能楽師誕生!
一月一九日(土)、宝生能楽堂で、藪克徳さんが能「車僧(くるまぞう)」のシテを舞われました。藪克徳さんは、小生が金沢で謡と仕舞を習っていた藪俊彦師のご長男で、宝生の家元に住み込み修行中の能楽師の「卵」です。今回、若手主体に演じられる宝生流の定例公演「五雲会」に初めてシテとしてデビューされたのです。藪先生ゆかりの方々が金沢や東京など各地から応援に駆けつけていました。
さて、演じられた能のタイトル「車僧」とは、文字通り「車に乗った僧侶」の意味です。この能の原典は明らかではないようですが、京都の太秦にあった海正寺(かいしょうじ)という寺の開山、深山正虎(しんざんしょうこ)という禅僧がモデルになっているようです。「かげまるくん行状集記」というホームページによれば、深山禅師は、その俗姓・出身地は不明で、常に破れ車に乗って町におり、道行く子どもたちがその車を押したり引いたりしていました。そのため町の人は彼のことを「車僧」とか「破れ車」とか呼んだそうです。また七百年前のことをも語っていたので「七百歳」とも称された、とのことで、人々の目には傲岸で奇矯な人物と映ったようです(尤も禅僧という人種は多かれ少なかれ奇矯な人が多いとは思いますが…)。
能「車僧」は、雪の嵯峨野が舞台です。いつも牛のいない破れ車に乗って往来しているので「車僧」と呼ばれている奇僧がいました(車僧はワキが演じます)。ある雪の日、車僧はいつものとおり車に乗り、嵯峨野から西山の麓へやって来て、四方の雪景色を眺めて楽しんでいます。するとそこへ、愛宕山の天狗(これをシテの克徳さんが演じます)が、山伏姿で現れ、この僧の奇行につけ込んで魔道に誘惑しようと、禅問答をしかけますが、軽くあしらわれてしまいます。そこで、自分は太郎坊だと名乗り、再度の挑戦を約して、雲に乗って飛び去ります(ここまでが前場)。やがて太郎坊は、今度は本来の大天狗の姿で現れ、行くらべを挑みます。ところが、車僧の乗った牛もつけていない車は、太郎坊がいくら打っても動かなかったのに、車僧が払子を一振りするだけで、自在に雪の山路を疾駆します。太郎坊はその法力に驚き、どう脅しても泰然自若としている車僧の態度に恐れ入り、仏法を妨げるのをあきらめ、ついには敬意を表して合掌して消え失せます。
能がはじまり、ワキの車僧が車の作り物に座ると間もなく、舞台奥から「いかに車僧」と呼ばわる声がします。克徳さん演じる天狗の太郎坊です。凛と張った力強く若々しい声です。やがて山伏姿の太郎坊は舞台に進み出て、車僧と禅問答を交わします。前シテの山伏姿の天狗が直面(ひためん。=面を付けない素顔のまま)だったことも幸いでした。三〇歳代前半の若々しい素顔で登場した克徳さんは、まるで長く厳しい修行の地中から陽光の能舞台へ飛び出してきらきら輝く黄金の蝉のように見えました。溌剌とした所作がまぶしいばかりです。能楽師、ここに誕生す! まさにその瞬間に立ち会った感激で、僕は目頭が熱くなってきました。
後シテの大天狗姿の所作も含めて、けれんみの無い、実直な型だと感じました。初々しい、若さの「徳」も感じました。きっと、父上の藪俊彦師や学生時代のクラブ活動以来ご指導されてきた寺井良雄師など、数多くの師たちの教えを忠実に厳格に守り通し、何百回とこの日のために稽古されたことでしょう。後シテの袖を返すシャープな動きやダイナミックな所作、それに良く通る謡の声は父上の舞台を彷彿とさせます。
しかし一方、舞台を拝見して、「車僧」はなかなか難しい曲だとも感じました。というのも、謡や所作自体はさほど技術的な困難さはないように見受けられましたし、現に、克徳さんの個々の所作や謡は見応え、聞き応えがあるものでした。しかし、禅問答の妙味とか、車僧に対して力の勝負を必死で挑むのに軽く跳ね返されてしまう天狗の滑稽さなど、恐らく詞章が求めている味わいを切り詰められた謡と所作だけで十全に表現し、見所(=観客)にこの曲全体の面白さを味わわせるのは容易なことではないな、と感じたからです。
それにしても、この鮮やかなデビューは、克徳さんの今後を期待させてくれます。後シテとして天狗本来の姿で登場した克徳さんが橋掛から舞台へ移るやいなや、後見の佐野由於師と寺井良雄師が、心配で待ちかねたように飛び出して来た(ように僕には感じられました)のは、先輩の親心と期待の表れでしょう。また、最前列に陣取った金沢からの大応援団からは、目には見えず耳には聞こえませんが、「克っちゃん先生、がんばれ!」の飛び切り熱い声援が発せられ、それは宝生能楽堂の場内に響き渡っていました。
平成二〇(二〇〇八)年一月二三日