築基参証 再版自序

 

『築基参証』再版自序

 

 仙学は、研究する人の少ない、あまり見かけない学術であり、このために当然のことながらなおさら仙学の書籍を理解できる人は少ない。拙著 は、初版を二千部発行したが、六年経ってついに売り切れとなり、「この道は独りではない」ということを証明するに足りたと内心非常に喜んでい る。今、再版の機会を借りて、特にこの数年来先達から賜った卓見、および各地の読者に接して得た幾らかの感想を本文の前に記し、惜しみないご 教示を請う次第である。

  1. 基隆の方悟初氏は、拙著の「静坐の時の観照」の五種類の方法の中の数息法について、この方法は息を滞らせやすいと思うと意見を述べら れた。筆者は、静坐の過程全体を見渡してみて、数息法とは修行を始める段階の「便宜的な方法」に過ぎず、方便に他ならないと考えている。 この方法は、宋の蘇東坡が常用した身体の修養法で、ある時期になれば随息法に代えるのであり、修養する者が執着することがないなら、自然 と呼吸が滞るようなことはないはずである。詳しくは、『東坡志林』巻一を参照されたい。
  2. 拙著の「呼吸の種類と作用」の中で、いろいろな呼吸の組み合わせの問題に触れた。ここで大切なことは、静坐の中の過程での呼吸の説明 にあるのであって、決して頑張って真似をしていいということではなく、これは静坐をしてある程度の境地にまで進むと起こる現象なのであ る。
  3. 調息は、静坐に不可欠な方法ではあるが、しかし調息はもともと神を凝らすことを促進するためのものであり、もしも調息に執着するなら ば、それは静坐の本来の目的ではない。調息についての見解は、おおよそ二つに大別される。①小周天以前の段階から小周天の段階が終わるま で、調息を多用するもの。この見解では、明らかに著しく技巧に重きを置いている。②小周天以前の段階から小周天の段階が終わるまで、わざ とではなく自然に息が調うのを主として、幾らか必要な時だけ、少し外気を借りて気の動きの発動を促すというもの。この見解は、比較的自然 に近い。以上の二種類の調息の方法は、現在の社会環境からいうと、前者は直伝を受けなくてはならず、更に心を静める必要があるが、後者は 独習することができ、何時でも行うことができる。現代人が調息をする時には、昔と比べられないほど環境が喧しいため、心の中が静まってい るかどうか特に注意する必要がある。心が静まれば呼吸も調うのであり、心が静まっていなければ、鼻息も荒く、しばしば虚火が燃え上がると いう弊害が起こることを理解するべきである。このため、心がなかなか静まらない人は、やはり後者を用いるのが妥当である。
  4. 静坐する時どの様にして神を凝らして入静するかということは、最も重要な問題である。入静とは静坐する時だけ心を静めればよいという ことではなく、静坐以外の時でも、いつも心の内を静かにするように留意するということである。もし常に心を静かなまま維持できれば、静坐 する時も自ずと入静しやすい。心の内を静かにするよう鍛練する方法については、明の伍冲虚の著した『天仙正理』の中の「煉己直論」や『仙 仏合宗』の中の「最初還虚」、そして清の柳華陽の著した『金仙証論』の中の「煉己直論」、あるいは清の李涵虚の『三車秘旨』の中の「収心 法」、その他『太上感応篇』や『陰隲文』が参考になる。これらは、すべて心を静めようとする者が常に参考とするべきものであって、一概に 迷信と見なしてはならない。
  5. 静坐が身体の健康に対して極めて有益であるということは、筆者も知っているが、拙著にしたがって独習して、高血圧・糖尿病・後天性の 心臓病・神経衰弱・肝炎・肺結核・喘息・リューマチ・関節炎・胃や十二指腸の潰瘍・遺精・生理に関する病気・女性で輸卵管を結紮した後に 残る痛みから、病名も分からない腫瘤などに至るまで独力で治したという読者は多い。以上は、不治の病ではないとはいえ、修養を始めた数か 月の内に全快しているのであり、ますます古来伝えられてきた仙学が、速やかに研究される必要があるということは確かである。本書を読まれ て健康になった後も更にもう一歩進むことができるので、読者の皆さんは仙学を大いに宣揚されるよう努力していただきたい。
  6. 仙学の研究は、書物を細かく読み、自ら体験して努力する他に、更に優れた人の許を訪れ、詳しく話をして納得して研鑽しなくてはならな いものである。現在、国内国外で何年も修行し、深い見解を持ち、師範の資質を供えた人が各地にいるのを筆者は知っている。これについて は、李楽俅氏の著した『訪道語録』に詳しいので参照されたい。
  7. 拙著の内容は身体の内面の行法に大きく偏っているが、仙道家の中には身体の外の行を主張するものもあり、その頂点においては本来優劣 の違いはないのだが、残念なことに紙幅が限られているため概略を述べることすらできなかった。身体の内の行が、仙道で唯一の方法であると 読者に誤解されなければ幸いである。
  8. 拙著を出版して以来、生活は忙しく、あくせくと走り回るばかりで、落ち着いた時間を得るのが難しくなった。このため、この数年来しっ かり修行し、習静に専念する機会がない。いたずらに光陰を無駄にして、なんら得るところがなかったことは慙愧に耐えない。この再版の際に あたり、何等お伝えできるような得るところがなかった。ご賢察を請う。

 

中華民国61年11月9日

 許進忠 台北双園にて識す

 

 

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