旧八坂
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現在普通に言われる八坂は、尻垂坂(兼六坂)を上り、旧奥村家(現国立病院)手前で右に折れるところから左に降りる。この坂、元は宝幢寺坂と呼ばれていた。しかし、現在では、八坂というのが一般的である。宝幢寺坂といっても、通じないだろう。
八坂、単に呼び名が宝幢寺坂から八坂に変わったわけではない。元々別に八坂があったという。それが、現八坂も含めて八坂と呼ぶようになり、今の八坂のみ、名前が残ったようだ。
では、旧八坂は?文献には、旧八坂町(現在は東兼六町の一部)から旧材木町2丁目(現在は扇町)に降りる坂、と記されている。
旧町名のある地図を見た場合、それはこの写真の坂となる。旧八坂町は細長く、該当する坂はこれ1本のみである。だが、ちょっと確認が必要と思い、調べてみるといまひとつ自信が持てない。
この坂、途中に橋が架かっていて、その名前は”賢坂橋”となっている。そうなると、この坂は賢坂? とつい思ってしまう。
賢坂、という名前であるが、実は兼六園から伸びる道路に賢坂辻という名前も残っていて、ここは久保市乙剣神社と椿原神社の氏子の地境である。また、丘陵地の先端でもあることから、剣先が辻と呼ばれていたそうだ。ここも一段高い場所の先端であり、同様に剣先からきているのかもしれない。
もう1点。現八坂とこの旧八坂を結ぶ道、途中で折れ曲がっていることである。現八坂から真っ直ぐに伸びているのであれば、旧八坂を含めて八坂と呼ばれた、というのは納得できるのだが、折れ曲がっているとちょっと引っかかってしまう。では、藩政時代は? と調べてみると、藩政末期の地図では、現八坂は途中で2つに分かれている。松山寺沿いの道は現八坂とほぼ同じである。もう一方は、そのまま真っ直ぐに伸び、兼六本町で東外惣構堀に沿う。もしこれが旧八坂なら、まとめて八坂と呼ばれた、というのことは納得しやすい。だが、これは小将町であり、旧八坂町は通らないようだ。
ということで、文献と地図との比較では、この坂が旧八坂だと思うのだが、今ひとつ確証はない。もし、この記載に疑問のある方は、是非ご指導をお願いしたい。
さて、旧八坂は、小立野台地の下にある、わずかな高台の端に位置する。この高台の外には、源太郎川を水源の一部とする、東外惣構堀がある。ここは一番外側の城の守りであった。この堀の内側、ここには武家屋敷のほか町人地もあるが、広い意味での城内はここから始まる。高台と水を利用する守り。非常に優れた設計であり、堅固であったことだろう。東外惣構堀、現在でもわずかな流れとして残っている。
旧八坂は、剣先の高台から降りるために坂となっている。元々高低差が大きくないため、坂も比較的短い。道幅は車が1台通れる程度の幅しかない。だが、この道の脇、東外惣構堀の近くには、大きな石垣がある。旧成瀬邸のものだという。その前には小さなお地蔵様。堀を挟んでの土蔵。どこか風情がある。現八坂を降りられた際には、是非ここまで足を伸ばして欲しい。