築基参証 凌氏序文

 

凌氏序文

 

 築基の修行に関する専門書はほとんどなく、いろいろな書物に散見されるとはいえ、それも簡単すぎてよく分からず、また理屈や秘法ばかり唱 えてわずかに概要を述べるばかりである。
 道友の許進忠氏は、若い頃から道を好み、信仰が篤く、誠実で、真理を探求しようとして久しく、かつなみなみならぬ志を抱いている。嘆かわし いことだが、古書や煉丹術の経典の比喩は繁雑で読んでもとまどわされるばかりで、これではどうして道法を広め、後学を啓発するための霊妙なる 源泉だということができるだろう。そのため、氏は得るところがあるたびに記録して参考にしていたのだが、時が経ち原稿が増えたので、古い記録 を整理して一冊にまとめ、謙虚な態度を失わうことなく玄門の高徳の士に叱正を請うたところ、それは、簡潔にして適切、実際の情況を述べつく し、分かりにくいという欠点がないばかりか、修行するにつれその成果が現れる長所があるとなれば、同じ志を抱く者が経典を手にとって質問して まわるといったことを避けることができよう。また、誤って脇道に迷い込むといった恐れもなく、まことに玄門に対して大いに功績があるものであ る。
 これを謗るものは、占いだと考えていたり、甚だしいものは気脈の学であると誤解している。しかし、われわれが上徳を備えていない以上、どう して修行や方法なしに本源へ帰することができようか(訳者注: 『老子』38章をふまえる)。道の本体を確立させてこそ命も保つことができるのであり、無為の道に努めたところで立命の修行をおろそかにする なら、それは自他ともに失敗せざるをえない議論であり、丹道の真の姿ではない。
 例えば、「凝神聚気」「採取烹煉」「河車運転」「調神脱胎」を考えてみると、次から次へと絶え間なく修行がある。われわれはどうしても目標 である無極を推測することはできないのであり、動と静を観察してもはっきりと理解できない。ましてや、有と無は互いに生じあう対の概念であり [有無相生]、動には静、静には動が互いに付きまとうのであり[動静相随]、上と下は互いにとって代わりうる概念であり[上下相傾]、長さは 短かさがあるのでそれぞれ形を持つ[長短相形]のであり、すべて後天の陰陽によって先天の無極へと返るのである。
 『悟真篇』朱註(訳者注: 清・朱玄育撰『悟真篇闡幽』を指す)では、「外薬 後天従(よ)り先天に返し、作為を以て本源に返し、寂然の際、感じて遂に通じ、六根互用し て有為を礙げず」という。これは、静であれば神が凝り、動けば法が応じ、無にして有、有にして無であるということである。
 黄裳祖師はいう。「直に玄関を造し、真機 象を顕わせば、有も亦た先天なり。然らずして、静寂にして枯座し、一も覚する所無くんば、無為も 亦た後天なり。『易』に陰陽 是れ道の論あるも、是れ陽 道に非ず、陰 道に非ず。」ああ、道は、陰と陽、動と静の間にこそあるのである。
 理は気なくして成り立たず、気は理なくしては成り行かず、かつその動静の機微を盗み取って、真一の炁を採取して、丹の本源としなくてはなら ない。この点にこそ、築基の修行がある。
 許氏の著された『築基参証』を読めば、「補身」「換身」「出神」「合道」がますます分かる。築基の修行は、その第一歩である。

凌逸梅 54年元旦 台北にて

 

 

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