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近況メモ(平成19[2007]年7月〜8月)

 

平成19(2007)年〜「伊勢の夏の田園風景」から「思わぬ初秋の転勤」へ 

 

7月6日(金)曇り

  ここ東海地方は、じめじめした過ごしにくい天気が続きます。先日、仕事で三重県の津へ出向いた折、近鉄電車の車窓から、美しい田園風景が見えました。しばらく見ないうちに稲がすっかり伸び、風に吹かれてふかふかの緑の絨毯のようでした。普段都心で生活していると、郊外に出てこうして稲の育っているのを見ると、ほっと心なごみます。この伊勢路の素晴らしい景色を写真に撮ろうとしましたが、車窓からはうまく撮れませんでした。左写真は、東海農政局のHPから採らせていただいた三重県安芸郡美里村の風景です。伊勢路の夏景色はちょうどこんなイメージでした。

  東海三県、それぞれの土地に独特の食べ物がありますが、伊勢には赤福餅ばかりではなく、「伊勢うどん」といううどんがあります。太くて腰の全くない柔らかなうどんを醤油汁につけていただきます。名古屋の味噌煮込みうどんの硬くて芯のあるうどんとは正反対です。もうひとつ、伊勢・志摩地方に独特な「てこね寿司」という寿司をご存じですか? 小生も比較的最近知りました。志摩地方の漁師が忙しい仕事の合間の食事時に狭い船上で、魚、ご飯、醤油を手でこねて食べたことから「てこね寿司」が生まれたといわれています。 かつおとまぐろの二種類があるそうです。小生は一度伊勢神宮の帰りにおかげ横町の寿司屋さんで食べましたが、しっとりした独特な味わいでした。


 

7月20日(金)曇りのち雨

  先週は早々と夏期休暇をいただき、東京の自宅に居りました。あいにく雨続きの天気で、週末には台風4号も来襲しましたので、遠出はしませんでした。台風や地震が続き、各地の大きな被害が報じられています。被災された地域の一日も早い復旧をお祈りします。台風が通り過ぎた7月15日(日)、東京の四谷駅付近で今年初めてミンミンゼミの元気な鳴き声を聞きました。台風が過ぎるやいなや、待ちに待って鳴き始めたという感じでした。今週半ばからは、小生の名古屋の住まいに近い鶴舞公園のセミ(たぶんアブラゼミ)も、朝の通勤時間帯から元気に声を振り絞って鳴くようになりました。

  さて、小生の職場は名古屋駅前の桜通沿いにあるのですが、桜通を一歩北側の裏道に入ると、けっこう下町風情が色濃く残っています。写真は桜通り裏の「串専門店」ですが、この店も下町風の気安い店で、いつも近隣の勤め人でにぎわっています。名古屋名物の「どて煮」(赤味噌で牛スジを煮込んだもの)の串刺しをはじめ、串カツ、イカ団子の串、鶉卵の串など、串のとりどりを腹いっぱい食べてビールをたらふく飲んでも、ひとり三千円はかかりません。この「串専門店」の建物はかなり古いものです。写真は正面から撮ったものですが、実は建物にとても奥行きがあり、左側の座敷に上がると広々としていて寛げます。座敷に上がる階段など、使い込まれてすっかり角が丸くなっています。この建物、かつては旅館だったのでしょうか、入り口はいかにも昔の旅館のような佇まいです。小生はこのレトロな内装も気に入っています。


 

7月30日(月)雨のち晴れ

  東海地方も梅雨明けし、日中の気温は32℃くらいまで上がっています。小生の部屋は玄関と窓を開け広げれば風が通ってけっこう涼しいので、これまでクーラーを使わないようにしていましたが、さすがに先週は幾晩かクーラーをかけてしましました。さきの大相撲名古屋場所では、岡崎市出身の琴光喜が活躍して大関に昇進しました。平幕で優勝したこともあり実力は一流と言われながら、何度も挫折し、30歳を超えてようやく勝ち取った大関です。何とか長持ちして朝青龍にも勝ってほしいものです。

  さて、昨日、名古屋駅前のタワーズガーデンで、「名駅薪能」が催されました。左の写真は能が引けた直後の会場の様子です。赤い玉のようにふたつ輝いているのが松明で、左手には橋掛かりがあり、中央の能舞台には半分のサイズの柱が立てられているのがおわかりでしょうか? この屋外能舞台の後方のビルはミッドランドスクエア、右手のビルは名鉄百貨店です。ビルの谷間のこの薪能、今年で6回目だそうです。能の抽象性のためでしょうか、現代的な空間で演じられてもあまり違和感なく能の世界に入り込めるのは不思議です。東京の日比谷でも同様の夜能があり、小生も一度拝見しましたが、現代空間と能舞台は不思議と折り合えるのを今回も感じました。

  この日は、観世流の能「嵐山」、同じく「安達ヶ原」(この演目は小生が習っていた宝生流では「黒塚」といいます)をメインに狂言一番と舞囃子一番も演じられました。最初に演じられた「嵐山」は、間狂言の末社の者も舞い、「子守」「勝手」という子どもたちが扮する二神も舞い、さらに蔵王権現も出現して天下太平を言祝ぐ祝祭的なにぎにぎしさで、キリの部分の仕舞を金沢で習ったこともあり、小生の好きな一曲です。最後に演じられた「安達ヶ原」は、有名な鬼女伝説に基づいた曲で、シテを観世流26世宗家の観世清和さんが演じられました。「安達ヶ原」の頃にはすっかり夜も更けて、暗闇での鬼女の悲しくも恐ろしい営みにふさわしい雰囲気になっていました。いつもは通勤・通学やビジネスで賑わう名古屋駅前という日常的な場所が、ひととき非日常的な舞と囃子、そして神々や鬼女の世界に生まれ変わっていました。


 

8月14日(火)晴れ

  旧暦では立秋も過ぎ、文月(七月)に入りましたが、猛暑が続きます。ここ名古屋も連日35℃前後の最高気温、夜は25℃以上の熱帯夜です。タイマーで冷房をかけて就寝しても、夜中に暑苦しくて目が醒めて、また冷房をかけてしまうこともありますね。左写真は小生のマンションから撮った夏雲です。いかにも夏らしい空だったので撮っておきました。

  さて、先週の前半に、岐阜県・郡上市の八幡(はちまん)町とその北にある大和(やまと)町に行く機会がありました。郡上市は、岐阜県の真中あたりに位置し、長良川に沿って南北の山間に町々、村々が形成されています。郡上八幡といえば「郡上踊り」が全国的に有名で、ちょうど昨日から三日間は徹夜踊りが催され、町が一年で最も華やかに賑わう日々です。八幡の家並みはなかなか美しく、この季節はどの家も郡上踊りの提灯を軒先に掲げています(文章の下にある写真上段左をご覧下さい)。この季節、長良川やその支流の川々では、数多くの釣り人が腰まで浸かって鮎釣りをする姿を見かけます。「長良川 鮎釣る人の 日焼け顔」と駄句が浮かびました(^^; 八幡町で泊まったのは、江戸時代後期のこの町の藩校「潜竜館」の跡地にある旅館でした。この宿を選んだのは、こうした山間の町にも藩校があり、未来を背負う俊才たちの教育が営まれていたことに、ちょっとした驚きと敬愛の気持ちが湧いたからです。


  その翌日は、北隣の大和町へ行きました。八幡町から長良川に沿って8キロほど北の徳永から東へ折れ、支流の栗巣(くるす)川に沿って2キロほどのところに在る「明建(みょうけん)神社」で執り行われる薪能が目当てです。明建神社の薪能のことは、「古今伝授の里フィールドミュージアム」の館長をしておられるKさんからご案内をいただいたものです。「古今伝授の里フィールドミュージアム」とは、明建神社の所在地、大和町の牧という集落一帯に広がる野外施設群の総称です。牧の集落は中世に東(とう)氏の拠点として栄えた地域であり、東氏ゆかりの遺構を中心にした野外博物館といった趣向です。東氏は、桓武平氏の系列とも言われる下総国(現在の千葉県と茨城県)の豪族、千葉氏の支族で、承久の乱(1221年)の戦功により鎌倉幕府からこの地を加領され、以後11代320年余に亘ってこの地を治めました。東氏は代々歌道に優れ、特に第9代の東常縁(つねより)は高名な歌人であり、歌学者でもありました。常縁は特に古今和歌集の研究に優れ、連歌師・宗祇にこの地で古今和歌集の奥義を伝授しました。そこで、ここ大和町・牧の集落を「古今伝授の里」と称しているわけです。

  「古今伝授の里フィールドミュージアム」は、そのHPから引用させていただくと、「東林寺跡、木蛇寺跡、慈永大姉墓、千人塚、木戸口清水、明建神社、馬場跡、篠脇城、東氏館跡の庭園、三日坂と連なる中世遺跡群、さらに芋穴、シシ垣などの近代の生活遺跡、それに加え周囲を取り巻く日本の典型的中山間地の佇まいを残す山や川や田などの環境といった価値ある地域一帯を保全していこうという野外博物館」なのです。特に、東氏館跡の庭園は、昭和54(1979)年に発見され、発掘の結果、中島を配した見事な中世の武家庭園であることがわかり、今日では庭園全体が復元・公開されています。「古今伝授の里フィールドミュージアム」にはまた、研修館「篠脇山荘」やレストラン「ももちどり」もあり、くつろぐ場所にも事欠きません。鉄骨作りに総ガラス張りでしかも萱葺きという、現代と古代が融合した簡素で美しい「篠脇山荘」は、小生が訪れた時には研修が入っていないため自由に出入りできる休憩所になっており、畳に寝転がって軒先から庭の池や篠脇山を見渡す気分は最高でした(写真上段中)。この「古今伝授の里フィールドミュージアム」の館長を勤めておられるKさんが、たまたま小生のHPを見られ、わざわざ薪能のことをお知らせいただいた次第です。

  薪能が催される明建神社は、馬場跡といわれる桜並木の横参道のつきあたりに、樹齢700年の大杉(写真上段右)や欅に囲まれて鎮座しています。能は、石畳を登って正面の拝殿で演じられます(写真下段右)。そもそも明建神社は、東氏が下総国からこの地に入部した際に、妙見(みょうけん)菩薩を勧請し、社を建てて東家の氏神としたのが起源、と伝えられています。また、文明3(1471)年、東常縁から宗祇への「古今伝授」を終えた後の儀式もこの神社で行われたとのことです。この神社は、江戸時代までは「妙見」宮と書き、本尊は妙見菩薩で、典型的な神仏習合の神社でしたが、明治維新のとき神仏分離令が出されたので、祭神を国常立尊(くにとこたちのみこと)とし、神社名も字を換えて明建神社と改められました。ただし祭神の変更は表向きのことで、本尊が妙見菩薩であることは現在も変わっていないとのことです。興味深い歴史ですね。

  明建神社では、往古から、毎年7月7日(現在の新暦になってからは8月7日)に例祭・七日祭(なぬかびまつり)が行われます。小生もこの日、古来の神事を拝見しました(写真下段左)。この祭りは、七夕(たなばた)に因んだもので、東氏が下総国にて奉納して以来と伝えられています。神事が終ると広場で「神前の舞・杵振(きねふり)の舞・獅子起(ししおこし)の舞」が奉納されますが、この三つの舞はまことに素朴な舞で、古い日本芸能「田楽(でんがく)」の形を残しているそうです。そういえばこの日拝見した獅子起の舞では、能「石橋(しゃっきょう)」で獅子が見せる上半身を反り返らせる型とそっくりな仕草が出てきました。能の源流のひとつは各地に伝わる田楽であったということは知識としては知っていましたが、これを目の当たりにするとは驚きでした。古くからの神事や祭礼の姿を絶やさず変えず伝えてきた大和町・牧の人たちの心意気に感謝です。

  さて、肝心の薪能については、本文の「古今伝授の里」の薪能をご覧ください。なお、この日、千葉県の東氏所縁の町からも団体でこの薪能を見学に来ていました。古の東氏の縁で町同士が交流しているのは素晴らしいですね。また、このイベントを円滑に進めるための裏方は、揃いのティーシャツを着た地元のボランティアの皆さんが全て分担しておられました。地域共同体がしっかり機能しているのも素晴らしいことです。

         
郡上八幡の町家の清々しい玄関先                篠脇山荘の軒先から臨む篠脇山                明建神社脇の「神迎え杉」

        
明建神社の七日祭(なぬかびまつり)の神事                  明建神社の拝殿で薪能の始まる前の様子
  

 

8月21日(火)晴れ

  名古屋は熱帯夜と最高気温35℃以上の猛暑日が続きます。だいぶ体が慣れて、7月より元気になってきたような気がするのは不思議です。小生の住んでいるマンションにはサウナ風呂の施設があり、帰宅してすぐにサウナで大いに汗を流すと、とてもリラックスできて心身共にすっきりします。

  さて、急に人事異動が出て、9月から東京に戻ることになりました。名古屋に来てまだ一年ですので、予想しなかった異動です。新たな使命に挑戦できるのは幸いですが、当分の間、落ち着かない日々になりそうです。いつも訪問していただいている皆様には申し訳ないのですが、今年いっぱい更新をお休みさせていただきます。現在の「やるべきこと」に集中したいとの思いからです。また平成20(2008)年の年明けには戻って参ります。しばらくの間、皆様お元気で!!

 

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