近況メモ(平成20[2008]年1月〜2月)
平成20(2008)年〜「人なつこい鴎」から「春モードの百貨店」
1月6日(日)晴れ
太陽暦の新年があけました。名古屋から東京に転勤になってはや4ヶ月、何かと慌ただしい年の瀬でしたが、年末になってようやく落ち着いてきました。正月は、小生の実家と家内の実家に家族三人で帰省し、小生は2日夜には東京に戻りました。ことし会社への初出勤は1月4日(金)でしたが、さすがに通勤電車は空いていて、いつもより10分程度早く職場に着きました。この季節、小生の職場の階のエレベーター・ホールからは、空気が澄んだ日には遠く丹沢山系や雪を冠った富士山が見えます。富士山を眺めると、不思議に大自然の生命力を感じ、自分が「地球」や「日本列島」に住んでいることに思いを馳せさせられ、気持ちが改まっていいですね。
さて、右の写真は、年末に東京ドーム入り口の江戸城外堀で見かけた鴎(カモメ)です。東京湾から隅田川を遡り、さらに外堀を伝ってここ水道橋までやって来たのでしょうか、20羽ほど群れていました。驚いたことに、彼らはずいぶん人なつこく愛嬌があって、こんな近くで携帯カメラを向けても逃げないばかりか、羽を広げたり首をかしげたりポーズをとってくれます。鴎をこんな間近に見たのは初めてですし、彼らがこんなに人なつこい鳥だと初めて知りました。人間を恐れないのは、ここを通る大勢の人たちの誰かが餌をやっているのでしょうか。
1月12日(土)霙(みぞれ)
旧暦では師走(12月)に入り、本来は寒さもピークに達する季節です。きょうは霙が降り続く寒い日でしたが、正月以来、東京は気味が悪いほど穏やかな気候でした。通勤は楽で良いのですが、冬らしい緊張感が無さ過ぎるのもどうかと感じます。中学か高校で習った高村光太郎の「冬が来た」という詩のような緊張感が冬の情緒だと思うのです。その詩をここに掲載してみます。懐かしく思い出される人もおられるでしょう。
冬が来た
高村光太郎
きっぱりと冬が来た
八つ手の白い色も消え
公孫樹の木も箒になった
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
さて、写真は岡崎市にある大樹寺という寺の多宝塔です。正月に家内と二人で岡崎市内の寺社巡りをした際に立ち寄りました。大樹寺は浄土宗の寺で、草創は室町時代、徳川家康とその祖、松平氏に縁の深い寺です。家康を生んだ三河の松平氏は、今の豊田市松平町から発祥し、岡崎など平野部に進出した中世の土豪です。寺のホームページに、大樹寺の草創の経緯について次のように記されています。
「応仁元(1467)年、家康から五代前の松平親忠が、応仁の乱の三河地方戦として、伊勢貞親の東軍に従って、西軍に属した拳母(ころも)城主中条氏率いる豊田市方面の土豪の軍と戦って勝利したが、多数の戦死者が出た。このときの戦死者を葬った塚を首塚とも千人塚とも呼んだが、その後9年を経た文明7(1475)年になって、戦死者たちの亡霊が騒ぎ出し、塚がしきりに鳴動してときの声が絶えることなく、近辺に悪病が流行した。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建て、碧海郡宇祢部(うねべ)郷の福林寺の住職、勢譽愚底を招いて7日間の念仏を修し、その功力で亡霊を鎮めた。この念仏堂は後の鴨田西光寺で、その後親忠は菩提寺として大樹寺を建立し、勢譽を開山とした。尤も、この寺伝には異説が多い。大樹寺そのものが亡霊を鎮めるためのものと言い、あるいは鎌倉時代以来大寿寺と言う浄土宗の草庵があったという説もある。」
大樹寺は、家康の命を救いその人生の指針を授けた逸話で有名です。永禄3(1560)年、家康19歳のとき、桶狭間の合戦で今川方に属していた家康は、今川義元敗死の報を受けこの大樹寺に逃げ帰り、絶望して先祖の霊前で自害しようとしました。この時、大樹寺の第13代住職、登誉上人が「厭離穢土、欣求浄土」の言葉(=この娑婆世界を穢れた国として厭い離れ、清浄な国である阿弥陀仏の極楽世界への往生を切望するという意味。源信の『往生要集』冒頭の章名に由来)を示し、戦国乱世を住みよい浄土に変ずるのがお前のつとめだと諭し、家康を翻意させました。以後、家康は「厭離穢土、欣求浄土」を戦陣の旗印とします。元和元(1615)年、既に征夷大将軍職を秀忠に譲っていた家康は、先祖松平八代の廟所を大樹寺内に建立し、大樹寺は松平氏・徳川氏の菩提寺となり、松平氏歴代当主の墓や歴代将軍の位牌が安置されています。
写真の多宝塔は国の重要文化財で、天文4(1535)年、家康の祖父、松平清康の建立になるものです。室町後期の様式で、桧皮葺きの屋根の曲線状の傾斜がとても優美です。多宝塔は法華経信仰によるものゆえ、内部に多宝如来が安置されています。また、山門は県の指定文化財で、寛永18(1641)年、三代将軍徳川家光が建立しました。山門の楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」(国の重要文化財)が掲げられています。大樹寺の本堂からは山門、総門を通して一直線上に岡崎城を望む事が出来ることで有名です。この景観の保護は岡崎市の条例でも定められています。我々が訪ねた日も、ちょうど居合わせた二人の女学生が、山門から岡崎城が臨めますよ、と誇らしげに教えてくれました。
このほか、大樹寺には、戦前の国定教科書にも載っていた家康の木造坐像(江戸時代初期、左京法橋康以作の寄木造、玉眼、彩色像。像高47cm)や、江戸時代後期に絵師・冷泉為恭が描いた障壁画群などの宝物があります。小生は、大樹寺には高校時代以来何回か来ているはずですが、年を経て来ると、見る目も違い、こんなに立派な寺だったのか、と、今回改めて感心しました。
1月20日(日)晴れのち曇り
寒い日が続きます。今夜あたりはここ東京多摩地方でも雪が降りそうです。先週末の三連休、特に遠出はしませんでしたが、成人の日の午後に家族で武蔵国の国分尼寺跡あたりを散策したり、近所のイタリア料理店「オステリア」で夕食をとったりしました。西国分寺駅周辺で我が家のお気に入りの飲食店は、この「オステリア」と居酒屋「ちょこり」です。先月「ちょこり」に行ったときは、お店で娘の小学校時代の同級生がアルバイトで働いていました。背はずいぶん大きくなりましたが、顔は小学校当時の面影がそのままで、すぐわかりました。こういう思いがけない再会はうれしいですね。
上の写真は、武蔵国分尼寺の金堂跡です。「板東千年王国」の「多摩川流域メニュー」にある「野川・仙川」からお借りした映像です。 奈良時代、東大寺を総本山として、全国68ヶ所に国分寺・国分尼寺が建設されましたが、武蔵国では、国分寺崖線の南側に、東山道武蔵路をはさんで東側に武蔵国分寺、西側に武蔵国分尼寺が造営されました。鎌倉時代末期、新田義貞と北条氏との間で戦われた分倍河原の合戦の兵火で武蔵国分寺・国分尼寺は壊滅し、現在、当時の伽藍は残っていません。しかし武蔵国分尼寺は近年史跡としての整備が進み、中門跡、金堂前の幢竿(とうかん=旗ざおの一種。写真の4本の柱)、金堂跡(写真の台地部分)、尼坊跡、そして裏山が確保されています。また、寺域の塀や尼坊跡の一部がかなり完成度の高いかたちで復原されています。その国分尼寺跡が我が家から手頃な散歩道なのです。
下の写真は、「全国の国分寺を巡る」からお借りした国分尼寺伽藍の復元模型やCG画像です。こうした見事な色彩の建物が実物大でこの地に復元されたら、どんなにか青空に映えて美しいことだろうと思います。
1月26日(土)晴れ
東京は23日(水)に雪が降り、うっすらと積もった感じになりました。しかし、小生が生活していた金沢あたりの雪が粒状なのに対して、東京の雪はシャーベット状で、霙(みぞれ)といったほうがいいような気がします。写真は冬枯れの有栖川宮記念公園。都立図書館に出かけた時に撮ったものです。
さて、さる19日(土)、小生が金沢で謡と仕舞を習っていた藪俊彦師のご長男、克徳さんの演じる能「車僧(くるまぞう)」を拝見しに、水道橋の宝生能楽堂へ行きました。克徳さんは、今回、若手主体に演じられる宝生流の定例公演「五雲会」に初めてシテとしてデビューされたのです。その能の様子は、本文中に能楽師誕生!として記しましたので、ご覧ください。能が引けたあと、ドームホテルで祝賀会が開かれ、小生も参加させていただきました。藪先生の地元の金沢をはじめ、東京その他各地から応援に駆けつけた方々が集まり、にぎやかな宴となりました。小生にとっても、金沢時代にお世話になった方々と旧交を暖める良い機会になりました。また、初めてお会いする方々も含め、東京在住のゆかりの人たちとも親しくお話しすることができたのは幸いでした。遠からぬ将来に、克徳さんが宝生流お家元での住み込み修業を卒業され、お弟子を教えることができるようになった暁には、東京で謡や仕舞の稽古をみなさんと一緒に始めたいものです。
2月3日(日)雪
今日は節分、明日は立春、来週木曜日は旧暦では新年です。日本以外のアジア諸国では旧暦でお正月を祝います。いよいよ「新春」の到来です。しかし東京多摩地方は、節分の今日、一日中雪でした。積もるほどの雪は東京ではめったに経験できませんので、この機会を逃さじと近所の雪景色を携帯カメラに収めに、何年かぶりに長靴を取り出して出かけました。誰も踏んでない新雪を踏みしめて歩くのは、この年齢になってもちょっとした興奮を覚えます。しばらく行くと、驚いたことに、近所の病院の庭で紅梅の大木が真っ盛りに花を咲かせています。同行した家内は「ほのかな香りがする」と言っていましたが、小生の感度の鈍い(?)鼻はほとんど香りを感知できませんでした。この木は、毎年、このあたりの他の梅の木よりも早く花を咲かせていますが、今年はたまたまこの雪に遭遇してしまったのですね。さすがに咲き誇る紅梅の木も寒そうに見えました。
2月10日(日)晴れ
関東地方は、昨日再びまとまった量の雪が降り、今日も積もった雪が残っています。しかし空はすっかり晴れ上がり、気温も10℃くらいまで上がりました。家の周りのあちこちで融けた雪がしずくとなってぽたぽた落ちる音が響いています。久しぶりに左写真のような青空を眺めるとさわやかな気分になります。
先週は気候変動が大きかったせいか、小生も体調を崩し、風邪がひどく久しぶりに熱も出たりしたので、会社も一日お休みをいただきました。この週末は、本来は、「炭坑町の歴史と蘇生と現在」をテーマに、いわき市へ「学習旅行」に出かける予定だったのですが、これもキャンセルせざるを得ませんでした。風邪などは、若い頃ですと、一晩ぐっすり眠ればきれいさっぱり直っていたような気がするのですが、この年齢になると、一週間くらいは喉や鼻の具合がすっきりせず、体調がすぐれません。幸い、小生は、毎年の人間ドックでも、成人病の兆候はさほど見られないのですが、やはり病気に対する抵抗力は若い頃と同じとはいかないようです。(^^;
そんなわけで、この三連休は「骨休み」になりそうですが、読書はそれなりにはかどりました。前から読もうと思っていた「徳富蘇峰 終戦後日記」(御厨貴解説。講談社2006年)も読了しました。
2月17日(日)晴れ
2月も半ばを過ぎ、今日は都心では春の到来を告げる東京マラソンも行われましたが、朝夕の冷え込みは厳しく、外出すると北風の冷たさも身に凍みます。この季節がこんなに寒いのは何年かぶりではないでしょうか。しかし生き物たちは春を待ちかねているようです。先日訪れた東京大神宮の入り口では、可憐な紅梅が小生を出迎えてくれました(右写真)。
さて、昨年9月に東京に戻って以来、久しぶりに謡の稽古を再開しました。以前にも家内と通っていた府中市の宝生流関係者の方々が主宰するお稽古会に再び今月から行き始めたのです。月二回土曜日の午前中の稽古で、ちょうど今は「鵜飼」を習っています。「鵜飼」は、金沢に居た時に能楽堂の舞台で前半のシテを謡わせていただいた曲で、懐かしく復習ができました。この会は、基本的に家内のような初心者が中心メンバーですが、中には学生時代に能や謡曲をやっていた方も居て、けっこうスムーズにお稽古が進みます。まだまだ本格的に謡や仕舞の稽古を再開するには時間的にしんどいかな、と思うのですが、この程度の頻度なら何とか続けられそうです。やってみると、ふだん腹の底から声を出す機会が少なくなっているせいか、夫婦で大きな声を出して謡うのは心身の健康にいいものだな、と、久しぶりに充実感を味わえました。
2月23日(土)晴れのち曇り
今日の東京地方は午後から猛烈な強風が吹き、寒さが舞い戻ってきました。気象情報によれば、この風は「春一番」とのことで、いよいよ春が間近いということのようです。今日家族で出かけた立川の百貨店でも、女性ものファッションのディスプレイがすっかり春モードになっていました(写真をご覧下さい)。
さて、小生は、バロックから初期ロマン派あたりまでの名も知られぬ隠れた「名曲」のCDを収集するのも趣味にしています。正確に数えたことはないのですが、家では三〜四千枚程度のCDがリビングを占拠しており、家の者からは時々苦情が出ています。(^^; かつてのカラヤンのようなスター演奏家が出ないクラシック音楽業界は、世界的な不況が続いています。月刊「レコード藝術」に紹介されるCDも、再発売ものや往年の名演奏家ものばかりで、新譜CDは5年ほど前と比べてもかなり減っています。しかし、小生の愛好するようなヨーロッパのマイナーレーベルは、今でも、名も知られぬ作曲家の驚くような「名曲」を発掘しては新譜を毎月コンスタントに出してくれていて、その心意気には感心します。来月も、ハイドンよりも早く交響曲の様式を確立し、実質的に「交響曲の父」の位置にあるとも言われるジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1700年頃〜1775年)の交響曲(シンフォニア)集がイタリアのDynamicというレーベルとドイツのBrilliantというレーベルから出る予定です。G.B.サンマルティーニはミラノに生まれ、生涯ここを拠点に活動した音楽家で、交響曲、器楽作品、オペラ、宗教作品と多様な作品を書き、ミラノを訪れたボッケリーニやグルックに多大な影響を与えています。彼は、オペラの序曲であったシンフォニアを独立した管弦楽作品として発展させ、それらの小曲たちが交響曲の萌芽となりました。こうしたヨーロッパのレコード会社から輸入CDを買い込む小生の立場からすると、近年のユーロ高円安は、円建てのCDの値段が上がる原因となるので大変困ります。福田首相が推し進めようとしている「消費者・生活者重視」の考え方からしても、輸出企業の利益ばかり配慮して自国通貨を弱くする政策は望ましくないと言えましょう。