近況メモ(平成18[2006]年5月〜6月)
平成18(2006)年〜「雨の多い五月」から「色とりどりの紫陽花」へ
5月6日(土)晴れ
連休はいかがお過ごしですか? 小生は遠出はせず、のんびりした休日を過ごしています。5月4日には、妻と、町田市(昔の鶴川村)にある武相荘(ぶあいそう)に出かけました。武相荘は、白洲二郎・正子夫妻が、昭和18(1943)年に空き家になる予定だった鶴川の農家を買い取り、生涯住み着いた、夫妻の旧宅です。「武相荘」という名は、武蔵と相模の間にあるという意味に、自分たち夫妻を逆説的に象徴する「無愛想」の音を懸けた命名なのでしょう。白洲二郎氏は戦後間もない時期に吉田茂に請われて対米交渉に当たった人物ですが、ケンブリッジ仕込の英語を話しポルシェに乗り回した快男子だったそうです。まさに乱世にこそ生き生きと活躍する「野人」だったのでしょう。白洲正子さんは、古典についてのエッセイや紀行文などで有名ですが、小生にとっては、日本で初めて能舞台に立った女性であること、これまた日本初と思われる一般向けの近代的な能の解説書の著者として忘れがたい存在です。この人の書いた文章は、どれもこなれた読みやすいものですが、頭がクリアで対象をしっかりと捉えていないとああいう文章は書けないものだと思います。昔の農家の「田」の字の部屋割りをした、簡素な萱葺きのこの旧宅は、今でもよく手入れされ、情趣ある季節の花々や夫妻が使っていた品の良い陶磁器などの調度品の数々が、拝見する私たちを暖かく抱擁してくれます。
また、昨日は、渋谷の「アップリンク・ファクトリー」という収容人数100人弱のライブハウス(?)で、映画「面打」と創作能舞「光の素足」を拝見しました。映画「面打」は、小学生のときから能面を打っていたという22歳の若手面打の新井達矢氏が白木から能面を創作する過程を追ったドキュメンタリー映画。監督は、「白日」という作品がモントリオール国際映画祭で上映され国際的に評価が高いという三宅流(ながる)氏。この映画は、新井氏がひたすら木を打ち、削り、磨いているうちに、次第次第に面が形を現し、ついにはそれが能舞台で能楽師によって付けられ「鞍馬の天狗」となって命を吹き込まれるのを、ひとことの言葉も無しに描いてゆきます。まるでひとつの生き物の誕生を描いているような、張り詰めた映像でした。その後で演じられた能舞「光の素足」は、宮沢賢治の世界をモチーフにした創作能で、作も主演も観世流シテ方能楽師、中所(なかしょ)宣夫さんです。中所さんと鈴木啓吾さんのふたりの能楽師が紋付袴の素の姿で舞い、語り、謡うこのパフォーマンスは、これまたストイックな気迫に満ちた美しい舞台でした。11月には、能装束をまとい囃子も入った正式な能の形式で演じられる予定とのこと。小生は、若者がよく行くライブハウスなどという場所にはほとんど縁が無かったのですが、能に関する出し物ということで出かけてみましたが、能楽堂の客層とは全く異なる、映画、演劇関係者と思われる、アフロヘアーなどの今風の風体の若い男女で満席でした。この人たちが能に関する映画や能舞をどう見るのだろうか、興味津々で彼らの様子も見ていましたが、彼らは、食い入るように面打の映画に見入り、能舞のストイックな表現に盛大な拍手を送っていました。今様の文化に生きる若者は、歴史と格式を背負った古典芸能としての能には最初はなじめないかも知れませんが、こういう仕掛けを作れば能を身近な美として感受できるのだ、ということがよくわかりました。これは新鮮な驚きでした(そういえば、歌舞伎の世界でも、渋谷のパルコ劇場で演じされた三谷幸喜さん作の新作歌舞伎「決闘!高田馬場」が大ヒットしましたね)。この日の三宅流監督や能楽師の中所宣夫さん、鈴木啓吾さんの、能を現代に取り結ぶ真剣な試みに大いに拍手したいと思います。
5月14日(日)曇り
初夏だというのに、先週の東京は小雨続きのうっとうしい天気が続きました。左の写真は、久しぶりに晴れ間の出た木曜日に撮った神保町あたりの風景です。9日(火)に、トッパンホールで催されたドイツのピアニスト、アンドレアス・シュタイヤーと寺神戸亮さん率いるレ・ボレアードという古楽器オーケストラの演奏会に出かけました。ハイドンとモーツァルトの協奏曲を弾いたシュタイヤーの古楽器ピアノの演奏が素晴らしかったです。まるでジャズのような即興性に満ちた当意即妙な演奏で、あれこそ古典派音楽ならではの楽しみでした。たまたま会場で、我が社のOBであるKさんが終演後のサイン会に並んでおられるのを見かけました。Kさんも大のクラシック音楽ファンです。中年男性でサイン会に並ぶのは恥ずかしいと思われたのでしょうか、声をかけると、少年のように照れた顔をされました。いかにも純粋な彼の人柄がよく現れていて、微笑ましくなりました。
4月に受けた人間ドックの結果が出ました。今回初めて眼底検査で異常が出て眼科での再検査を促されました。特に目の調子は悪くないのですが、さっそく今週にも眼科に行っておこうと思います。あとはコレストレールが若干多めなのと、動脈硬化の兆しが見られるのが気になるところです。乳製品も摂り過ぎはよくないようです。ヨーグルトは健康に好いと言われますが、摂り過ぎてコレステロールを多くしている人もけっこういると医者が言っていました。先週末からは職場の場所が移転しました。といっても階を移っただけですが、レイアウトは、従来の日本型の島形式から外資系型の個人間仕切り形式に大きく変わりました。これだと確かに個人個人が自分の空間を持てるという実感がありますが、同じ職場の人たちとのコミュニケーションはとりにくくなります。さあ、このレイアウトが我が社の業務スタイルにどういう影響を与えるのでしょうか。形を変えることが企業文化をより良い方向に転換させてくれればいいのですが。
5月21日(日)晴れ
先週も東京は小雨や曇りの天気が続きました。昨日も午後遅くに夕立が来て荒れた天気になりました。今年の五月は本当によく雨が降りますね。しかしきょうは、一転、夏の日。気温も上がりました。近所の花壇の色とりどりの花が陽光に照り映えていました(左右写真)。久しぶりの好天でしたので、床屋に行ったり、冬物スーツをクリーニングに出したり、半袖半ズボンなどの衣料をそろえたりと、夏を迎える準備をしました。
眼科に再検査に行きましたが、幸い、結果はそれほど心配することもありませんでした。ただ両眼が緑内障の危険のある「乳頭陥没」という状態なのと、右目が白内障の兆候があるとのことで、半年に一度程度は進行をチェックするために検査したほうがいいでしょう、とのことでした。まあ、この年齢になると、体のあちこちが「勤続疲労」してくるものです。本人はいたって元気なつもりでも定期的に体の状態をチェックする必要があるのですね。
5月27日(土)雨
きょうも東京は雨です。このまま梅雨入りしてしまいそうな天気が続きます。五月の日照が少ないために、野菜や米の出来栄えに影響が出ているとの報道が目に付くようになりました。ある衣料品関係の会社の方も初夏物商戦はさっぱりだったとおっしゃっていました。株価がこのところ下がり続けており、この五月の雨続きは景気にも水を差しそうです。今週某日、我が銀行で情報産業やエンターテインメント産業を担当しているA君と、我が社を辞して映像やウェブサイトなどのコンテンツ製作に関連する企業で働いているB君と三人で、コンテンツ金融について語り合う機会がありました。日本ではコンテンツ制作に関する金融はまだまだ工夫の余地がありそうです。製作側には合理的な金融技法への理解が足り無いことが多く、テレビ局や映画配給会社の力が強すぎるので、映画やアニメなどがヒットしても、儲かるのは出版社やテレビ局や映画配給会社ばかりで、製作者たちはおおむね貧乏です。手塚治虫さんのような偉大なクリエーターでさえ、巨額の財産を残したという話は聞きません。クリエーターの立場に立って彼らの懐にお金がしっかりと入るような仕組みづくりを金融の立場からお手伝いしたいものだと思った次第です。創造する人が正当に評価され経済的にも恵まれるようにならないと、せっかく世界的に評価の高いアニメやゲームソフトなど日本のコンテンツ産業も健全に発展してゆかないでしょう。
きょう午前中、妻が習い始めた謡曲の教室に小生もつきあって出かけました。府中市の宝生流謡曲連盟の初心者向け講座に参加しているものです。今回が二回目の講座で、きょうで「鶴亀」を習い終えました。参加者は年配者ばかりではなく、西洋の声楽を習っていて日本の声楽との比較研究をしている学生さんなどもいて、多様な職業・年齢の方々が十六名で習っています。
さて、小生の源氏物語を原文で読むプロジェクト(?)は、ようやく、「澪標(みをつくし)」「蓬生(よもぎふ)」「関屋」の三帖まで読み終えました(今回アップした「源氏物語読書メモ(二〇〇六年)」をご参照ください)。これらのうち、「蓬生」と「関屋」は比較的短い帖ですが、絵巻が残っています。実際に読んでみると、特に「蓬生」の絵巻はこの帖の印象的なシーンを巧みに描いていることがよくわかりました(下の写真参照)。この絵に描かれた場面は、源氏が、かつての恋人・末摘花の屋敷を偶然見つけて入ってゆこうとするところです。後見者のいなくなった彼女の屋敷は荒廃し、蓬や蔦がおい生えています。源氏の家臣でしばしば道化役として出てくる惟光(これみつ)が、右手に持った馬の鞭で葉についた雨のしずくを払いながら進みます。その後ろで唐傘をさしているのが源氏です。この右側には崩れかけた屋敷の廊下が描かれ、露がちな初夏の夜の情趣がよく伝わってくる絵です。
6月3日(土)曇り
今週はようやく夏らしい日差しの差す日もありましたが、今日はまた曇天で、今にも雨が落ちてきそうです。気温も高かったり低かったりで、ワイシャツを半袖にしようかどうしようか、朝出かけるときに迷う季節です。さて、火曜日に、虎ノ門の「JTアートホール・アフィニス」へ、東京芸大在籍中の若手有望演奏家によるシューマンの室内楽の演奏会に出かけました(感想はそのうちに掲載します)。その帰り、ふと見上げると、金色にライトアップされた神社が、ビルの谷間に浮かび上がっています(写真)。虎ノ門金比羅宮です。万治三(一六六〇)年に丸亀藩主の京極高和によって勧請された神社です。あの讃岐の「金比羅さん」を参詣したいと願った江戸町民の要望に応えて江戸のこの地に勧請されたとのこと。今では、再開発によって建てられたビルと一体化した不思議な景観を形成しています。ビルの吹き抜け部分が神社の参道になっており、吹き抜けの入り口に石の鳥居が新たに設けられています。お札所はビルの一階部分にあります。しかし全体としては、さほど違和感を感じさせない風景です。無機的な高層ビル群と道路の騒音の谷間にあって、そこだけは聖なる場として簡素で静謐なたたずまいが保たれていることに心洗われます。
さる日曜日には、先々月から参加させていただいている月例の福田恆存読書会に出かけました。今回は福田恆存全集第二巻所収の「シェイクスピア」が取り上げられました。ここで論じられているのはシェイクスピアの「マクベス」ですが、福田は、ルネサンスの自由を謳歌した想像力の天才・シェイクスピアが描くマクベスの内に、早くも、近代個人主義の病弊を見出しています。つまり、ルネサンスは人々を神の桎梏から解放しましたが、絶対者を失って自己を絶対化せざるを得なかった近代人の「宿命感覚を喪失した精神の空虚さ」をマクベスに見て取っているのです。キリスト教が西洋文明の中で占める巨大な位置を、我々日本人は過小にしか見ることができないのだ。福田のシェイクスピア論を読んで、そんな反省が頭をよぎった次第です。福田恆存はシェイクスピア劇の翻訳、演出でも大変優れた業績を残した人です。小生も啓発されて、今回初めてシェイクスピアの「ハムレット」(福田恆存訳・新潮文庫)を読みました。ぜひ実際に舞台で演じられるのを見たいと思わせる名台詞、名場面の数々です。福田は、シェイクスピア劇は単に机上で読まれるのではなく、実際に役者が日本語でしゃべるのだから、役者の意欲をかきたてるような台詞の「調子」を大事にして翻訳しなければならないと述べています。確かに彼の生き生きした日本語訳は、舞台でこそ真価を発揮することでしょう。
6月11日(日)雨
東京は入梅し、きょうもよく雨が降る蒸し暑い日です。そんな雨の中、家内の所属している合唱団が出演する「くにたち音楽祭」へ娘と応援に出かけました。アマチュア団体の演奏は、その無心の演奏が思いがけないほど聞き手の心を揺さぶることがあります。きょうも、都立第五商業高校の女学生のブラスバンドが演奏した福山雅治の「桜坂」をアレンジした曲は、そのメロディが胸に響きましたし、子どもたちが合唱する人生の応援歌「スマイル・アゲイン」(中山真理の作詞・作曲)には歌詞が胸に染みて涙がこみ上げてきました。隣席の娘も目頭を押さえていました。また、ボブ・チルコットという人の作曲した「リトル・ジャズ・ミサ」を女声合唱団が歌いましたが、この曲は、キリエだのアニュスデイだのといったラテン語のお経がジャズのリズムに乗って軽快に歌われます。ローマ法王もびっくりしながら踊りだしそうな楽しい曲です。
さて、先週の日曜日は、家族三人で国立劇場で催された歌舞伎「国姓爺(こくせんや)合戦」を観に行きました(左写真は国立劇場の幟の掲げられた入り口あたりです。小生は、この赤系と緑系の独特な和の色彩感覚が大好きです。国立劇場最寄り駅の半蔵門の駅構内も歌舞伎的色彩に彩られていて、何となく落ち着いたいい気分になります)。「国姓爺合戦」は、義理と人情の板ばさみに苦しむ人間を描く、近松門左衛門の人形浄瑠璃の傑作を歌舞伎に翻案したもの。主君への忠義と家族への愛との板ばさみの苦悩という主題は、現代日本人には必ずしもぴんと来るものではありませんが、さすがに近松の義太夫の台詞は名文句ですし、なんと言っても彼は演劇のツボを心得ています。女たちの自己犠牲の覚悟の重さ、潔さには泣かされ、和唐内と甘輝の対決シーンの迫力には圧倒されます。中国が舞台というエキゾチックな華やかさは観衆を飽きさせません。よくできた演劇だなあ、と、近松の天才に感心することしきりでした。この物語は、筋から言えば和唐内が主人公なのですが、真実の主人公は女たち二人、とりわけ和唐内の母・渚なのではないでしょうか。この日は、市川右之助さんが渚の凛としたたたずまいを見事に表現していました。
さる木曜日には、井上明義氏の主催された個人的な集いにおじゃまする機会がありました。井上氏は、小生の郷里、愛知県豊田市の猿投(さなげ)地区の大地主の家柄の方で、現在は、東京で不動産鑑定の会社を経営しておられます。たまたま小生の中学・高校の同級生が豊田市の東京事務所におり、彼の誘いで出かけたものです。同郷というのはいいもので、初対面の方でも、自分よりはるかに年長の大先輩でも、同郷というだけではじめから打ち解けて話をさせていただけます。肩の凝らない和気藹々とした集いでした。井上氏には「土地の値段はこう決まる」(朝日選書)という著書もあります。そこでは、不動産価格はまだこれから半値くらいまで下がるだろうという異色の予測がされていますが、これは、彼の実務経験からのさまざまな根拠を持った洞察です。井上氏は、不動産がそこまで下がることを決して否定的にとらえておらず、むしろ、そのくらいまで下がれば、一般市民の住宅面積を倍にすることもでき、永年「うさぎ小屋」と欧米から揶揄され、日本人が豊かになった実感を持てない最大の要因である「狭い家」の問題が解消されるのではないかと期待しておられます。小生も住宅面積を倍増するくらいの思い切った施策が必要だと前から思っていましたので、この見方には共感を覚えました。また、我々金融機関が推進している不動産関連の非訴求型融資(ノン・リコース・ローン)や不動産証券化商品のリスクについても的を得た指摘をしておられます。
6月18日(日)雨
東京は雨がちな日が続きますが、いかがお過ごしですか。小生は、先週はじめ、ひどく背中が痛く、立っているのもしんどくなりました。胃腸など内臓の疾患が原因だと困ると思い、医者に診てもらいましたが、特段問題は無く、痛み止めの湿布を張り続けたら痛みがなくなってきました。体調を崩しやすい気候ですので、気をつけてお過ごしください。さて、水垣久さんの「やまとうた」というサイトによれば、今の季節を歌った藤原定家の歌に、
あぢさゐの 下葉にすだく 蛍をば 四ひらの数の 添ふかとぞ見る
という歌があります。水垣さんの解説を引かせていただくと、「(この歌は)黄昏時の情景と見たい。紫陽花(あぢさゐ=アジサイ)の花は夕闇に隠れる。それと入れ替わるように、蛍が飛び交い始め、紫陽花の下葉に集まる。『下葉』という目の付け所が絶妙だと思うのだが、そこはあたりでいちばん暗いところである。そこに蛍が群れをつくり、光を発する。そのさまを、四ひらの花の数が増えたかのように見ているのである。・・・(中略)・・・上の方の葉には花が群がり咲いていた。それが見えなくなったあと、今度は下葉にまぼろしの花が咲いた…。月との取り合わせを、定家は明滅する蛍の光に置き換えて、紫陽花の花の夢幻性をいっそう引き出すことに成功したように思われる。」ということです。定家は、紫陽花と蛍を組み合わせて巧みに季節感を醸し出していますね。
さて、先週の木曜日に、高校時代の旧友が上京してきたので、久しぶりに酒を飲み語り合いました。医者をしている彼も、臨床のプレイヤーから管理者としての仕事に軸足が移っているようです。我々銀行は、産業としての医療産業の成長性に注目していますが、一方で、経営体としての病院には多々問題があります。産業としての医療分野は全体として成長するでしょうが、公営・私営を問わず、個別の医療機関経営には今後優劣がはっきり現れてくることが予想されます。今までお医者さんには「経営」という視点が欠けていることが多かったのですが、政府が医療保護政策を続けることが困難な状況になった今、資本の論理をも理解できる医療機関経営者が求められています。小生の銀行屋としての経験や視点と、ちょうど管理者、経営者になりつつある医者としての彼の立場がちょうど交わりあうようになりました。お互い五十の齢に達するようになり、残りの職業人人生で何を実現しようか、などと、けっこう熱く盛り上がった次第です。
6月24日(土)晴れ
今週の月曜日に、六本木ヒルズで食事をさせていただく機会がありました。左写真はその時に六本木ヒルズの展望台から撮った夜景です。東京タワーが鮮やかに夜空に浮かび上がっていました。その食事会に来ていたひとりに、ある企業の社内ベンチャー制度に応募して事業を起こした方がいらっしゃいました。将来有望な事業を営んでおられる、小生より五歳ほど年下のその方が、何と、喜多流の謡曲を習っておられたとお聞きして、二度びっくり。しかもけっこう熱く能楽への愛を語られますので、小生もとても嬉しくなりました。
木曜日から金曜日にかけては、北陸地方へ出張に行きました。少し時間に余裕があったので、高岡から新湊まで行くのに、第三セクターのローカル鉄道、万葉線というのに乗車してみました。街中は路面電車、郊外に出ると専用軌道を走る面白い鉄道です。万葉線には欧州スタイルのおしゃれな低床の車両も走っていますが、小生が乗り合わせたのは、相当年季の入った中古車両で、横揺れが激しく、スピードを上げると車体が吹き飛ぶのではないかと心配になるほどです。途中は、のどかな田園風景も広がり、白鷺やゴイ鷺が餌を狙っていたり、雉(キジ)のツガイが歩いていたりと、自然の豊かさに心癒されます。この中古列車が庄川の河口の橋をのんびり渡る光景は、ローカル鉄道ならではの旅情でした。