近況メモ(平成20[2008]年7月〜8月)
平成20(2008)年〜「蒸し暑い七夕」から「集中豪雨の晩夏」
7月6日(日)晴れときどき曇り
東京は、先週から蒸し暑い日が続いています。日差しも気温もすっかり夏です。明日は七夕とあって、通りがかった吉祥寺駅の構内にも願い事を記した短冊で飾られた笹の木が設えてありました(写真)。さて、最近三つの催し物に出かけました。まず6月27日(金)には、MMCKオーケストラの演奏会で紀尾井ホールへ。MMCKオーケストラとは、次期ニューヨーク・フィル音楽監督のアラン・ギルバートと東京交響楽団常任指揮者の大友直人が主催する千葉県かずさでの音楽セミナー(ミュージック・マスター・コースinかずさ=MMCK)に参加した若手音楽家たちから成るオケです。このセミナーは、 世界各国から若い演奏者が集まってギルバートや大友ら第一線で活躍する講師たちと数週間生活しながら音楽修行する催しです。8回目の今年も世界各国からオーディションや推薦で選ばれた33人(日本23人、アメリカ、韓国、スペイン各2人、フランス、イギリス、ウズベキスタン、イスラエル各1人)が研鑽を積み、その成果が室内楽やオーケストラの演奏会の形で発表されるのです。27日の「MMCKオーケストラ公演」のプログラムはハイドン「交響曲第99番」、ブラームス「交響曲第3番」などでした。小生のお目当ては、佳曲なのになかなか演奏されないハイドンの99番を聴くことでしたが、ブラームスも含め、真摯な演奏から生まれる瑞々しい表現には好感が持てました。
29日(日)には、池袋の「あうるすぽっと」へ劇団「昴(すばる)」が演ずるシェイクスピア劇「ジュリアス・シーザー」を観劇に行きました。前半はシーザーの、後半はシーザーを殺したブルータスのそれぞれの悲劇が展開する骨太な歴史物語です。小生は、有徳で高潔なブルータスが権力政治のセンスを欠いたために滅んでゆく悲劇にシェイクスピアの権力政治への洞察力を強く感じました。また、シェイクスピア劇は、高踏的な現代演劇とは異なり、良い意味で大衆演劇として面白くできているなとも思いました。劇団「昴」は福田恆存が創設した劇団で、この日の台本ももちろん福田恆存翻訳の格調高いシェイクスピアで、役者さんたちの言語表現力が問われていました。
7月2日(水)にはやはり紀尾井ホールへ、寺神戸(てらかど)亮さん指揮の古楽器オケ「レ・ボレアード」によるモーツァルトのハ短調ミサ(K427=K第6版417a)を聴きに行きました。四人のソリストも合唱(坂本徹さん率いるモーツァルト・アカデミー・トウキョウと厳しいオーディションを経て集まったアマチュア・メンバーとの混合団)も清澄な古典派らしい声を聴かせてくれました。何と言っても曲の白眉は、フルート、オーボエ、ファゴットにソプラノが絡んで奏でられる「エト・インカルナートス・エスト」の部分です。特にオーボエの三宮正満さんのしなやかな表現力は驚嘆させられます。寺神戸さんや三宮さんら「レ・ボレアード」には「バッハ・コレギウム・ジャパン」と重複するメンバーが多いのですが、彼らは日本を代表する古楽器奏者であるのみならず、世界的にも最もレベルの高い人たちだと、小生よりずっとクラシック通の某氏から聞かされ、日本人の繊細さがこうした古楽器オケでは活きているのではないかとの思いを強く持ちました。
7月20日(日)晴れ時々曇り
梅雨明けして、蒸し暑い「日本の夏」が始まりました。来る22日は暦の上では「大暑」です。右の写真は、府中市内の神社の祭礼を知らせる提灯です。この季節、日本各地で「夏祭り」が催されていることでしょう。きょうも買い物に出かけたら、近所の町内会か子ども会かの主催する子ども御輿が町を練り歩いていました。しかし暑さのせいか、子どもたちの掛け声には今ひとつ元気がなかったのは残念でした。我が家の近くではまだですが、先週金曜日には、勤務先がある九段下で、ことし初めてミンミンゼミとアブラゼミの鳴き声を聞きました。
さて、家内が前から習っている書道の試験に合格し、師範の資格を得ました。習い始めて一四年目の快挙です。今彼女が習いに行っている先生の所には、日本人と結婚して我が家の近所に住んでいるロシア人の若い女性も来ていて、とても熱心に書道に打ち込んでいるそうです。やはり日本人であるからには、何かひとつ日本の伝統的な芸能・技能を身につけたいものですね。小生にとっては能の謡と仕舞がそれに当たると言えそうです。ともあれ、何事も「継続は力なり」です。きょうはお祝いに家族三人で吉祥寺の高級(?)中華料理店へ出かけました。
7月26日(土)晴れ時々にわか雨
東京は、最高気温が35℃前後まで上がり、最低気温は25℃を下回らない日が続いています。今週は水曜、木曜と続けて夜遅くまで「飲み会」などがあったので、きょうは静養日です。水曜の会は、我が社を辞めて各方面で活躍しておられる方々との懇親会でした。外資系証券会社で重責を担っておられるM氏が音頭を取って、男三人と女三人の懐かしい顔ぶれを集めてくれました。皆、公私ともに様々な波を乗り越えて堂々と今日を築いてきた五十歳代の男と四十歳代の女ばかりです。参加者の一人の女性が翌日皆に送ってくれたメールのこんな一節が、その夜の模様を伝えてくれます。曰く、「あの銀行で一時期を一緒に過ごしたというだけで感じられるこの安心感というのは何でしょうね? 時間があっという間に経ってしまって、帰りがけに時計をみて驚きました。」 会社がまだ共同体として機能していた頃に職場を共にした人たちは、いつまで経っても「仲間」であり続けるのでしょう。この日も、しばらく話しているうちに、十年以上会っていない彼や彼女の個性をまざまざと思い出したのでした。もちろん私たちは懐旧に浸ってばかりではありませんでした。現役バリバリ世代として、人脈やビジネスチャンスにも繋がる会であったことは言うまでもありません。ただ私たちには昔の仲間という「安心感」がありますので、よくありがちな露骨な人脈ネットワーク作りのための会合には陥りません。ありがたいことです。
さて、さる三連休の最終日、7月21日に、「北京故宮 書の名宝展」と「対決 巨匠たちの日本美術」というふたつの企画展を妻と一緒に「はしご」しました。まず午前に、両国の江戸東京博物館で開かれている「北京故宮 書の名宝展」を拝見しました。小生は、今回初めて江戸東京博物館を訪れましたが、その建物の無機的なグロテスクさには驚きました。これは新宿の東京都庁と同様のグロテスクさですが、それもそのはず、江戸東京博物館は、東京都庁と同じく、1979年から1995年までの長きに亘り都知事を務めた鈴木俊一知事時代に作られた「遺構」だったのです。都庁を設計した丹下健三と同じく、江戸東京博物館を設計した菊竹清訓(きよのり)も「モダニズム」派の建築家です。モダニズムは、フランスの建築家、ル・コルビジュエの流れを汲み、伝統や環境との調和を拒否し、むかしからのコミュニティを破壊して土地をまっさらな白地にし、その白地に鉄筋コンクリート構造の巨大な建物群を構築することを良しとする、20世紀前半に一世を風靡した建築の流派です。勢い、建物は抽象的で非人間的で威圧的なものとなります。近代物質主義の徒花(あだばな)としか言いようがありません。菊竹清訓が設計した江戸東京博物館や不忍池ほとりの奇抜なホテル・ソフィテル東京は都市景観の観点から物議をかもしました。彼がお堀端に計画した昭和館も当初のデザインが不評で大幅な設計変更を行ったそうです。ちなみに、ホテル・ソフィテル東京は竣工からわずか13年後の2007年に解体されました。江戸、東京の伝統と無関係で、居ても落ち着かないような今の江戸東京博物館の建物も早くぶち壊して、歴史や環境と調和した散策するのに楽しい建物に建て直すべきでしょう。なお、モダニズムをはじめとする建築や都市デザインの歴史については、香山壽夫「都市デザイン論」(放送大学教育振興会、2006年)が大変示唆に富んだ見識を示してくれます。ご一読をお奨めします。この日のふたつの企画展については「中国の書と日本美術を堪能する一日」をご覧下さい。
8月3日(日)晴れ(残暑きつい)
旧暦では文月(ふみづき=七月)に入り、今週木曜日は「立秋」なのですが、暑さは今が盛りですね。左の写真は、去る月曜日の夕刻に最寄りの西国分寺駅構内から西側の空を撮ったものです。空が幻想的な茜色に染まっていました。この不思議な夕暮れの色彩に何人かの人が足を止めて眺め入り、写真を撮っていました。古人が西方浄土を拝んだのも、夕暮れの西の空が、こうして時折、この世のものとも思われないような綾取りを見せてくれたからではないでしょうか。
さて、先週日曜日に、神楽坂の矢来能楽堂で催された「若竹能」を拝見しました。若竹能とは観世九皐会に所属する若手能楽師の発表の場として、年に2回催される公演です。この日は、能「忠度」を中心にしたプログラムでした。最初に、この能の原典「平家物語」の中の「忠度都落」「忠度最期」の場が、平曲相伝者である新井泰子さんによって演奏されました。平曲は「平家物語」に節をつけ、平家琵琶を用いて語る伝承文化で、上流階級出身の盲人や大名・武家などが担い手でした。2オクターブの声域で、時には朗読のように、時には歌うように語り、琵琶を掻き鳴らしつつ語り進めます。仏教の声明や能の謡の強吟とも共通の歌唱だと思われました。次に、狂言「呂蓮」では、野村万作さんの、単に滑稽なだけではなく、独特のペーソスを感じさせる演技が印象的でした。そして能「忠度」では、シテの桑田貴志さんが、まだ平家物語の「あはれ」を感じさせる演技の深みはありませんが、若手らしい清々しい謡と型を楽しませてくれました。
8月10日(日)薄曇り
右上の写真は小生の職場廊下から写した夏空です。いかにも暑い夏の日差しを感じさせます。画面下の方の森は皇居の森です。春は花々、秋は紅葉と、四季折々に色彩を変じて、私たちの目を楽しませ、身近に豊かな自然の営みを感じさせてくれます。皇居の森の彼方は、永田町、赤坂、霞ヶ関方面です。この写真ではわかりませんが、国会議事堂も見えます。また、空気の澄んだ冬の朝には、遠く丹沢山系を従えた富士山もくっきりと浮かび上がります。きょうの東京地方は、薄曇りだったせいか、あまり暑さを感じませんでしたが、先週は夜も25℃を下回らない「真夏日」が続き、通勤電車の中でうたた寝している人が多いようです。もっとも学校が夏休みですから、電車の車中は普段よりゆったりしています。右下の写真は、横浜で見つけたアブラゼミです。フェンスの柱にしがみついて、小さな体を思い切り奮って鳴いていました。蝉も今はまだミンミンゼミやアブラゼミが「主力」ですが、そのうちにツクツクボウシが鳴き始め、朝夕がようやく涼しくなってきます。それまでは暑い日々が続きそうです。
さて、先週、岐阜県郡上八幡市大和町にある明建(みょうけん)神社の祭日に催された薪能を拝見してきました。この地に因んだ復曲能「くるす桜」を中心にした演目です。この催し、小生は昨年も出かけています(2007年8月14日付「近況メモ」をご覧下さい)。今年は、能「くるす桜」のシテに京都の観世流シテ方の味方玄(しずか)さんが登場することを味方さんのホームページで知ったので、急遽行こうと思い立ったのです。味方玄さんは昨年の大和町の薪能でも、「室君」という演じられること少ない曲で室明神の女神を舞われ、小生はそのしなやかで柔らかで若々しい舞姿に感嘆したのでした。また、今年6月5日の「歌・舞・音・曲」と題した大鼓方の能楽師・亀井広忠さんの主宰する演奏会で、舞囃子「邯鄲 盤渉」を舞われ、この時もため息をつきたくなるほど美しい舞姿を味わわせていただきました(6月7日付近況メモをご覧下さい)。
この日の薪能は、あいにく途中で激しい雷雨に見舞われ、能舞台となった明建神社の本殿舞台や橋掛りが雨で濡れてしまい、「くるす桜」の前場は省略されて後場だけの演能になりました。後場では、優雅な武将姿で現れたシテ・東常縁(とうのつねより)が宗祇との連歌を詠じ、和歌のまことを語り、古の大和舞を舞います。味方さんの謡は明晰で風格があり、舞姿にはしなやかな能の舞の魅力が満ちていました。曲の最後に、常縁がこの地に伝わる古今伝授の伝統を守れと地の人々を励ますメッセージを発するのですが、観客の方を向いた姿には、まことに常縁が乗り移ったかのような気品とメッセージを伝えようとする熱い気持ちがあふれていました。味方さんのHPには「能楽師と呼ばれるよりも能役者と呼ばれたい」と記してありましたが、この天賦の才に恵まれた四十歳代前半の能楽師が、あまり過剰に演劇家的、芸術家的自意識の虜にならぬように、能楽師として大成されんことを願う次第です。
8月16日(土)晴れ一時にわか雨
今日は残暑が厳しい日でした。東京は最高気温が35℃まで上がり、日差しも強く湿度も高かったので、歩いていると汗が噴き出してきました。それにめげず、調べものをしに国立国会図書館まで出かけましたが、永田町駅から国会図書館までの道で信号待ちしているだけで頭がくらくらしてきました。
たまたま昼休みに、図書館から徒歩五分ほどの国立劇場をのぞいてみると、小劇場で「花形・名作舞踊鑑賞会」の席があったので一時間半ほど拝見しました(写真はそのポスター)。二曲目の長唄舞踊「汐汲(しおくみ)」の尾上紫(おのえゆかり)さんがとても華やかで美しく、目の保養をさせてもらいました。尾上紫さんは、二代目尾上菊之丞の娘として日本舞踊が「本業」ですが、近年は演劇や映画やテレビでも活躍しているそうです。舞踊「汐汲」は能「松風」をアレンジした筋で、女性の切ない恋心を表現しています。白地に赤とグリーンの豪華な衣装を身にまとい、在原行平の形見の烏帽子を付けて踊ります。本来は男の歌舞伎役者がまとう衣装ですから、女性の尾上紫さんが演じるには相当重く、「体を鍛えて臨みます」と彼女のウェブサイトには記されていました。今日拝見した舞姿は実に自然で流麗でしたが、その裏には並々ならぬ鍛錬があったのですね。
さて、北京五輪のテレビ放送を見ていて、中国選手たちの表情・風体の「暗さ」ないし「無表情」が気になりました。例えば、バドミントン女子ダブルス準々決勝でオグ・シオこと小椋・潮田ペアを破った中国ペア。ふたりの髪型は丸刈りで、どう見ても女性らしさのかけらも感じません。ポイントを取っても取られても表情を変えず、まるで機械のように見えました。それから体操男子の中国チームのキャプテン。彼が試合前にインタビューに答えて「日本チームを重視している。日本のことはビデオで見て研究している」と語るその表情の硬さ、陰鬱さ。日本体操チームへの敵意を露わにしたいまいましそうな話し方と表情に背筋が寒くなりました。
彼ら中国選手からは、喜び、悔しさといった、スポーツマンとしての個人的な感情の発露がありません。人間的感情、人間らしさをまったく感じません。それと比べ、例えば、射撃女子で4位に入賞した日本の中山由起枝選手のテレビ・インタビューからは、娘と共に歩んできた起伏の多い彼女のスポーツ人生からあふれ出た豊かな情感が伝わってきます。 無表情な中国のスポーツ・エリートたちは、幼少期から特定のスポーツの世界に閉じこめられ、ひたすら「祖国の栄光」のために選択の自由もない人生を過ごしたのでしょうか。彼らは、情操を豊かにする恋愛も友愛も音楽も映画も経験することなく人生を過ごしたのでしょうか。8月13日付日本経済新聞の「五輪的生活」というコラムは、中国メディアが、バドミントン女子ダブルス準々決勝で日本の末綱・前田ペアに破れた世界ランキング1位ペアの「取りこぼし」を痛烈に批判した、と紹介しています。祖国の期待に背いて敗れたときの叩かれ方の激しさは尋常ではないようです。かつてのソ連や現在の北朝鮮もそうですが、個人の自由の少ない全体主義国家におけるスポーツがいかに非人間的なものに堕するかを、小生は北京五輪でも改めて感じました。
8月30日(土)雨が降ったり止んだり
東海から関東にかけて大雨です。ここ東京多摩地方も、鉄道のダイヤが乱れ、朝方雷が鳴って目が覚めてしまいます。我が故郷西三河の岡崎市内も伊賀川が氾濫して大きな被害が出ているようです。お気をつけ下さい。今週は夏休みをいただきました。実家へ帰省し、旧友と会ったほか、滋賀県甲賀地方へ出向く機会がありました。小生の所属する政治・行政の勉強会の「課外ゼミ」の一環として、会のメンバーである甲賀市議会議員のKさんに地元をご案内いただいたものです。
甲賀市は、滋賀県でも琵琶湖に面しておらず、県東南部の山間に所在し、鈴鹿山脈を隔てて三重県の関や伊賀に隣接しています。現在の甲賀市は、東海道の宿場町だった水口町と土山町、甲賀流忍者や製薬で知られる甲賀町と甲南町、それに信楽焼で有名な信楽町の五つの町が平成16(2004)年に合併した市です。人口は10万人弱、農業・製茶業・製薬業・窯業といった伝統的産業に加え、近畿圏と名古屋圏の中間の地の利から内陸工業団地が発展すると共に、大規模な住宅団地も作られ、京都・大阪の通勤圏にも入っています。今年二月には市を横断して新名神高速道路が開通し、市内に三つのインターチェンジが設けられました。小生が訪れた印象も、山間地とはいえ、家々の構えは立派で、比較的恵まれた中山間地といった印象でした。しかし、Kさんによれば、山間地域の過疎化、高齢化問題は深刻で、村々を維持することが次第に困難になりつつあるとのことでした。甲賀市も琵琶湖の水源地域のひとつであり、都市部を支える力を成しているのですが、日本全国でこうした都市生活を支えてきた地方の活力をどのように維持するのかが私たち日本人に突きつけられた大きな課題です。公共工事のばらまきによる一時しのぎではない戦略と政策が国民に問われていることを改めて実感しました。
さて、この課外ゼミで印象的だった所をいくつか紹介しましょう。まず、甲賀忍者の実相を知る上で大変興味深かったのが、磯尾地区の眞岡さん宅でした。眞岡家ご当主自らご説明いただいたところによれば、眞岡家をはじめ磯尾地区は近世に山伏集落として栄えました。もともとこの地域は比叡山との縁深くて天台宗系寺院が多く、中世には当地の飯道山が修験道場として栄えました。やがて近世初期に、落武者としてここに住み着いた人々が山岳修行し仏典や加持・祈祷を学んで多賀大社や祇園神社や愛宕神社などの坊人として修験者(山伏)の資格を得たのが山伏集落の起源だとのこと。彼らは農林業に勤しむ傍ら、坊人として有力寺社から通行手形をもらって全国を加持・祈祷して歩きました。いわば布教活動です。眞岡家の先祖は紀州、土佐、備前、駿河にまで足を運んだ記録が残っているそうです。こうした山伏たちは布教と共に各地を歩いて情報の媒介もしたことでしょう。甲賀忍者というのは実はこうした情報媒介者としての山伏集団だったとも言われるそうですが、非常に説得力があります。眞岡さん宅では、山伏が祈祷の本尊として持ち歩いた厨子に入った仏像や仏画、密教法具などを拝見しました(写真上中と上右)。江戸時代後期になると、山伏たちは加持・祈祷の延長で薬も売るようになり、富山の薬売りと同じように、全国を売薬して回ったのです。これが明治になって甲賀の製薬業の起源になりました。ちなみにご説明くださった当主の眞岡さんも薬学の研究者でいらっしゃいます。閉鎖的で人々は自分たちの暮らしている地域以外のことは何も知らなかったと思われがちな江戸時代ですが、全国を渡り歩いた山伏たちの存在に照らしてみれば、意外に情報は流通し、人々は日本各地のことをよく知っていたのかもしれません。江戸時代のイメージを変えてくれる山伏たちの活動です。
もうひとつ興味深かったのは東海道五十三次の49番目の宿場、土山宿の本陣です。五十三次は土山を発つと水口、石部、草津、大津を経て京の三条大橋に達します。「本陣」というのは、各宿場で参勤交代の大名や勅使、公卿、幕吏などの貴人が宿泊した宿で、一般の旅籠と区別されていました。土山宿の本陣は土山家のご当主が継いでおられますが、民家として生活していらっしゃるので、あらかじめ予約していないと拝見できません。しかし私たちを乗せたマイクロバスの運転手さんが土山家のご親戚ということで、突然の訪問でしたが、ご当主の説明を聞きながら家の中を拝見し、貴重な文物を手にとって見ることができました。貴人用の書院造りの上段の間や蒔絵を施した重厚な襖戸や庭園などが当時のままの姿で残されており、大名などが休泊する標識として本陣の出入り口に立てられた「関札」や宿泊者の記録である「宿帳」を拝見すると、江戸時代の宿場町の賑わいや人々の息遣いまで感じられるようでした(写真下段)。
ゼミの最後に立ち寄った焼き物の町・信楽から実家の愛知県豊田市までは、信楽鉄道で貴生川へ、貴生川から草津線で柘植へ、柘植から関西線で亀山経由名古屋へと、ローカル線旅情を味わいながら帰りました。途中には、黄色と黒の縞模様の大型トンボのオニヤンマと、まだオレンジ色の薄いアキアカネが飛ぶ姿が見えました。すっかり稲穂が重くなった田には白サギや青サギやカモメに似た白くて羽に灰色の交じった鳥(アジサシ?)が群れ、まだ緑色の実を付けた栗や蜜柑の木も秋待ち顔に見えました。季節の移りゆきを感じられるのも旅の良さですね。