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忘れられた偉大な作曲家 ミヒャエル・ハイドン

 

 ミヒャエル・ハイドンは、「交響曲の父」ヨーゼフ・ハイドンの五歳年少の弟である。兄と同じくウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年合唱団に入り、美声で知られた。その後一七六二年に、ザルツブルグ大司教の楽団のコンサートマスターになり、モーツァルトがザルツブルグを出奔した後は、後任として大聖堂オルガニストをも兼ねた。特に教会音楽では広くヨーロッパにその名を知られ、晩年はエステルハージ侯やトスカナ大公からその名声にふさわしい地位の提供を申し出られたが、あえてザルツブルグのマイナーなポストに留まり、当地で六九年の生涯を終えた。

 彼はモーツァルト父子と親しい間柄にあった。オラトリオ「第一戒律の責務」はミヒャエル・ハイドン、アードルガッサー、それに一〇歳のモーツァルトの三人の合作で作った。ミヒャエルが、注文を受けた六曲のヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲のうち、四曲を作ったところで体調を崩し、作曲が困難になった時には、モーツァルトが残り二曲を作って助けている。一方、モーツァルトもこの穏健な教会音楽の大家から後述のように多大な影響を受けている。モーツァルトの父レオポルトは、ミヒャエル・ハイドンをあまり評価しなかったと言う人もいるが、それは、ミヒャエルが酒好きであることを厳格な性格だったレオポルトが嫌っていただけで、音楽上のことではあるまい。


 僕は一九九六年に休暇でザルツブルグを訪れた。例のモーツァルトの生家へももちろん行った。人ごみに押されながらも、彼がコンサートに持ち歩いたフォルテピアノを見た時は涙が止まらなかった。こんな小さなピアノであの人は演奏し、薄幸な生涯を閉じたのかと…。その時、ミヒャエル・ハイドンのよすがを訪ねようとしたが、結局、ホーエンザルツブルグ城に登るケーブルカー駅の壁に「ミヒャエル・ハイドンかつてここに住めり」と記したレリーフがあったのと、市街に「ミヒャエル・ハイドン酒場」の看板を見つけただけであった。ほとんどの観光客はそれらには気づかないだろう。


 彼は典型的な古典派の作曲家であり、その技量は兄ハイドンやモーツァルトには及ばないまでも、それら天才に次ぐ地位を占める人である。僕は今までに、ミヒャエル・ハイドンの約八〇〇曲の作品中、数十曲しか聴く機会がないが、その中でも、演奏会やCDでもっともっと取り上げられるべき曲は多い。少なくともモーツァルトやベートーヴェンが一〇回演奏される間に、一回は取り上げられるべき人だと思う。

 まず、教会音楽では、何といっても「レクイエム ハ短調」を挙げないわけにはいかない。この曲は、ミヒャエルが敬愛した大司教ジキスムント・フォン・シュラッテンバッハの葬儀のために書かれたものだが、たった一人の愛娘のわずか一歳での死という個人的な出来事も、深く曲に影を落としている。ミヒャエルは娘の死後、何か月も作曲の筆をとることができなかったという。そうした悲痛な個人的体験も昇華させたためか、この曲の集中力、緊張感は群を抜いている。誰でも聴けばすぐわかるが、この曲が二〇年後にモーツァルトのレクイエムのモデルになったことは明らかである。演奏時間三〇分弱の簡潔さの中にも多彩な工夫を凝らしたこの名曲が、なぜヴェルディのレクイエムより演奏されることが少ないのだろうか。人工甘味料たっぷりのヴェルディなどより数等純度の高い傑作なのに…。

 交響曲では、ハ長調(P一〇)、ニ長調(P四三)、ト長調(P一六)、ハ長調(P一九)あたりが傑作だと思う。P一〇は、打楽器や管楽器がにぎやかで、祝典的な晴朗さ、快活さが心地よい。P一六は、かつてモーツァルトの作品と言われていたもの。当時ウィーンに出て売れっ子で多忙だったモーツァルトが、かつての同僚ミヒャエル・ハイドンの曲に冒頭の序奏をつけてちゃっかり自作として演奏会に使ったもので、以来、今世紀始めまでモーツァルトの交響曲第三七番(K四四四)と称されてきた。淡白だが、軽やかで均整のとれた曲である。P四三とP一九は、フィナーレにフーガの手法を用いており、フックス以来のオーストリア・バロックの伝統を受け継いだ、素晴らしく知的な曲。兄ハイドンも時折この手法を用いるが、何といってもモーツァルトのジュピター交響曲のフィナーレが最も有名である。フーガとか対位法というと、時々、モーツァルトが大バッハから受けた影響を言う人がいるが、これはドイツロマン主義の夢想にすぎない。モーツァルトのジュピター交響曲のフィナーレは、オーストリア・バロックの伝統を受け継いだミヒャエル・ハイドンの強い影響で書かれたものである。

 室内楽では、最近アンナ・ビルスマたちのおかげで聞けるようになった弦楽五重奏曲(P一〇八、P一〇九など)がいい。これら弦楽五重奏曲は、モーツァルトが同種の曲を作る時のモデルになったものだが、モーツァルトの曲たちと比べても決してひけをとるものではない。事実、最近は演奏会のプログラムでも時折見かけるようになった。シューベルトほどの深さはないが、アカペラ男声四重唱曲の数々も、楽しく心なごむ音楽である。


 ミヒャエル・ハイドンの後世への影響も小さくない。シューベルトは彼の教会音楽を高く評価した一人であり、彼の教会音楽の成果は、ベートーヴェンを飛ばして、直接シューベルトの傑作であるミサ曲に受け継がれている。

 また、ミヒャエル・ハイドンはディアベリ、ノイコム、ウェーバーの音楽の師でもあった。若きウェーバーの初期オペラは皆ミヒャエル・ハイドンが指導した成果である。今では殆ど演奏されないが、ウェーバーの初期オペラの中で「ペーターシュモールと隣人たち」は、ほんとに美しく心楽しい曲に満ちた掘り出し物である。「魔弾の射手」だけがウェーバーではないと思うのだが…。


 ミヒャエル・ハイドンがなかなか知られるようにならないのは、単なる歴史の偶然による。まず、彼自身欲の少ない人柄であったこと。各地有力者からの招聘を断ってまでも古都ザルツブルグに居続け、楽譜出版の話も断ってしまっている。そのため、彼の音楽は生前有名であったにも拘らず、広まりにくく、死後すぐに忘れ去られた。今世紀になって、ようやく心ある少数の学者たちによって彼の作品はかなり掘り起こされつつあるが、如何せん、彼と同時代の作曲家には図抜けた天才モーツァルトと兄ハイドンがおり、どうしてもその影に隠れてしまう。また、今日の商業主義が、こうした隠れた大家を取り上げるよりも、決まりきったレパートリーを取り上げる傾向が強いことも、ミヒャエルが知られるようにならない大きな理由の一つだ。しかし、知られていないことは、その音楽の真価をいささかも下げはしない。

 演奏家たちも、いつまでもモーツァルトやベートーヴェンの定番曲だけを演奏していたのでは、新鮮な感動が失せてしまうだろう。アンナ・ビルスマのような、隠れた大家を世に知らしめようという知性と好奇心に満ちた演奏家がもっともっと増えることを心から望む。

(一九九八年三月一日)

 

〈参考にしたCD〉

 M・ハイドン「レクイエム ハ短調」H・リリンク指揮ほか(フンガロトン)

 M・ハイドン「交響曲ハ長調 P一〇」ワルシャワ・シンフォニエッタ(アーツ)

 M・ハイドン「交響曲ト長調 P一六」ホグウッド指揮ほか(オワゾリール)

 M・ハイドン「交響曲ハ長調 P一九」ヴァルハル指揮ほか(CPO)

 M・ハイドン「交響曲ニ長調 P四三」ファーベルマン指揮ほか(ヴォックス)

 M・ハイドン「弦楽五重奏曲集」ラルキブデッリ(ソニー)

 M・ハイドン「男声四重唱曲集」ジングフォニカー(CPO)

 ウェーバー「オペラ『ペーターシュモールと隣人たち』」マルクソン指揮ほか(マルコポーロ)