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近況メモ(平成19[2007]年5月〜6月)

 

平成19(2007)年〜「色とりどりの牡丹」から「水まんじゅうの夏」へ

 

5月3日(木)晴れ

  連休も後半に入りましたが、いかがお過ごしでしょうか。小生は前半は東京の自宅で過ごし、後半は名古屋で過ごす予定です。その前の週末にも家内が名古屋に来て、市内の白壁町や徳川園などを散策しました。白壁町は閑静な住宅街で、その中に「二葉館」があります。二葉館は、日本最初の女優・川上貞奴と電力王・福澤桃介(福澤諭吉の義息)が、大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元した建物で、和洋折衷の落ち着いた風情です。オレンジ色の洋風屋根、ステンドグラスの光がこぼれる大広間も気持ちがいいですが、伝統的な和室も落ち着きます。大正ロマンの香り高い館には、貞奴の関連資料が展示されるとともに、郷土ゆかりの文学資料の保存・展示もされています。小生たちが訪れた時は、ちょうど最近亡くなった名古屋出身の作家、城山三郎の資料が展示されていました。

  徳川園も比較的最近整備された日本庭園で、源氏物語絵巻を所蔵する徳川美術館の隣にあります。徳川園の起源は、尾張藩二代藩主徳川光友が、元禄8(1695)年に自らの隠居所として造営した大曽根屋敷です。当時の敷地は約13万坪(約44ha)の広大さで、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたと言われています。昭和6(1931)年、十九代当主徳川義親から邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市は整備改修を行い、翌年「徳川園」が公開されました。昭和20(1945)年に米軍の大空襲により園内の大部分を焼失した後は一般的な公園として利用されてきましたが、平成16年秋に日本庭園として復元公開されました。回遊式の日本庭園で、清流が滝から渓谷を下り海に見立てた池へと流れ、日本の自然景観を象徴的に凝縮しているとのことです。四季を通じて気持ちのいい散策が出来そうです。このあと、御園座で歌舞伎を観賞しました。その感想は「陽春花形歌舞伎」を楽しむをご覧ください。

        
徳川園内の牡丹の花々。赤、白の他に、黄色やピンク色など色とりどりの美しさでした。(4月22日撮影)

        
徳川園のもみじの新緑や躑躅(つつじ)の花            川上貞奴の旧邸宅を移設・復元した「二葉館」
  

 

5月10日(木)曇り時々雨、風強し

  蒸し暑いくらいの気候になりました。冬のコートや厚手の背広などをクリーニングに出したりして「衣替え」をしつつあるところです。右の写真は、熱田神宮の境内にある楠(クスノキ)の巨木です。根元は苔むし注連縄(しめなわ)をつけられて、いかにも神々しく見えます。4月下旬に小生の従兄弟(いとこ)が熱田神宮で結婚式を挙げた際に撮ったものです。雅楽の生演奏や巫女さんの神楽舞などもあって、なかなかいい雰囲気の結婚式でした。ちょうど台湾か中国からの団体旅行の人たちが来ており、彼らがわっと従兄弟夫婦の晴れ姿や私たちの式の会場近くまで押し寄せ、盛んにシャッターを切っていました。神社での結婚式は彼らには物珍しいのですね。式後の会食会では、久しぶりに叔父、叔母など親戚縁者と話もできて、懐かしいひとときでした。

  さて、連休後半に、妻と一緒に、小生の実家や妻の実家を訪れ、小生の父母、家内の父母にインタビューを行いました。私たちの父母はお陰様で四人ともに何とか元気です。四人はいずれも昭和一桁生まれで、現在、70歳代半ばから後半です。物心ついた頃は日本が戦時体制に入りつつあり、昭和20(1945)年の敗戦の時、彼らは小学校高学年から18歳くらいの年齢でした。人生で最も多感な年頃に戦中・戦後の苦しい生活を経験したわけです。これまでも小生は父母から断片的には彼らの子どもの頃や若い頃の経験談を聞いてはいましたが、元気なうちに、あの時代の思い出をある程度まとめて聞いておこうと思い立った次第です。10項目ほど質問事項を用意しておいて、それに答えてもらう形で思い出を語ってもらいました。四人とも、録音機の前でしゃべるので初めはかなり緊張気味でしたが、調子が出てくると、次々に思い出しては語ってくれました。男は軍需工場や飛行場にかり出され、女は校庭を畑に変えて芋作りをさせられたりしたこと、米軍の空襲を受けて逃げまどったことなど、苦しい思い出もありましたが、凧揚げや木登りや川遊びなど、自然の中でのたくましく生き生きした彼らの子ども生活の様子の方が小生には印象的でした。子どもたちは(そしてたぶん当時の大人たちも)自分たちの未来に決して絶望してはいなかったのです。


 

5月19日(土)快晴

  ここ名古屋では、日差しは強くなりましたが、湿気の少ない好天が続いています。勤務先銀行が決算発表しましたので、東海地方の主要株主などへの説明にまわり始めました。スティールパートナーズによるブルドッグソースへのTOB申し出など、日本でも企業買収や資本政策をめぐる動きが活発化しています。M&Aが長期的に企業価値を高めるにはいろいろな条件が必要であり、失敗事例も数多く見られます。単に流行りに乗じた動きや、単なる株価つり上げによる短期的ゼニ儲けではないか、よくよくその真贋を観察する必要があります。

  さて、今週火曜日、ナゴヤドーム球場に初めて行きました。開設してちょうど10年になるこの球場、人工芝の緑もまぶしい清潔な印象でした(写真)。久しぶりにプロ野球をナマで観戦しましたが、一球一球が投じられる直前の緊張感や選手の動きのダイナミックさやボールのスピード感などは、やはりテレビでは味わえない醍醐味でした。この試合の後半、ここでぜひ追加点が欲しいチャンスの場面で、落合監督は代打にベテランの立浪を起用、立浪は監督の期待に応えて見事にレフト前にタイムリーヒットを放ちました。こういう劇的な場面での球場の盛り上がりもまた、実際にその場に居合わせると、その迫力は格別です。試合は中日がヤクルトを4対0で下しました。


 

6月1日(金)晴れ

  日差しは夏らしくなってきましたが、きょうあたりはまだ最高気温も25℃くらいで湿度も低く、爽快な初夏です。左写真は我が単身マンションにほど近い鶴舞公園の菖蒲園です。紫やピンクや黄色や白と、色とりどりの菖蒲の花は今が盛りです。右は、先週帰省したときに撮った西国分寺駅前の夕空です。神秘的な色に惹かれて撮りました。

  さて、決算の説明などで東海地方各地を回る日々が続いています。先週三重県の津市へ出向いた際、「安濃津ばき」という看板に惹かれて同市丸の内の松菱百貨店筋向かいにある「大谷はきもの店」で雪駄を買いました。伊勢の津市あたりはかつて安濃津と呼ばれ、伊勢木綿の産地でした。その伊勢木綿の鼻緒の柔らかさと、たたみの感触が心地よく、履き心地抜群です。今年の夏はこの雪駄を履いて過ごすことにしました。


 

6月7日(木)晴れ

  先週末は久しぶりに金沢に出かけました。金沢の愛知県人会の集まりに呼ばれて出向いたものです。その会のメンバーは、一時的な勤務のはずがいつの間にか定年まで金沢勤務になってしまった方や、金沢をご家族共々深く愛してしまったため結局定住の道を選んだ方など、様々の境遇の方が居られます。懐かしい顔ぶれとすっかりくつろいだひとときを過ごしました。その日、武蔵辻のホテルから尾張町、橋場町、主計町(かずえまち)、浅野川を渡って東山と、小生の好きだった散歩道を歩いて会場の卯辰山の山麓に向かいました。途中に簡素な作りのお寺が見えたので立ち寄ってみました。それは、卯辰山山麓の数多い寺院群のひとつ、法華宗真門流の慈雲寺というお寺です(左の慈雲寺の写真は金沢の総合情報「きまっし金沢」からお借りしました)。丁寧に掃き清められた庭に佇んでいると、住職さんと奥様がお茶でも入れますからお入りください、と請じ入れてくださいました。心のこもったお茶を一杯いただくと、日頃の疲れもとれるような清らかな気持ちになりました。 たまたま最近、小生の中学の同級生からメールが来て、「息子が金沢大学に入ったので金沢のことを教えてほしい」とのリクエストがあったばかりで、縁とは不思議なものだとつくづく感じた次第です。


 

6月15日(金)晴れ

   旧暦では皐月(さつき)に入り、東海地方も梅雨入りしました。きょうは梅雨の晴れ間の蒸し暑い日でした。左の写真は、御園橋から撮った名古屋城の石垣の一部です。どっしりしたいい構えです。この外堀通りあたり、春は桜が見事に咲きますし、今の季節は木々の緑に覆われて、小生は好きな場所なのですが、残念なのは、肝心の外堀に水が張ってなくて草茫々に荒れ果てていることです。確かに堀に水を張ると管理が大変なのでしょうが、この町のシンボルである名古屋城の周辺を整備するのにカネと手間を惜しむべきではないでしょう。

  さて、きょう家に帰ると、金沢の知人から、柴舟小出の夏らしい水菓子の詰め合わせが届いていました。甘酸っぱいあんずゼリーを水餅で包んだ「水てまり」、麦茶の香りと黒糖の風味の「茶遊び」などが入っていました。柴舟小出は江戸時代・加賀藩の時代からの金沢の有名な和菓子屋さんで、「柴舟」というちょっとピリッとするお菓子が金沢土産としてポピュラーです。「柴舟」は、朝霞の中、柴を積んだ舟が川を下る姿を形どっているそうです。少し反った小判のような柴舟型に、うっすらと雪のような白砂糖が引いてあり、生姜の風味がピリッと効いています。


  和菓子といえば、最近発見したお菓子のことを紹介しましょう。この季節、岐阜県西部の大垣に行くと、駅前の「金蝶園総本家」という和菓子屋さんの店頭に、「水まんじゅう」という小さな水菓子たちが、水を張った大きな器の水底に数多く沈んでいる涼しげな姿を見かけます。古くから大垣地方は豊かな地下水に恵まれ、近年まで市内のあちこちで自噴水が湧き出ていました。この清らかな名水によって明治初期に生まれたのが「水まんじゅう」です。あっさりした餡の甘さと本葛と本わらび独特のつるりとした食感が特徴です。汗をかきかき仕事を終えてほっとしている時、店頭に涼しげな水まんじゅうの群れを見かけると、さほど甘党でもない小生も買わずにはいられませんね。大垣の夏の風物詩です。

6月29日(金)曇り時々大雨

  NHKで東海地方の地方放送を見ていたら、三菱東京UFJ銀行の貨幣資料館で「広重・英泉 木曾海道六十九次の旅」という企画展をやっていると案内していました。六十九次の異版も加えた71枚揃い物の版画が一度に復刻公開されるのは珍しいとのことだったので、時間を見つけて出かけてみました。三菱東京UFJ銀行の貨幣資料館(写真上左)は、名古屋のメインストリートのひとつ、広小路通りにある、旧東海銀行の企業博物館です。昭和36(1961)年に東海銀行設立20周年を記念して設けられ、平成14(2002)年に現在地に移転しました。現在貨幣資料館の入っているビルは、昭和元(1926)年に立てられた大理石造りの格調高いレトロな建物で、名古屋における近代建築の貴重な遺構のひとつとして、名古屋市都市景観重要建築物に指定されています。貨幣資料館では、日本と世界各地の貨幣が体系的に展示されているほか、江戸時代の両替商の様子が再現されています。

  「木曾海道六十九次」は、「東海道五十三次」と並び、歌川広重(1797年〜1858年。小生の子供の頃は、広重の本姓・安藤広重と習いましたが、最近は、絵師としての家名・歌川広重と呼ぶことが多いようです)の風景版画の代表的なシリーズです。江戸・日本橋から大宮、高崎、軽井沢、諏訪、さらに妻籠など木曽路を経、美濃路、関が原を通って大津、京へと結ばれた木曾海道(街道)=中山道の六十九の宿場に取材した版画集です。今回の展示では、日本橋と中津川の異版も含め71枚すべてが公開されています。ただし「木曾海道六十九次」はすべて広重の画ではなく、広重が47図、渓斎英泉(けいさい・えいせん)が24図を分担して描いています。

   英泉の画は、広重より描線のタッチがはっきりしており、風景もさることながら、人間を描くことに画家の興味が向いているように感じます。旅人や宿場の人々の表情が明るいのが印象的で、人々の哄笑や息遣いまで聞こえてきそうな画がいくつかあります。一方、広重も人間たちの生態を共感を持って描いています。そのユーモラスで漫画的な表情や仕草は英泉よりずっと軽やかです。しかし、広重は、時に、「27 芦田」などに見られるように、大きな自然と小さな人間たちを対比して描いています。 広重で感心するのは、色使いの単純さが強い印象を与えることです。「43 妻籠」での青系、黒系、黄系の大胆な色の組み合わせはどうでしょう。また、「32 洗馬(せば)」(写真下左)「26 望月」「28 長久保」の夜景、「46 中津川」(写真下右)の雨、「47 大井」の雪など、広重の得意とする風景の印象は鮮烈で、しばし画の前で釘付けになります。「木曾海道六十九次」は、写実ではなく、まさしく「旅の詩」だったのです。一方、同時に展示されていた広重の「魚づくし」の画集の精密で近代的な写実は、彼が幕末を生きた人だということに思い至らせてくれます。

          
三菱東京UFJ銀行の貨幣資料館(ウィキペディアより)            歌川広重「木曾海道六十九次」のうち“長久手”(由比町HPより)

           
歌川広重「木曾海道六十九次」のうち“洗馬(せば)”               同左“中津川”(以上 千葉市美術館HPより)
  

 

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