痛い打撃を蒙ったのは当然の報いと言えよう。今だに韓国で反日的教育が行われているのも同様の理由である。僕は、中国共産党が現在行なっているチベット文明圧殺の動きにも強く異議を唱えたい。また同じ意味で、戦後アメリカが日本に対して行った上からの「民主化」も大いに問題がある。いくら戦勝国でも、あまりに大規模な「上から強制された」文化改造を行ったことは、自らの文化体系破壊に対する潜在的な憎悪を我々日本人に植え付けていないだろうか。かつての安保闘争などは、歪んだ形の反米感情の噴出と言えなくも無い。我々日本人が国益や国家戦略をリアルに考える力がなかなか身につかないのは、明らかにこの「与えられた民主主義」と米軍による一方的軍事的庇護のためである。日本は、もういいかげんに、対米依存ではなく、真の独立国家としての対米協調を構築すべき時である(それもいたずらな反米感情や熱狂的なナショナリズムによらずに…)。

 

種としての倫理

 未開世界に営まれる生活の多様性と豊かさを発見し、そこにおける、感性と理性が統合された状態での自然とのコミュニケーションの可能性を発見することは、自然界の中での人間の位置付け、人類の種としての倫理を問い直すことにつながる。それは、「神は自分の姿に似せて人間を作り、他の動物を人間に役立てるように作った」というキリスト教的人間中心思想に真っ向から異議を唱えることでもある。「悲しき熱帯」の「日本の読者へのメッセージ」の中でレヴィ=ストロースは言う―

「もし、…日本文明の生んだ賢者たちが教えたように、人類はこの地球に仮の資格で住んでいるに過ぎず、その短い過渡的な居住は、人類以前にも存在し、以後にも存在し続けるであろうこの世界に、修復不可能な損傷を引き起こすいかなる権利も人類に与えてはいない、ということを、日本文明が今も確信しているならば、もしそうであれば、この本が行き着いた暗い展望が、…唯一の展望ではないという可能性を、微かにではあれ、私たちは持つことが出来るでしょう。」

 レヴィ=ストロースは、文明の「進歩」なる概念を当事者の主観にすぎないとし、世界の変化を確率的な現象の組み合わせと捉える。現代文明の「進歩」は限りない自然の破壊とエントロピーの増大であり、行き着く先は破滅しかない。僕は、彼の、新石器時代こそ人間と自然が均衡を保って永劫に存在し得る時代であり、人類は現代科学の総力を結集して新石器時代の均衡を取り戻すべきである、という壮大な主張に強く共感する。科学と知性の力による「人類の退歩」という逆説的ヴィジョンに心から共鳴する。今以上の自然破壊は人類の種としての倫理に反する。自然との共存、人類全体としての経済ゼロ成長を覚悟しなければ、人類の種としての生存は維持できないと僕も思う。

 日本では「ゼロ成長の運命」は、既に一九七三(昭和四八)年の第一次石油ショックの後、下村治が喝破していた。その慧眼―資源の有限性への深い洞察―は今でも光っている。実際の日本は、その後、省エネとか省資源とか原子力の開発とかで何とかしのいできたが、資源の有限性に加え、近年は環境の劣化も急速に進捗しており、もはや経済成長主義は限界が来ている。我々はゼロ成長を生きる知恵を見出さなければならない。いたずらに成長を追うのではなく、内部の蓄積と豊穣を求める時代になっていると僕は思う。

 

方法

 レヴィ=ストロースは、「構造主義」という抽象的な哲学を語ったのではない。彼が語ったのは、ボロロ族の親族関係であり、トゥピ・カイワブ族の神話の委細であり、それらが持つ普遍的な意味、すべての文明に共通な構造である。彼の記述は、具体的、論理的、数学的で、かつ、詳細を極める。

 彼は、マリノフスキーのように、諸々の未開社会を探訪した挙げ句、「婚姻の本質は、儀礼によって、二人の個人が結婚するという事実に公的な表現を与えることである。」といった陳腐な一般的人間論に落ち着くような凡庸な民族学者でもなく(そんな結論を得るためならわざわざ未開社会を探訪する必要はない)、かといって和辻哲郎のように、文明の相違を単に環境や自然条件の相違に還元してしまう、単純な文明相対主義者でもなかった(僕自身は、和辻は大好きな思想家であり、「風土」の瑞々しい感性を決して否定するものではないが、レヴィ=ストロースの、文明に共通する「構造」を執拗に探求する姿勢と比べると、アマとプロの違いを感じてしまう)。

 レヴィ=ストロースは、神話や親族の詳細な研究から、文明を「規則立てられた交換(コミュニケーション)の束」と捉える。文明の基本要素である親族関係、経済活動、言語は、それぞれ、女性の交換、物財やサービスの交換、情報の交換と解釈される。彼は、そうした交換(コミュニケーション)を支える、あらゆる諸文明に共通な、到達すべき無意識構造の存在を想定する。かくして民族学の目的は、数限りなく存在する無意識の可能性の財産目録に到達することなのである。

 大橋保夫氏によれば、レヴィ=ストロースの方法には、ヤコブソンの構造言語学が深く影響を与えている。ヤコブソンの言語学は、ギリシア語、ラテン語、近代欧印語を基本軸にして他言語を論ずる安易な比較論を排し、欧印語以外の言語も含むあらゆる言語の音韻体系を、人類共通の生理能力を基礎にした統一的原理で把握する。言語の表面的な多様性の深奥にある、人類言語の普遍的解読法が解明される。構造言語学はついに人類言語の普遍に到達したのである。レヴィ=ストロースは、南米インディオの言葉の表記方法に悩んだ時、収集した言語資料からヤコブソンの弟子がナンビクワラ族の言葉の音韻体系を見事に取り出して記述してみせたのに驚嘆した。この経験が、レヴィ=ストロースに、多様性を理解した上での「文明の一般理論」の確立を志向させた契機となったことは間違いない。彼は、言語学におけるのと同様な普遍的方法論が人類学にも存在することを、深層心理学と言語学の力を借りて実証しようとした。ただしこれが成功したか否かは、なお後世の判断を仰がねばなるまい。

(一九八二年三月一四日)

 

レヴィ=ストロース(一九〇八年〜   )

フランスの人類学者。ユダヤ人家庭に生まれる。人類学に構造言語学の方法を導入、社会秩序をもたらす人間の精神構造などの解明を試み、人類学のみならず一般思想界にも多大な影響を及ぼしている。

 

〈参考にした文献〉

 レヴィ=ストロース「悲しき熱帯(上)(下)」川田順造訳(中央公論社)

 レヴィ=ストロース「人種と歴史」荒川磯男訳(みすず書房)

 渡辺公三「レヴィ=ストロース 構造」(講談社)

 副島隆彦「日本の危機の本質」(講談社)