近況メモ(平成一六[二〇〇四]年七月〜九月)
平成一六(二〇〇四)年〜「氷室の日」から「黄金の稲穂」へ
七月四日(日)晴れ
先週金曜日は旧暦の皐月(さつき=五月)十五日で、十五夜にふさわしい巨大な満月でした。さて、先週木曜日、会社の食堂で昼食をとっていると、デザートに赤や白や緑のお饅頭が出ています。「なんできょうは饅頭なのかな」と食堂に来ていた女子社員に聞くと、「今日七月一日は『氷室の日』です。昔から金沢では、この日、家族の無病息災を願って蒸し饅頭を食べる風習があるのです。何年か前、犀川の河原で家族でこの氷室饅頭を食べていたら、後ろから鳶に狙われたんです。怖かった〜。
犀川で物を食べるのは危険です。」とのこと。この風習は、江戸時代、毎年この季節に前田家が加賀の山奥の氷室から切り出した氷を幕府に献上していた故事から来ているとのことで、この蒸し饅頭は氷室にちなんだ饅頭だったのですね。彼女さらに曰く「この風習は金沢独特ですね。ついでに言うなら、このお饅頭、お嫁さんの実家から届くのです。我が家にも実家から届いているはずです。親って有難いですね。」こういう風習を残している金沢は素敵ですね。家族の健康を願う饅頭ならちょうどいいな、と、週末東京に帰るお土産に、金沢駅の売店で売っていた氷室饅頭を買いました(写真左)。ちょうど七月二日は娘の満十八歳の誕生日でした。少し前に、バレーボール部員らしく短く切った髪の写真をメールで送ってきていましたが(写真中)、夏はショートヘアの方が涼しげでいいですね。この夜は久しぶりに家族でケーキを囲んでのミニ誕生日祝いをやりました(写真右)。
七月二四日(土)晴れ
三連休は東京に帰っていましたが、その暑さたるや、報道されている通りで、外を歩いていると、蒸し風呂の中に居るようです。空を見ると、ゆらゆらと夏の空気は揺れ、入道雲がもくもくです(写真左は、中央線の電車から撮った市ヶ谷あたりの雲と空気です)。ここ金沢も最高気温三〇℃以上の日が続いていますが、東京から帰った身には涼しく感じられます。休み中に、家内が「声が出にくい」と訴えたので、大きな声を出すのにいいだろうと、ちょうど持ち帰っていた「羽衣」の謡本を使って、家内と娘に謡を教えました。ふたりとも最初はとまどっていましたが、そのうち大きな声が出るようになりました。ふたりとも「気分がすっきりした」と言っていました。やはり大きな声で謡うのは健康にいいようです。
さて、たまたま帰省中に朝日新聞を読んでいたら、七月一八日付書評欄に「花よりも花の如く」という少女漫画が紹介されていたのが目にとまりました。成田美名子さんという漫画家の作品ですが、書評に「おそらく世界唯一の能マンガ」とあったので、少女漫画など手に取ったことのない小生も、さっそく本屋で既刊の第一巻と第二巻を買って読んでみました(写真右、白泉社)。シテ方の内弟子として住み込み修行中である二十歳過ぎの若者を主人公にした物語で、彼や彼の周辺の人々が、日常的な小事件を通じて舞台に対する熱い思いを語ったり、能を続けることに思い迷ったりしますが、その底にあるのは、「自分探し」ということです。書評の言葉を借りれば「誰もが己のアイデンティティを賭けて闘っている。(登場人物たちの)凛とした佇まいには、読んでいる方まで背筋が伸びる感じがする」のです。
正直、非常に驚き感心しました。驚いた理由はふたつ。ひとつは、そのテーマが人間的、文学的であること。能役者の世界という一見我々の日常とはかけ離れた世界を舞台にしていますが、そのテーマは普遍的なものだと感じました。少女漫画というと恋愛か魔法の世界だという先入観がありましたが、「花よりも花の如く」には恋愛も魔法もほとんど出てきません。派手な劇的展開もなく、淡々とした日常の人間劇ですので、刺激を求める向きにはやや退屈な作品ですが、さわやかな良いお話が多く、真剣に生きようとする人たちを慰め労るような趣があります。いろいろ惑い悩みながらも真摯に能に打ち込む主人公への作者の熱い思い入れがひしひしと伝わってきます。
感心した二点目は、能の世界をよく取材して書かれていることです。第二巻の巻末に、成田さんの制作裏話のようなものが載っていますが、能をほとんど知らなかった彼女が、いろいろな人に取材し観能を重ねるうちに、この世界に惹かれてゆくプロセスがよくわかります。この漫画では、人の立つ位置とか動作とか烏帽子の折れる向きに至るまで、能の諸形式に対して正確を期する努力がされており、読んでいて不自然さはさほど感じられません(ただし、手足が伸び切っているように見えるところは何箇所かありますが)。また、「養老」とか「土蜘」とか「砧」といった主人公が舞台で舞う曲の内容と、物語のテーマをだぶらせているところなども、概して自然で秀逸です。
以前からうすうす感じてはいましたが、日本の漫画の水準の高さたるや、恐るべしです。小説というジャンルが衰弱し幼稚になっているとしても、文学の真剣さはかなりの部分を漫画が補っているのではないでしょうか。成田美名子さんのホームページも見てみましたが、ここの掲示板や、アマゾンなどのネット書店の「花よりも花の如く」のブックレビューには、「この漫画を読んで能に興味を持った。ぜひ見に行きたい」或いは「やってみたい」という読者の声がいくつも載っていました。
八月一日(日)晴れ
この一週間は三人の若い人との出会いが印象的でした。うち二人は企業経営者、一人は能楽師です。二人の企業経営者については別途記しますが、三人目の若き能楽師とは今日偶然にお目にかかったものです。今日、藪先生のご自宅で、「氷室会」と称するお稽古会があり、小生も習っていた「猩々」の仕舞のおさらいに出かけました(「管理人履歴」に載っている写真が先生のご自宅の能舞台です)。本来は来週小松で開かれる藪先生と太鼓方の麦谷先生主催の「舞と囃子の会」に出られるベテランのお弟子さんたちのリハーサルを兼ねたお稽古なので、小生のような初級者が登場する場ではないのですが、「ついでにどうぞ」と先生から声をかけていただき、厚かましくもお稽古場におじゃました次第です。
その帰り、電車の中で、この暑い中、スーツとネクタイに身を包んだ若者が、内ポケットから「小袖曾我」の小型の謡本を取り出して熱心に復習しているのを見かけました。さてどこかでお見かけしたような、と思ってその姿をよく見ると、何と、薮先生のご子息の克徳さんです。これまた厚かましいとは思いましたが、せっかくですので、声をかけさせていただきました。お聞きすると、これから同僚と金沢駅で待ち合わせてMOAの舞台に出られる予定とのこと。家に帰ってMOA美術館のウェブページを見ると、確かにMOA美術館の能楽堂で宝生流「小袖曾我」の演能が予定されていました。克徳さんは、現在、宝生流の家元のところに住み込みの修行中ですが、最近、金沢の舞台に立たれる機会も増えてきました。少し前の「近況メモ」でご紹介した漫画「花よりも花の如く」の主人公を地で行くような若者に巡り会えて不思議な気持ちでした。心から今後のご活躍をお祈りします。
八月一五日(日)晴れ
今日は旧暦「水無月(六月)」最後の日です。明日からは「文月(七月)」、暦の上ではもう「秋」です。新聞を取りに玄関に出ると、今日の金沢は空気が爽やかで気温もぐっと低くなったように感じられ、「秋」を実感しました。昔の暦は体感によく合っています。近くのお寺からは、お盆の墓参りの人たちの声や「チーン」という鈴(れい)の音も聞こえて、今日は終戦記念日でもあり、自ずから父祖をしのび感謝する気持ちになります。
さて、先週一週間は夏休みをいただきました。七日(土)には、高校時代の友人夫妻と我が妻娘が金沢へ来ましたので、五人で麩料理の「不室屋」のアンティークな洋間の個室(その友人の言葉では「下関条約の調印をするような気分の部屋」)で昼食をとり、尾張町から主計町(かずえまち)、東の茶屋街、東山方面に彼らを案内しました。とにかく暑い日で、途中でかき氷を食べたりしながらゆっくりと散策しました。早めの夕食を郊外の寿司屋でとり(夏は寿司ネタが比較的少ない季節ですが、それでも「のどぐろ」だの「岩牡蠣」だの当地のおいしいネタを楽しめました)、能楽堂の「観能の夕べ」に出かけて、狂言「口真似」と能「藤」を鑑賞しました。
「藤」という曲は、能百番とか百選とかにはあまり出てこないややマイナーな曲です。劇的なストーリーがあるわけでもなく、人間の情念が噴出するわけでもなく、勇ましさや涙を誘う人情話もありません。藤の花の精が、ワキの僧を相手に和歌談義をしたり、舞を舞ったりするだけです。こうした草花の精を主人公にした能は、ほかにも「杜若」(三河国八橋の杜若(かきつばた)の精が主人公)や「西行桜」(桜の老木の精が主人公)などがありますが、 いずれも「幻想的な一夜の詩」といった趣に作られています。この「藤」もメルヘンの世界のポエムです。シテが本来の藤の精の姿で現れる後場の装束は、藤の房の冠を頭に頂き、藤色の長絹を着けた佳麗なもので、前場の里女の時と違って、面の表情まで明るく輝いて見えるから不思議です。女流シテ方の福岡聡子師の舞う序の舞も大変しっかりとした見事なものでした。友人夫妻も加賀宝生を堪能してくれたようでした。
今回金沢を訪れてくれた友人は自動車の基礎技術の研究開発に携わっていますが、昼食の時に、小生から、技術者・エンジニアにこそ、思考軸の確立・戦略的思考の鍛練のために、また、普段使わない部分の脳を活性化して発想力を豊かにするためにも、リベラル・アーツ(古典、歴史などの一般教養)が必要ではないか、と提案したところ、彼から大いに賛同を得ました。小生は、以前から、経営、政治、科学技術等分野を問わず、日本の指導層には「生きた古典教養」が必要ではないかという問題意識を持っています。米国での生活が永いコンサルタント業に従事している友人から「米国人は確かに少年期から古典に親しみます。アスペン財団というところが経営者向けに古典の読み会の一週間合宿をやっているほどです。」というメールをもらったこともあります。金融実務家としての経験も踏まえて、これからの日本を支える若いリーダー(候補者)たちにリベラル・アーツ(現代に活きる古典教養)を体系的に伝える仕事をしたい、というのが小生の「見果てぬ夢」です。
さて、翌八日(日)は、我が家族三人で早朝に金沢を発ち、富山から立山・黒部アルペンルートを通り抜けて信濃大町へ出、松本城を見学して東京は西国分寺の我が家に帰りました。好天に恵まれ、途中、立山高原バスからは落差三五〇メートルという恐ろしく巨大な称名滝も見えましたし、黒部ダムにはきれいに虹がかかっていました(写真参照)。
立山には戦国武将、佐々成政の伝説が残っています。富山城主、佐々成政が、敵対する豊臣秀吉に対抗して、浜松に居た徳川家康に援助を求めに、厳冬の立山を越えて信濃大町に抜けたという伝説です。越中の成政は、西の加賀には前田利家、東の越後には上杉景勝と、いずれも秀吉の同盟者に囲まれていました。浜松へ赴くには厳冬の立山越えという無謀を行なうより他に途は無かったのです。立山は、今でこそ夏場はいろいろな乗り物を乗り継いで一日で越えてしまえますが、冬はこのアルペンルートも閉鎖されます。また今でも冬山登山の遭難者が毎年十人以上出るそうですから、そこを当時の装備で越えて行った成政という男、すさまじい執念としか言いようがありません。さらに、佐々成政が再挙をはかるため莫大な黄金を立山山中に隠していたという伝説もあります。再挙の機会は訪れず、今も埋蔵金は立山のどこかに眠っているそうです。
八月二八日(土)晴れ
昨日所用で金沢の南西、白山の山懐にある鶴来という町を通って、辰口町の「いしかわサイエンスパーク」というところに出かけました。ここには北陸先端科学技術大学院大学もあり、ハイテクの集積地を目指した立派な施設が山を切り開いて立ち並んでいます。途中、鶴来の町並みから、夏の名残りの巨大な入道雲が見えました。
九月五日(日)雨
今年は台風の当たり年で、各地に被害をもたらしています。金沢郊外の田んぼも何か所か稲が倒れたようになっているところがありますが、稲穂は既に黄金色に実っており、収穫には影響は無さそうです。この季節、北陸地方の田園地帯を通ると、黄金色の絨毯を敷き詰めたような美しい田んぼの風景を見ることが出来、「実りの秋」を実感します。
九月一二日(日)晴れ
先週木曜日に、金沢在住の愛知県出身財界人の私的な集まりに出ました。メンバーの一人が鹿児島に転勤になられるので、送別の会を催したものです。その方は、ご本人もご家族もすっかり金沢を好きになられ、ついに金沢に定住と決めて市内にマンションを購入されたばかりでした。今回は単身で鹿児島に行かれるとのことです。金沢は確かにこのような「定住したい」と思わせる魅力がある町です。なお、その愛知県人会は、名古屋弁及び三河弁で「久しぶり」を意味する「八十日目(やっとかめ)」から「やっとかめ会」と称します。当地財界の重鎮もおられますが、いつもざっくばらんな雰囲気で、小生も楽しませていただいております。
九月一八日(土)曇り
今週の某日、富山県の城端(じょうはな)町にある取引先企業を訪ねる機会がありました。城端町は、富山県の南西部に位置する人口約一万人の小さな町です。金沢からは医王山を挟んで東側に当たり、合掌造りで知られ世界遺産に登録された越中五箇山への入り口の町でもあります。山懐の落ち着いた街並みがとても印象的な町です。商家や店舗も含め、家並みはケバケバしい原色が避けられ、しっとりした中間色で統一され、家々の造りも格子を嵌めた伝統的な様式をできるだけ残した形になっており、歩道も広く美しく整備されています。町の美を守ろうとする住民の意識の高さ、共同体の結束の高さが伺えます。もっとも、城端で生まれ育ったこの企業の方によれば、道路を整備する前の方がもっと味わい深かったそうです。
城端は善徳寺を中心にした寺内町です。善徳寺は、文明三(一四七一)年、加賀に蓮如上人が開き、栄禄二(一五五九)年に当地に移築された浄土真宗の名刹で、室町期の北陸地方における浄土真宗(一向宗)の一大拠点として栄えました。行基の作と伝えられる本尊の阿弥陀如来像や山門、本堂など大伽藍が歴史の重みを感じさせます。特に、一九世紀初頭に九年の歳月をかけて建立されたという正面の重層瓦葺(かわらぶき)の山門は、重厚で美しく、城端町のシンボルとなっています(写真参照)。この町で毎年九月に行われる「むぎや祭」には、全国から大勢の人が集まるそうです。小生が訪れた時、ちょうど善徳寺の境内に「むぎや踊り」の舞台が設(しつら)えられているところでした。
九月二五日(土)曇り
我がマンション前の大通りに植えられている銀杏(イチョウ)並木がいつの間にか色を変じ、もう半分以上が薄緑から黄色になっていました。まだ暑い日もありますが、季節はようやく秋を深くしつつあります。
さる三連休は、会議もあって、東京に帰っていました。月曜日の敬老の日には、川崎市民ミュージアムで開かれている「二一世紀の本居宣長」という展覧会に行ってきました。これは、松阪の本居宣長記念館在の宣長自筆資料をはじめ、ゆかりの品々を展示し、彼の学問の姿、ありようを想像させると共に、「出版という当時の新しいメディアを利用して自らの研究を全国に発信し、多くの門人を集めて知のネットワークを広げ(本展覧会の案内ウェブページより)」た、宣長の「新しさ」もわかるように各種資料を展示しています。
宣長ファンである小生は、以前も松阪でこれら資料のかなりの部分は拝見していましたが、今回再会して、改めて宣長の研究領域の広大さ、その学問の深さと緻密さに感じ入りました。特に、当時流布していたかなり正確な世界地図や宣長自身が描いたこれまた精緻な日本地図などを見ると、一八世紀後半(江戸中期)の日本の知識人たちは、我々が想像するよりはるかに近代的な世界認識を持っていたのだと実感させられました。実は、この展覧会で小生が一番長く居たのは、筑摩書房から出ている「本居宣長全集」のコーナーでした。福田恒存全集、小林秀雄全集の次に、この宣長全集を読破したいものだと念じている小生は、ここに座って二時間以上「初山踏(うひやまぶみ)」や「玉勝間(たまがつま)」に読み耽ってしまいました。宣長という人のイメージをつかむには好個の展覧会ですので、首都圏にお住まいの方は是非お出かけ下さい(一一月七日まで開催)。
翌日、本社での会議のあと、本社にほど近い築土神社に参拝し、外国資本や外国人経営者群と日本人役職員とのハイブリッド経営体を目指している当行の進む方向が過ち無きよう、心から祈願しました。