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昭和史の善と悪

 

T

 

 昭和の始めの二〇年の歴史は、言うまでもなく悲劇に終わった。それは日本の失敗の歴史であり、その教訓は、日本人である限りは、子々孫々まで語り継がねばならない。

 対中関係を決定的に泥沼化させた日華事変、世界の趨勢を見極めることなく拙速に締結した日独伊三国同盟、米国との勝ち目の無い戦争、そして敗戦と、あたかも一直線に破局へ向かって行ったかのような過程も、例えば「重臣たちの昭和史」(勝田龍夫著)によって子細に眺めると、流れを食い止める機会は何度もあったことがわかる。この失敗は「必然」であった、などと、主に経済的、地政学的見地だけから、後講釈で片づけてしまってはいけないことが、痛いほどわかる。歴史は、必然と偶然が人間という器を通して綾なすドラマであり、人間の力が及ぶところ、及ばざるところが錯綜する演劇である。我々は、抽象的な経済的因果論や地政学的議論から抜け出し、ドラマの中の人間たちの立ち居振舞いを子細に観察し、味わわなければ、未来への豊かな教訓を得ることはできない。

 善悪二元論は、人間についてのあまりに単純に割り切りすぎた見方であろう。しかし、「重臣たちの昭和史」に描かれた昭和前半の政治的リーダーたちの出処進退を見ると、各人が歴史の中で果たした役回りは、みじんの曖昧さも残さぬほど善と悪とに区別できる。非常時では、リーダーたちのちょっとした言動が、ただちに国民に大きな幸運や恐ろしい災厄をもたらす。それゆえ、非常時には指導者の善と悪が明瞭に観察できるのである。

 この時代の指導者の善と悪は、おおむね次のように対比される。即ち、真に国益を考えて行動したか、私欲と野心が行動の源泉だったか。そして、冷静で合理的で責任ある判断力を有していたか、ムードに乗って、或いは暴力を背景として無責任に決断したか…。昭和前半の歴史は、後者(指導者の悪)が前者(指導者の善)を次第に押さえつけ、ついに圧し去ったプロセスとして描くことができる。では一体、どういう人間の悪が日本の破局を必然たらしめたのか?

 

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 一九二八(昭和三)年に起こった張作霖爆死事件は、中国政府のスパイのしわざを装って関東軍参謀の河本大作大佐が仕組んだものであり、満州事変の契機となった一九三一(昭和六)年の柳条溝事件も関東軍が中国軍のしわざとしてでっちあげたものである。こうした卑怯なでっちあげは、一流の文明国家のすべきことではない。中国側の反日感情を煽り、国際世論を敵にまわす羽目になったのは当然のことである。これ以降、政府の意向を無視した関東軍の独善と横暴は目に余るし、こうした出先の動きを統御できない陸軍の無統率はひどい。満州事変の直前、陸軍の不審な挙動を察知した元老西園寺公望は、陸軍大臣南次郎に、

「大陸浪人や右翼を陸軍が利用する如きをやめ、外交は外務大臣に任せ、勝手な先走りをしないよう、軍を統制するように」

と、強く求め、南陸相も表面上は従ったが、実際には南は関東軍を止める強い意志などなく、

「外交とは軍の尻拭いをすることだと思っていた」

という。一九三七(昭和一二)年に盧溝橋事件が起こった時、陸軍省は事件不拡大方針だったが、参謀本部の武藤章は

「愉快なことが起こったね」

と言い、大陸での一層の軍事展開を図ろうとし、結局こうした「野望」に引きずられて大陸戦線は泥沼化する。このように、統率力が全く無く、冷静で客観的な状況判断と戦略立案もできず、火事場泥棒的な発想と、こうなってほしいという願望だけで動く陸軍の幼稚さには本当に怒りを覚える。世界的視野と財政的裏付けを欠いた石原莞爾大佐の「大東亜共栄圏」構想はまさに幼稚な「願望」の典型であろう。陸軍の指導者層こそ昭和史の最大級の悪である。

 右翼団体「国本社」を主宰していた平沼騏一郎は問題多い政治家である。海軍の右翼的存在であった末次信正大将と同様に、徒らな大国意識ばかり肥大化し国力相応ということを考えもせず、ロンドン海軍軍縮条約を枢密院で否決しようと画策し、また、一九三〇(昭和五)年の同条約の批准直後、浜口雄幸首相を狙撃したのも国本社の関係者だといわれる。一九三九(昭和一四)年、英米協調の外交政策を条件に首相に就任した平沼は、やがてドイツから三国軍事同盟をもちかけられると、

「どうしても独伊を支持したい」

と豹変し、外交を決定的に誤った。議会政治、政党政治を否定し、テロリズムの道を開いたこの無定見な悪は際立っている。

 テロリズムによって自らの野望を遂げようとした輩は多い。一九三一(昭和六)年、議会撲滅を目的とする三月事件を企てた橋本欣五郎、小磯国昭、建川美次ら陸軍中堅クラスの首脳たちと右翼の大川周明。翌年、前蔵相の井上準之助と三井財閥の団琢磨が暗殺された血盟団事件を起こした右翼団体「血盟団」の主宰者井上日召。同年、犬養毅首相暗殺の五・一五事件を引き起こした古賀清志中尉ら海軍青年将校と右翼団体「愛郷塾」の面々。一九三六(昭和一一)年、首相岡田啓介、内相斎藤実、蔵相高橋是清を襲撃し、四日に渡り首相官邸を占領した二・二六事件を起こした陸軍青年将校たち…。特に、二・二六事件の時の陸軍首脳の醜悪な対応は際立っている。明らかにこの反乱をけしかけていた真崎甚三郎大将は、事件当初、反乱青年たちに

「決起の趣旨に理解を示す」

素振りを示したが、天皇が鎮圧を強く指示し反乱軍が鎮圧され始めると、

「自分は前もって少しも知らなかった」

と弁明し、事件後反乱者を利する罪で起訴されると、取り調べ時に

「どうか命だけは助けて下さい」

と伏し拝んだという。「昭和維新」を信じて決起した純粋な青年たちを使って権力を奪取しようとした輩は、このような、武人の名に値しない卑怯者ばかりであった。

 血盟団事件を起こした井上日召は典型的観念右翼で、丸山真男の言葉を借りれば「精神異常の無法者」である。一九三五(昭和一〇)年の美濃部達吉博士の天皇機関説排撃をきっかけに、思想弾圧、教育統制を主導したのは、原理日本社を創設した簑田胸喜である。これら観念右翼の知性の無さ、馬鹿馬鹿しさはどうしようもない。彼らは「国士」気取りの自己満足によって却って国を滅ぼしたのである。

 外交を巡る指導者たちの混乱も惨澹たるものだ。一九四〇(昭和一五)年、ソ連に対しての協働を目的とした日独伊防共協定を、軍事同盟へ切り替えるよう、ドイツは強硬に求めてきた。当初、英米への影響を重く見た政府は消極方針であったが、陸軍の支持を強く受けた大島浩駐独大使や白鳥敏夫駐伊大使は、外務省本省の指示に従わず、現地で勝手に「第三国から独伊が攻撃を受けた場合、日本も参戦の義務を負う」ことを約束してしまった。そして陸軍・右翼は、軍事同盟に反対する有田八郎外務大臣や山本五十六海軍次官にテロを仄めかして圧力をかける。そして最終的には、近衛文麿内閣の外務大臣松岡洋右が、同年、遂にこの同盟を成立させる。この同盟は致命的であった。松岡の構想は、三国同盟にソ連を抱き込んで四国協商を結び、以って米英に対抗する、というもので、これが成立すれば米国も軟化するだろうと見た。ところが三国同盟締結により、米国の態度は一層硬化し、松岡の構想自体、ドイツがソ連に攻め込んだことにより、三国同盟締結後一年もしないうちに破綻する。

 独ソ開戦や英米陣営の出方は、冷静に情報を分析すればわかったはずである。現に米国は、ドイツがソ連を攻める意図があることを早くから察知していたという。三国同盟前後の松岡はじめ指導者たちの国際感覚の乏しさ、情報収集のおそまつさ、外交の拙劣さは目を覆いたくなる。日露戦争後、ポーツマス会談前後の小村寿太郎たちのリアルな外交感覚と比べ、明らかに退化している。松岡洋右という人物は、確かに「異才」だったかもしれないが、米内光政によれば、

「松岡は思いつきのいいところもあるが、間違った方向にしゃにむに突進する。日独同盟問題の時も、ドイツと手を握ればアメリカは引っ込むというのが、松岡の硬い信念だった。物事を客観的に判断しないで、自分の主観を絶対に正しいと盲信するから危険である。」

しかも、スターリンやヒトラーといった「有名人」と大立ち回りをしたいという自己顕示欲の強い男であった。

 一九四一(昭和一六)年一二月八日、遂に対米開戦に踏み切った東条英機首相は、大局が見えた政治家ではなく、律義で一徹な軍人にすぎなかった。彼の前の近衛文麿内閣で陸相だった東条は、大陸からの相当な撤退と三国同盟の解消という日米交渉の米国側条件を頑なに撥ね付け、ルーズベルト大統領との巨頭会談で和平交渉を試みようとする近衛首相の希望を打ち砕いた。

「支那大陸で命を捧じた尊い英霊に対し絶対認められない」

「人間たまには清水の舞台から飛び降りることも必要だ」

これらの東条の発言に大局観は全く無い。陸軍の立場にひたすら忠実であっただけである。

 華族階級でありながら悪に荷担した者も多い。太平洋戦争開戦直後、日本軍の破竹の勝利を見て、枢密顧問官の石塚英蔵は華族の老人たちと

「近衛は決断力がなかったばかりに、この戦績の栄誉を担えなかった」

と近衛を冷笑した。特権階級を笠に着た国士気取りが、時局に便乗して無責任に世論を煽り立て、どれほど社会の冷静な判断力を失わせたことか、彼らに反省は無い。

 無定見、無責任なマスコミの悪も見逃せない。次第に軍部に迎合する論調を強めていった各新聞は、一九三七(昭和一二)年の盧溝橋事件後は、連日、

「(中国に対し)今や断固として鉄拳を加えよ」

とか

「今は只一撃あるのみ」

と煽り立てた。一九四〇(昭和一五)年に三国同盟が締結された時、朝日新聞は

「国際史上画期的な出来事として、誠に欣快に堪えざるところである」

と、手放しで讃えた。一九四一(昭和一六)年に東条英機が首相になった時、米国との和平交渉を優先して進めるように、との天皇の意向とは裏腹に、朝日新聞は

「国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬けで国難に処せんとする決意は既に立っている。待つところは『進め』の大号令のみ」

と咆哮し、日本は遂に米国と開戦する。こうしたマスコミの末梢神経を刺激する論調が、どれほど「世論」を誤った方向に誘導したか、計り知れない。(マスコミの無定見、無責任は今も変わっていない。マスコミに「見識」を期待してはいけない。マスコミ自身も自らの限界を正直に謙虚に語るべきである。見識あるが如き顔をする勿れ。マスコミは、ただ事実を正確に報道することに専念すべきである。)

 

V

 

 当時、天皇は、歴代首相の就任に当たって三ヶ条の注意を与えるのを常としていた。憲法を遵守すること、英米と協調して外交を行うこと、財界に動揺を与えないこと、であった。これまで挙げてきた昭和史の「悪」は、多かれ少なかれ、これらの基本方針を意図的に破っていた。一方、天皇の方針に忠実であろうとしたものの、人間としての弱さから、時流に抗しきれず、結果的に国を誤った方向へ導いた指導者たちがいる。

 まずは、五摂家筆頭の近衛文麿である。家柄、品性、学識いずれも優れ、周囲からも世間からも日本の窮地を救う四〇代の若き政治家として大いに期待され、三度に渡って組閣するが、結果としては、時流に流され軍部の傀儡に終わり、戦後、東京裁判の直前に服毒自殺した。近衛は思想的な堅固さを欠いていた。自由主義、議会政治を守りぬく気概はなく、時としてナチズムに近い発想をし、ついに政党政治に自ら幕を引き、「大政翼賛会」を組織して挙国一致体制を完成する。外交面でも、英米協調主義を貫徹せず、「持てる国、持たざる国」の論を説いて反英米的ですらあった。性格も弱く、強力な指導力を発揮せず、右翼のテロを恐れ、困難に直面するとすぐ

「辞任したい」

と言って周囲を困らせた。

 幕末の長州藩士、木戸孝允の孫である木戸幸一内大臣は、難しい局面でよく天皇を補佐したが、テロと陸軍の暴走を恐れるあまり、時として右翼勢力や軍部に妥協した。若槻礼次郎や広田弘毅も首相として強力な方針と指導力を欠いたきらいがある。

 

W

 

 他方、時代に流されず、あくまで自由主義を貫き、議会と政党による政治を守ろうとし、ついに凶弾に倒れた剛毅な指導者たちがいる。浜口雄幸首相は、一九三〇(昭和五)年、ロンドン海軍軍縮条約条約の批准を恨んだ右翼に狙撃され重傷を負った。浜口首相が議会に出席できないことを理由に倒閣をもくろむ軍部だったが、浜口は、

「今出すのは殺すようなものだ」

と主治医が言うほど重態にもかかわらず、顔面蒼白、髪も髭も真っ白になり、顔はげっそりこけた状態で議会に登院した。この「土佐のいごっそう」の気迫と責任感に、衆議院本会議場は嵐のような拍手と叫び声で浜口を暖かく迎えたという。

 一九三一(昭和六)年に組閣した七十七歳の犬養毅首相は、満州事変を成功させてのぼせ上がっている陸軍の荒木貞夫陸相に対して、

「満州国のことをやったら承知せん」

「満州国の承認は難しい」

と突っ張り、軍部の統制を回復しようと努力を続けた。憲政に生きた信念を賭ける気迫があった。そうした犬養首相を憎む海軍青年将校らは、五・一五事件を引き起こして犬養を暗殺する。この時、右こめかみと左頬に一発ずつ弾丸を受けた犬養は、夥しい血を流しながらも、卓に両肘をついたまま、周囲に

「今の若い者をもう一度呼んで来い。話して聞かせてやる。」

と声を振り絞ったという。

 一九三四(昭和九)年に発足した岡田内閣で七回目の蔵相を勤めた高橋是清も見事だ。この時八十一歳の高橋は、若い時サンフランシスコで間違えられて奴隷に売り飛ばされたり、芸者の箱屋をやったり、日露戦争の際は日銀副総裁として戦費調達のための外債募集を一人でやってのけたりと、多彩な人生経験の持ち主であった。高橋は、昭和一一年度予算編成で

「国力を無視した国防の充実は防止せねばならぬ」

と、陸軍と対立して一歩も譲らず、予算の増加を三%に押え込んでしまった。その過程で「一体軍部はアメリカとロシアの両面作戦をするつもりなのか。軍部は常識に欠けている。その常識を欠いた幹部が政治にまで嘴を入れるのは言語道断、国家の災いと言うべきである」

と川島陸相を手厳しく論破したりしたことが陸軍の恨みを買い、彼は二・二六事件で凶弾に倒れる。

 こうした剛毅な指導者たちの背後にいたのが、「最後の元老」西園寺公望である。徳川幕府から大政奉還を受けた朝廷の参与に十八歳で抜擢された西園寺は、官軍の北陸道鎮撫総督として各地を転戦した。その後、フランスに十年間滞在、ソルボンヌ大学を卒業し、さらに憲法調査のため伊藤博文に随行して再びヨーロッパに行った。日露戦争から大正初期にかけて組閣すること数回、その後も元老として大正デモクラシーを演出した。西園寺は、戦前の日本を代表する政治的自由主義者、議会制民主主義の擁護者であった。また、豊富な海外経験から世界の大局が見える人であり、外交的には英米との協調を貫く現実派であった。一九二六(昭和元)年、天皇が二十五歳で即位した時、西園寺は既に七十七歳であったが、天皇は、自分の祖父ほど年の開いたこの元老を心から信頼していた。

 しかし、昭和になってから、政局は西園寺の理想から次第にかけ離れていった。後継内閣の首班を推薦する元老として西園寺の繰り出す剛毅な指導者たちは、皆、テロに倒れてゆき、人材が払底してきた。最後の切り札として期待していた近衛文麿は意志薄弱で、西園寺の方針を悉く裏切った。軍部に振り回される近衛の仕振りに落胆し、

「一体どこに国を持って行くんだか、どうするんだか」

と嘆く老リベラリストの声は悲痛である。一九四〇(昭和一五)年、三国軍事同盟が締結されると、周囲の人たちに、

「これで日本は亡びる。お前たちも畳の上では死ねないことになったから、覚悟しておけ」

と言い、絶望の中で九十一歳で死んで行く西園寺の姿に、僕は涙を禁じ得ない。

 

X

 

 このように、昭和前半の歴史において、悪が善を圧し去る流れは止めようが無かったのだろうか? もし、この流れを食い止める力があるとすれば、それは天皇だけだったのではないか、との考えに僕は遂に逢着する。明治憲法にあっては、天皇は政治の主権者であり、軍の統帥者であった。何故天皇は怒涛の流れを食い止める強力な力を発揮しなかったのか? 或いはできなかったのか?

 天皇が、西園寺公望流の政治的リベラリズムと国際協調外交に忠実であろうとし、軍部の横暴を大変懸念していたことは紛れもない事実である。例えば、張作霖爆死事件を起こした陸軍関係者の処分を甘くした田中義一首相に

「おまえの最初に言ったこと(厳罰に処すること)と違うじゃないか」

と厳しく詰問し、田中首相は即刻辞任した。満州事変後、国際連盟からの脱退を奏上された天皇は大変憂慮し、

「脱退をなすも、益々国際間の親交を厚くする」

ことを詔書に盛り込ませた。テロリズムを嫌悪し、二・二六事件の反乱軍の鎮圧に陸軍が躊躇する様子を見て、

「朕自ラ近衛師団ヲ率イ、コレガ鎮圧ニ当タラン」

と言った。日華事変の収拾に協力しない陸軍に強い不満を示し、板垣陸相に

「(陸軍は)中央の命令には全く服従しないで、ただ出先の判断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑劣な方法を用いることもしばしばある。まことにけしからん。」

と、いつもの温厚さに似ず激怒したこともあった。

 天皇は冷静で合理的判断の出来る人であった。大陸での戦争が泥沼化しているのに、さらに南方進出や三国同盟が画策されていることに強い懸念を表明、

「まずは、大陸の戦線を整理する必要なきや」

と何度も下問した。敗戦時、ポツダム宣言を受諾するかどうかの瀬戸際で、「国体護持」に執着し迷いを生じていた重臣たちに対し、天皇は、

「たとえ連合国が天皇統治を認めても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意思によって(国体を)決めて貰って少しも差し支えないと思う」

と述べたという。何と明晰でとらわれなき頭脳の持ち主であろう! 何と無私な精神の持ち主であろう! この人は本当によき帝王学を身につけていると思う。

 (そう言えば、最近も、ある経済学者が

「円高で輸出企業が大変困っております」

と進講したところ、天皇は

「でも、自国の通貨が強くなるのは悪いことではないのだろう?」

とお尋ねになったそうだ。これはまさにとらわれなき頭脳の卓見である。歴史的にも英国や米国の例に見られるように、資本輸出国となるような経済力をつけた国の通貨は強くなるのが自然である。変動が激しすぎない限り、基本的には、円高は日本の経済力の強さを反映した、喜ぶべきことなのである。)

 こうした聡明さにも拘らず、天皇が流れを阻止できなかったのには二つの要因がある。それは、制度と、天皇自身の性格である。制度から言えば、天皇は形式的には政治の主権者であったが、明治憲法が想定していたのは、天皇専制や独裁ではなく、内閣の輔弼によって統治が行われる立憲君主制である。賢明で誠実な天皇は、憲法の「君臨すれど統治せず」の原則を忠実に守って、内閣が奏上する事項については、下問はするが最終的には全て裁可したのだった。もし天皇が自分の判断で裁可したりしなかったりすれば、それは、明白な憲法違反である。

 それでも、終戦の際に超憲法的な聖断をしたのだから、せめて太平洋戦争開戦のような「超緊急時」には、何故、自分は反対であるとして非裁可にしなかったのか、という恨みは残る。しかしそれを要求するのは無理であろう。天皇は生物学を研究する「学者」である。大酒飲みで剛毅な性格の明治天皇とは違う。明治天皇は、山本権兵衛海相が戦時大本営条例案を奏上した時、何度奏上しても「考えおく」とだけ言って、五年もの間決裁を据え置いたことさえあるという。この強引さを今の天皇に求めるのは酷であろう。

 

 昭和前半の物語の中で、天皇が終戦を決断する場面は、全ての日本人が苦く悲しい思いで共に心に銘記すべきである。「重臣たちの昭和史」からその場面を引用する。

「一九四五(昭和二〇)年八月一四日午前一〇時五〇分、再び御前会議が閣僚と最高戦争指導会議構成員を集めて開かれた。梅津、豊田両総長、阿南陸相は、声を振り絞って国体護持に対する不安といま一戦の必要を奏上した。

『お聞きのとおり、意見の一致を見ません。この上は陛下の御聖断に従います。』

鈴木貫太郎首相は、再び聖断を仰いだ。

『今日においても、私の考えに変わりはない。このまま戦争を継続しては、国土も、民族も、国体も破壊し、ただ単に玉砕に終わるばかりである。多少の不安があったとしても、今戦争を中止すれば、また国家として復活する力があるであろう。どうか反対の者も、私の意見に同意してくれ。忠良な軍隊の武装解除や、戦争犯罪人の処罰のことを考えるならば、私は情においてはどうしてもできないのであるが、国家のためにやむを得ないのである………』

天皇の頬にも涙が流れ、満堂声なく、ただすすり泣く声のみが聞こえた。」

 

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 これで、物語は終わる。なお、イギリスの金本位制離脱をめぐる経済政策の是非については、高橋亀吉氏も「私の実践経済学」で述べているように、金解禁を継続した井上準之助大蔵大臣の判断は誤った大国意識のなせるわざであって、当時の日本の経済力では、イギリスが金輸出を再禁止した時に日本も止めるのが正しかったのだろう。また、草柳大蔵著「満鉄調査部」では、満鉄調査部のテクノクラートとしての優秀さが強調されているが、草柳氏はテクノクラートの企画力を過大評価していると思う(戦後の官僚を描いた「官僚王国論」も然り)。一九三六(昭和一一)年、陸軍の石原莞爾大佐は、自分の「大東亜共栄圏」構想を具体化するために、満鉄の宮崎正義に「日満産業五ヶ年計画」を起案させているが、これは、軍備大拡張のための政策であり、満鉄の調査に独自の見識があったわけではない。現代のテクノクラート(大蔵省等の官僚)が、自民党(政治家)の意向をあらかじめ汲んだ政策立案をしているのと同様に、満鉄のテクノクラートも軍部の意向に沿った調査、企画をしているにすぎなかったのではないか?

 

 昭和前半の物語は僕にとって遠い昔の出来事ではない。僕の生まれるほんの一一年前に戦争は終わったのだ。「空襲の日々」と焼け野原の体験は父母たちからよく聞かされたものだ。そして今の日本も、自己決定能力の乏しさでは、当時とさほどの違いはないように思われる。政治家の指導力、国益、外交戦略…こうした国家の根幹に係わる事柄について、我々は昭和前半の歴史からどれだけ学んでいるだろうか?

(一九八二年一一月七日)

 

〈参考にした文献〉

 勝田龍夫「重臣たちの昭和史」(文芸春秋)

 吉村昭「ポーツマスの旗」(新潮社)

 草柳大蔵「実録 満鉄調査部」(朝日新聞社)