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モーツァルトの音楽、ベートーヴェンの音楽

 

 モーツァルトとベートーヴェンとでは、音楽に向かう姿勢が決定的に異なっている。モーツァルトは、様々な音楽ジャンルに対し、それぞれのジャンルにふさわしい楽しみを与えることを考えて作曲した。

 劇的センスにも優れたモーツァルトの、モーツァルトらしさが最もよく出ているジャンルがオペラと協奏曲である。オペラは、演劇と音楽が渾然一体となっており、登場人物の心理や感情が音楽によって浮き彫りにされる。クライマックスに向かっての音楽の盛り上がりはそれまでの作曲家の成し遂げ得なかった劇的なものである。ピアノ協奏曲はオペラの語法の延長線上にある。例えばイ長調(K四八八)の協奏曲では、第二楽章は憂いに満ちた伯爵夫人のアリアのようであり、一転して快活な第三楽章はまさにブッファのフィナーレにふさわしい。

 モーツァルトは楽器の音色を生かすことにかけても天才であった。特に木管楽器の印象的な使われ方はオペラでもピアノ協奏曲でも随所に現れる。もちろん木管楽器自体を主役にした協奏曲も、それぞれの楽器の個性を生かした傑作ばかりである。フルートとハープのための協奏曲の天国的な幸福感、ファゴット協奏曲のこの楽器にふさわしい軽妙な楽しさ等々…。その中で最も深遠な情調を湛えるのがクラリネット協奏曲である。ここには薄幸な青年音楽家の諦念がある。何という透明な悲しみが何という透明なクラリネットの音色に乗って流れていることだろう! 孔子は詩経を讃えて「思いに邪無し(思無邪)」と述べたが、この曲はまさしく思無邪の音楽である。

 ピアノと木管のための五重奏曲(K四五二)では、音色の異なる五つの楽器を次から次へと主人公にして浮かび上がらせ、奏者も聴者も楽しめるようになっている。彼は常に演奏する人の楽しみも忘れなかった。

 このように、モーツァルトは楽器の組み合わせと規模、形式に応じて、そのジャンル特有の楽しみを最大限に発揮させようとした。モーツァルトにあっては、まず「音楽の楽しみ」があった。楽しむのは奏者であり、聴者である。



 ベートーヴェンはどうか。彼にはどうも始めに表現されるべき「概念」があったようだ。その「概念」は、正義であったり、闘争であったり、人類愛であったり、ロマンであったりするが、彼はその概念を、まるで物語を展開する小説家のように、音楽の中で展開する。ベートーヴェンに至ってソナタ形式や四楽章形式が「概念の有機的展開」の手段となったのだ。彼の得意なジャンルは、当然、こうした概念や形式がふさわしい交響曲や弦楽四重奏曲である。ベートーヴェンの協奏曲は、モーツァルトのような「主役たる楽器の美しい歌」ではなく、ピアノ入りの交響曲であり、独奏ヴァイオリンを含んだ交響曲である。

 もし我々素人が弦楽四重奏曲を演奏できるとしたら、モーツァルトやハイドンの曲なら楽しんでやれそうだが、ベートーヴェンとなるとそうはいかない。技術的に難しいというより、ベートーヴェンの曲は、何か我々素人が「アンサンブルを楽しもう」と言ってとりかかっても、そういう気楽さを受け付けてくれない所がある。

 尤も、モーツァルトの音楽の全てが「楽しみ」を基礎としていて、ベートーヴェンの音楽の全てが主題の物語的展開となっている訳ではない。特にベートーヴェンでは、何か大袈裟なものに誤解されている曲も多いのではないか。「悲愴」ソナタなど、僕はその標題を無視して聴くことにしている。各主題はなかなか美しいし、三つの楽章の関係に特別の意味があるわけではない。純粋に音楽の美しさを楽しめばいいと思う。変に「この曲でベートーヴェンが言わんとしたことは何か」などと、詮索する必要はない。

 僕はベートーヴェンの鑑賞に、あまり標題の意味だとか作曲家自身の境遇だとかを持ち出すのは好きではない。堂々たるメロディはただ堂々たる魅力として味わえばいい。ベートーヴェンはモーツァルトに勝るとも劣らぬメロディ・メーカーである。もっと純粋に音楽の楽しみをベートーヴェンに求める方が、作曲家の本当の意図にも近いのではないか。

(一九七九年一月一七日)

 

 

モーツァルト(一七五六年〜一七九一年)

ウィーン古典派の代表的作曲家。早熟の天才。五歳で作曲を始め、九歳で最初の交響曲を、十一歳で最初のオペラを作った。欧州各地を旅行し、イタリア、マンハイム、パリなど各地の音楽様式を総合し、そこに彼独特の深遠な表情を付加した。三十五歳で夭折。

ベートーヴェン(一七七〇年〜一八二七年)

古典派の先人たちから学びながらも、フランス革命の時代を反映した情熱的で力感あふれる曲を作った音楽の革命家。自由な芸術家としての自己主張も強烈。

 

〈参考にしたレコード〉

 モーツァルト「ピアノ協奏曲 イ長調 K四八八」ポリーニほか(独グラモフォン)

 モーツァルト「フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K二九九」ランパル、ラスキーヌほか(エラート)

 モーツァルト「ファゴット協奏曲 変ロ長調 K一九一」ツエーマンほか(独グラモフォン)

 モーツァルト「クラリネット協奏曲 イ長調 K六二二」プリンツほか(独グラモフォン)

 モーツァルト「ピアノと木管楽器のための五重奏曲 変ホ長調 K四五二」ギーゼキングほか(EMI)

 ベートーヴェン「ピアノソナタ第八番 ハ短調『悲愴』」バックハウス(ロンドン)