築基参証 第一篇 築基の原理
第1章 薬物
許進忠 撰述
虞陽子 査定
神坂雲太郎 訳
静座を始めて一定の期間が過ぎ、修行に習熟してくると、生理機能が次第に増して臍下丹田にある種の暖かい力が発生する。この暖かい力は普
通元気と呼ばれ、仙学家はこれを陽気と呼んでいる。
清静派の修行法では、陽気は修行者自身の臍下丹田から生じる。栽接派の修行法では、陽気は同類彼家(訳者注:
栽接派における修行上のパートナーを指す)から栽接して合成される。同様の陽気ではあるが、清浄派の陽気が多少陰柔を含み、栽接派の陽気は陽
剛に富み、両派の陽気の質は同じではあっても、その効果には違いがある。
柳華陽曰く、「仙道の元精は薬物に例えられ、薬物は金丹に例えられ、金丹は大道に例えられる。どうしてこんなにたくさん例えられるのか。
『道蔵経』(訳者注:
道教の一切経のこと)では、『精とは精妙なるものであり、真人が長生する根本である』といっている。どの聖人や真人も、薬物について明らかに
するのにこの元精を語らないものはない。そもそも、薬物が元精に根ざしているのであれば、どうしてまた元炁について言及するのであろうか。こ
の炁というものは生まれながらにして天より授かったものであり、炁穴(訳者注:
清・柳華陽著『金仙証論』の注釈では、炁穴を丹田とする)に隠れている。年頃になりその炁が動きだすと、外に向かって関を押し開けるような変
化の機会があるはずである(訳者注:
精通を指す)。この変化の機会をとらえて回光遍照(訳者注:
もと仏教語。ここでは、外に向かう心を内側へと収めて、丹田に意識を集中することを指す)し、炁穴に神を凝らすと炁はまた神にしたがって還る
だろう。それゆえに、このことを陽関を制御するとか外薬を調合するといい、調合して薬が生じ神が交わるまでになると、これを小薬、または真種
子というのである。」
また曰く、「大周天を行って初めて薬を得ることができた時には、それを大薬という。これが小周天を行って始めて薬を得ることができた時なら
ば、小薬といったり、あるいは真種子というのである。昔の人は小薬について語らなかったが、曹・伍の二真人(訳者注:
曹還陽と伍冲虚を指す)になって始めて小薬の名が出てきたのである。」
また曰く、「薬が生じるという効験は、少しの時間ぐらいでは獲得できない。最高の真理の道は、日々神を凝らし、炁穴を返照する技術に習熟す
ることにあるのであり、そうすれば、その後機緘が訪れる。一月で元関が現れたり、数か月しても丹田が何の音沙汰がなかったり遅い早いの違いは
あるが、有り難いことにその効果は顕著であったり、微妙であったりしながらも必ず訪れるのであり、薬を調合する努力を絶やさないならば、自然
と薬が産ずるという効験がある。その上、炁が満ち薬が霊妙で一たび静かな状態を保っていれば、自ずから天機が発動して、全身が溶け、綿のよう
に柔らな快楽が指から次第に体へ広がる。自然と身体は、険しい岩が高い山に聳えるようにしゃきっと伸び、おのずと心は、秋月が深く水を湛えた
川を澄ませるように虚しく静かな状態になる。毛穴から振動が起こって心身共に気持ちよく、陽物が勃起する。丹田は暖かくて気持ちよく、突然大
きな音がしたかと思うと、神と炁は磁石が互いに引き合うようになって、意と息は冬籠もりの虫が互いに身をすり合わせて眠るかのようになり、そ
の中の様子はとうていいあらわせない。歌では、こういわれている。
奇哉怪哉 元関頓変了 似婦人受胎 呼吸偶然断 心身楽容腮 神炁真渾合 万脈千竅開 |
(奇なるかな怪なるかな) (元関頓に変了す) (婦人の胎を受くるに似たり) (呼吸偶然に断ず) (心身の楽は腮を容る) (神炁真に渾合す) (万脈千竅開く) |
このとき不意に幻冥の境地に入り、すべてが一体となり、天地人そして自分について知っていることも分からなくなるものの、これは無為ではな
いと思われる。幻冥の境地では、神は自ずとその炁を捨てようとはせず、炁は自ずとその神を離れようとはせず、それぞれ自然で一体に結び付いて
いるのである。その中の造化は、伸びたり縮んだりしているようであっても、実際はその伸び縮みすることはなく、逃げたり漏らしたりしているよ
うであっても、漏れ尽きたりしていない。のどかであまねく行き渡り、その素晴らしさはいい尽くすことができない。このいわゆるの中には、無窮
の生成消滅があるのである。しばらく恍惚の境地に浸っていても、やがて意識を回復すると呼吸が始まり、元竅の炁は下から後退する。腎管の根と
毛際の間(訳者注:
柳華陽の『金仙証論』「図説第十」では、腎管の根を命門・陽関、すなわち男女泄精の処とする)では振動が快感となり、真に止めようとしても止
めることができない。」
趙離塵曰く、「築基が玄妙(訳者注:
奥深い道理、また道を指す場合もある。)を得ないと一陽は生じにくく、外薬が玄妙を得ないと小薬は生まれない。」
また曰く、「小薬が生まれるのは、活子時である。」
また曰く、「薬が産まれ神が交わると、小薬ができる。」
また曰く、「外薬を調合し、調合が動の極みまで達すると、あたかも陽関から精を漏らすかのごとくになる。順行の時には、それを採って運行さ
せる。外薬が調合されなければ小薬は生まれないのであり、薬が生じ神が交わるまで調合し、それから小薬を採る作業を行うのである。」
また曰く、「薬が生じて神が交わるが、交わらなければ当然失敗するだろう。小薬が生じる時、両眼は金光を発し、両耳は風の音を聞き、頭の後
ろでは鈴の音がして、気穴の中は湯が沸き立つかのようである。暖かい気は陽関へと流れたり、丹田へ戻ってきたり、また尾閭・小腿・太腿へ至
り、素早く走り去ってしまう。神の力でそうさ
せずに、その老若を区別して採取し、煮て煉って一周巡らせると、その後よく動き、巡るようになる。もし薬が古く気が散るならば、丹を結ぶこと
はない。薬が若くわずかな気しかなければ、やはり丹はできない。若くても古くてもよくないのであり、湯浴みのように気持ちよい暖かい風が起こ
る時、薬は若くも古くもなく、ちょうど採用や運行するのに相応しく、丹ができるのである。」
朱雲陽曰く、「坎と離が交わって薬を生み、乾と坤が交わって丹が得られる。」
李涵虚曰く、「築基を長いこと行って経験がいよいよ深くなってくれば、ある時、いつも通り静座していると丹田において突然何か嵐や雷がとど
ろくような音がして、星や稲光の光のような色がするものが現れる。これが後天中の先天の薬であり、第一車でこれを泥丸まで運ぶと始めて液とな
り、これを服用すると玉液丹頭が得られるだろう。これが薬を得て丹を結ぶ始まりである。この後の修行は途絶えることなく続けるべきであり、丹
を養成する鍵は根気よく努力することに尽きる。」
また曰く、「精を運用する修練とは、坎鉛を取り出して離汞を制することにより、己の性を煉るということである。まず、この精を煉るというこ
とが十分であれば、小薬を得て丹頭を結び、その後はずっと内息し、自然に任せて、丹田をしっかり守るのである。」
また曰く、「そもそも薬には、小薬と大薬があり、道は先天と後天に分かれている。後天とはつまり小薬を作ることであり、丹を結ぶのに用いら
れる。先天とは大薬が生じることであり、還丹に用いられる。後天とは、無形無質だが本当は有である。先天とは、有物有用だが本当は無であ
る。」
また曰く、「薬には三段階あり、初めは外薬で内薬を制し、次に内薬で外薬を修め、最終的に外薬を食べて内薬を調合する。外薬で内薬を制する
とは、築基煉己のことである。この様な外薬とは小薬を煉ることであり、煉精化気の時期のことである。」
また曰く、「元神と元炁が交わって丹の基礎を築き、小薬が生じる。」
以上、小薬に関係する各種の優れた議論に、今もう一度分析を加えると、簡単に一つにまとめることができる。ここに、小薬の特徴を述べるとお
およそ次のようになる。
修練が小薬を得るような頃になると、一種の光が臍下丹田から発生して全身へと至ることがある。これを性光という人もいるが、実際にはこれ
は陽気が発動したことによるのであり、修練上でかならず通る過程である。
普通陽気を十二時位に巡らせる以前は当然光は見えなくてもよいのであり、もし仙道修行の途中ならば、なおさら見えなくてもよい。臍下丹田に
陽気が生じてからある程度養煉すると、小薬が結ばれる。李涵虚が玉液丹頭と呼ぶこの小薬は、光を発し、その後、その光量により状態を詳しく調
べ、判断する。
小薬ができると、臍下丹田では明るく澄んだ星のように輝くが、この時驚いたり喜んだりしてはならず、気持ちを引き締めて自然であり続け、気
持ちの増長するがままではいけない。特に初めて光を見たときはなおさらこのようにしないと、おそらく薬気が熟道(陽関、谷道)(訳者注:
性器と肛門ぐらいの意)を下ってなくなってしまうだろう。
星のような光が現れた後、以前の通り修行を行うと、ある時金色の光が現れる。金色の光と銀色の光では異なる。金とは黄色であって、つまりこ
れは命光であり、銀とは白色であって性光なのである。
小周天の過程では、この二つの光の色がまったく正しい色であり、この他の各種の様々な色は、害はあっても益はなく、語る値打ちはない。