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十八世紀人の美学

 

 新日本フィル演奏会「ゲルハルト・ボッセ 休日のオーケストラ 第九回」でカザルスホールへ行った。この企画、古典派好きにはたまらない。何しろバッハからベートーヴェンまでの音楽の歩みを、毎月一度のコンサートで約二年かけて辿ろうというものなのだ。ハイドン、モーツァルトのほか、普段めったにナマでは聴けないマイナー作曲家の交響曲や協奏曲もかなり含まれている。オリジナル楽器ならもっといいのに、と思うが、贅沢は言うまい。

 本日のプログラムのボッケリーニ(交響曲第二六番 ハ短調 作品四一 G五一九)やカール・シュターミッツ(ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 ニ長調)などは、これを聞き逃したら、あと一生のうちにナマで聴く機会があるかどうかわからないような代物だ。

 さて、ボッケリーニやシュターミッツを聴いていると、どうしてもモーツァルトと比べてしまう。本日のプログラムのボッケリーニのハ短調の交響曲は、彼の作品の中ではよく演奏される方で、CDでは比較的とりあげられる機会も多い。古典派的な均衡に優れ、、主題もなかなか美しい。しかし、この人を聴いていていつも思うのだが、パッセージが息切れ気味なのだ。特に、主題と主題の間の経過句がほんとにただつないでいるだけに聞こえることがある。モーツァルトならもっと聴かせる経過句を書くのに、と思ってしまう。でも、後期ロマン派の、同じ主題を何度も転用したしつこい交響曲群があれほどの頻度で演奏会に取り上げられるなら、ボッケリーニの約三〇曲の交響曲の方が変化に富んで面白く、もっともっと演奏されてしかるべきだと思う。さらに言うなら、ボッケリーニで一番聴かれるべきは、ギター五重奏曲をはじめとする室内楽で、ここでは、彼の仕えていたスペイン宮廷の香気が古典の均衡の中に息づいていて、何とも美しい。

 シュターミッツの協奏交響曲も、二人の若い女性ソリストが堂々と渡り合って楽しめた。この人の旋律美は相当高いレベルだ。知らない人に「これはモーツァルトの曲ですよ」と言えばたいていの人は疑わないだろう。形式の展開も自然で誇張がない。この人に足りないものがあるとすれば、「ユーモア」「遊びの精神」「細やかさ(デリケートさ)」か。しかし類型的な音楽表現が一般的であった一八世紀後半に、芸術としての深みを織り込むことができたのは、モーツァルトのような天才だけであり、時代の制約を考えると、現代の立場から多くを望むのは酷であろう。現代人にとっても、カール・シュターミッツの音楽は、爽やかな朝の極上のバックグラウンド・ミュージックであることは確かである。

 休憩を挟んでの後半は、ハイドンの「王妃」交響曲(交響曲第八五番 変ロ長調 HobT―八五)。マリー・アントワネットのお気に入りであったというこの曲は、確かにハイドンがフランス宮廷を意識して作った跡が方々に見られる。中でも第二楽章は、主題を直接フランス民謡から採った変奏曲形式で書かれている。ここでは変奏曲職人ハイドンの腕の冴えがいかんなく発揮されている。特に第三変奏でフルートが自由に主旋律を装飾してゆく優雅さ! 今日のフルート・ソロは、原譜をさらに自由にアレンジした素晴らしい装飾をつけていた(指揮のボッセさんのそれを聞くうれしそうな顔! この人はほんとにハイドンが、古典が好きなんだな、と思う)。

 そうだ、ここには「自由」がある。後、ベートーヴェンは協奏曲のカデンツァさえ演奏家が創作するのを許さなかった。自分の書いたカデンツァに一音たりとも違うべからず! これは何という統制、何という傲慢だろう! そこでは演奏家はまったく自由を奪われ、ひたすら作曲家に拝跪する身分となってしまった。しかし、ハイドンには無限の演奏家の自由、アレンジ、装飾を許す寛やかさがある。



 一九世紀は革命の世紀であり、人々の政治的「自由」が声高に叫ばれた。人々は確かに政治的自由や貧困からの自由を手に入れたかもしれぬ。しかし他人への寛容は明らかに後退した。他人に寛容になることは自分を押さえることであり、そこには成熟した大人の姿がなければならない。一八世紀のヨーロッパはそういう人生の英知を知っていた最後の時代である。その意味でハイドンは典型的一八世紀人であった。

 若い頃の貧困生活、結婚の失敗、宮仕えの非人間性……ハイドンには、こういう人生の辛さや憂いを表に出さない勁(つよ)さと楽天性がある。音楽は人を楽しませ、喜ばせるものだ、という真のエンターテイナー魂が、自分の生(なま)の感情をさらけ出すことをさせない自己抑制を支えている。だからこそ、彼が隠された悲しみの影を見せる時、我々は真実の人間の悲しみに心打たれるのである。

 自分の悲しみや孤独をさらけ出し、あたかもそうすることが「特権階級」の資格であるかの如き顔をした「芸術家」が幅をきかすのは、一九世紀後半以降のことである。彼らは自己抑制の美学をすっかり喪失し、大袈裟なもの、大音響、人を驚愕させるものへと進んで行った。この音楽の「発展」は、まさに、一九世紀後半から二〇世紀にかけての物質主義と大衆民主主義の進展に支えられている。大衆化は、ウィーン世紀末の最後の光を放った天才コルンゴルトに至って、アメリカ・ハリウッドの映画音楽へと堕ちて行く。こうした巨大な流れに抗して、かろうじて清潔な音楽を維持していたのは、フランスのフォレとドビュッシーくらいだ。このような音楽史を、僕は決して「進歩」とか「発展」とは言うまい。

 音に対する感受性について考えても、この音楽の「発展」がいかに人間を堕落させたか解かる。一八世紀の音の世界は、しごく単純であった。それにも拘らず、いや、それだからこそ、音楽は彼らの生活と感情に密接につながっていた。少しの音の変化も彼らの感情を深く動かした。一九世紀以降の音楽家は、より刺激の強い音を使うようになった。表現はより大袈裟に、音響はより巨大になっていった。そのことは、却って人の音楽に対する感受性を鈍磨させた。バロックや古典派はどれを聴いても皆同じだ、と言う人がいるが、皆同じに聞こえるほど、自分の耳と心が刺激に麻痺して感性が衰弱していることを憂えた方がよい。

 功なり名遂げた晩年のハイドンの、謙虚で心暖まる次の言葉を、僕は心からいとしく思う。

「仕事を妨げるあらゆる障害と苦闘し、精神と肉体の力が衰えてゆき、前へ歩むことも難しくなることがよくありました。そんな時、ある密やかな感情が私にささやくのです。『この世には、快活で満足している人はほんのわずかしかいない。至る所で悩みや心配事が人々を追いかけている。もしかするとおまえの音楽は、このような悩める人々や仕事に喘ぐ人々に、安らぎと気晴らしのひとときを与える泉となるかもしれない』と。この気持ちこそ、私を前進させる力強い原動力だったのです。」(井上和雄「ハイドン ロマンの軌跡」より)

 もうひとつ、一八世紀人の人生哲学が最も美しく表わされた、ジョルジュ・サンドの祖母、デュパン夫人の告白を、また引きで恐縮だが紹介しよう。

「(私の夫は年をとっていたけれど)年をとった人の方が、若い人より、人を愛することができるものなのよ。完全に愛してくれる人を好きになれずにいられるかしら。私は夫のことをパパとか、年とったあなた、とか呼んでいて、あの人は私のことを、人前でも、娘や、と言っていたわ。でもね。あの時代には、人は、年をとるということはなかったのよ。この世に老いをもたらしたのは、フランス革命なのよ。あの人は美男で、上品で、身だしなみがよく、優美で、香水をふりかけ、陽気で、愛想がよく、情愛が細やかで、死の瞬間まで気分にむらのない人だった。

 あの時代の人はね、生きることも死ぬことも心得ていたのね。厄介な持病などというものはなかったのよ。たとえ痛風にかかっていても、顔もしかめず平気で歩いていたからよ。いい教育を受けたおかげで、苦痛を人目にさらすことがどんなことか知っていたわけね。破産する時も、不安も怨みがましさも表わさずに、勝負に負けたプロの賭博師のようにふるまったものよ。

 あの時代の人は哲学者だったわ。といって別にえらぶった様子をしていたわけではないのよ。そんなふりもせずに、自然にそうだったのね。賢者だって、趣味でそうなっていたから、学問をひけらかしたり、学者ぶったりすることはなかったのよ。みんな生きることを楽しんでいたのね。人生と別れを告げる時が来ても、他の人が生きるのがいやになるようなことはしなかったわ。私の夫の最後の言葉はね、あの人よりずっと長生きして、幸せに暮らすように、私に約束させることだったの。そういうやさしい気持ちを示すことが、惜しまれる最良のやり方だったのね。」(同上書より)

死の瞬間まで愛想よく、自分の死後も幸福に暮らすように妻に約束させて死んでゆくなどという勁(つよ)さを、僕は到底持ち合わせていないが、人間としてこうあれれば素晴らしいと思う。

(一九九八年三月一日)

 

 

ボッケリーニ(一七四三年〜一八〇五年)

古典派時代のイタリア出身の作曲家。チェロ奏者としてパリで活躍後、スペイン宮廷の音楽家となる。交響曲やチェロを中心とする協奏曲や膨大な数の室内楽曲がある。

カール・シュターミッツ(一七四五年〜一八〇一年)

父ヨハン・シュターミッツを祖とするマンハイム楽派の一人。ヴァイオリニスト、作曲家として欧州各地で活躍した。交響曲、協奏曲、室内楽曲を多数残したが、特に協奏交響曲の発展に功績がある。

 

〈参考にした文献〉

 井上和雄「ハイドン ロマンの軌跡」(音楽の友社)