築基参証 第二篇 健身静坐法の実践
第6章 静坐時の観照

許進忠     撰述
虞陽子     査定
神坂雲太郎    訳

 

第6章 静坐時の観照

 

 静坐する時、意念を処理することは、とても重要な問題である。人の意念には、大きく分けて二種類ある。一つは、つね日頃の考えや思いで、 凡意と呼ばれたり、人意と呼ばれたりする後天的なものである。それ故、その中には多くの複雑な欲望が含まれている。もう一種は、自我という催 眠を通り過ぎて、別のもう一種類の精神の境界での活動に入った段階である。これはただ単純で、清められている真の意志であり、真意と呼ばれた り、誠意と呼ばれたりするが、これはどちらかというと先天的なものである。ゆえに、その中はただ、清められていて、なにものにも乱されること がない。意念を処理することについては、比較的簡単で具体的な方法が約五種類あり、ここで個別に説明すると以下の通りである。

  1. 内視法:
     あらゆる思考はとめられなくてはならず、どんな妄想も起こしてはならない。心の中では、まず「私は静坐しているんだ」という単純な意識 を持たねばならない。その後で、ふたたびこの単純な意識───真意を研ぎ澄ませ続けると、神が凝り固まって生じるため、それを臍下丹田の 相応しい場所へと入れる。この時、目は軽く閉じているが、その場所をじっと見つめ、あたかも見えるかのようでなくてはならず、そうするこ とによって視線や意識を一か所に集中させるのだが、それでも「忘る勿れ助く勿れ」、「存するが若く亡ぶが若し」という様に行うということ は忘れてはならない。環境、体質、年齢の違いによって、少しも集中できなくて効果がない人や、うまく集中できずに弊害が発生する人もいる が、一方で他の妄想を取り除きながら、もう一方では一つの意念を研ぎ澄ませて、新たに妄想が引き続いて生まれないようにしなくてはならな い。これは、「有欲観竅」(訳者注: この語句自体は『老子』第一章「常有欲,以觀其徼。」に基づくが、ここではもう少し内丹的な解釈に沿っていると思われる)の表面的な解釈の一つと見なすこ ともできるだろう。その意味は、妄想が起こる時には、身体上の竅(臍下丹田は身体で最も重要な竅である)を真意で観照(内側を見つめる) するなら、こういった妄想はあっという間に消し清めることができるということである。
     臍下丹田の位置は、おなかの臍の下一寸から三寸のところ(大体指を三、四本合わせたぐらいの幅)にある。しかし、内側を見つめる時に は、臍の下付近の適当な場所に真意を込めるだけでよいのであり、その場所にこだわる必要はない。この様にしてしばらく内側を見つめると、 見つめることを必要とした場所はだんだんはっきりとしてきて、それら妄想もゆっくりと消えてきれいになってしまう。この時、体の中の状況 はとても清らかに感じるようになって、他の妄想や雑念はなくなって、そうなって純粋に臍下丹田へと真意をかけることができるのである。こ ういった境地に達することができると、内側を見つめることの効果があったという証しになるのである。
     純粋に臍下丹田に真意をかけられるようになった後は、次第に身体の中の様子は極めて恍惚として愉快になり、心の中には微塵もかげりがな くなる。こういった境地も、やはり「無欲」の最初の段階と見なすことができる。「無欲」の境地に達することができると、必ずしも最初に 「有欲」の起きた時とは違って、真意を凝らし、つぶさに目を使って内面を見つめて、この「無欲」の境地に従いさえすれば、あとはその状態 が発展するがままに任せておけばよいのである。それゆえ、仙道の経典で、「知れども守らず」、「先に存れども後に亡ろぶ」というのであ る。
     この様に放っておくと、表面上は真意すらなくなってしまったようになり、身体も一見なくなってしまったかのようになる。この作用を、仙 道経典では「無欲観妙」(訳者注: ここも語句自体は『老子』第一章「故常無欲,以觀其妙。」に基づく)という。
     「無欲」の境地は、極めてゆったりしていて、愉快なものである。この時受ける感覚は、すべてがあたかも止まってしまったかのようで、完 全に他人や我を感じることがなく、清らかで静かな素晴らしい境地である。この様な素晴らしい境地を保つことを、仙道経典では「守城」とい う。しかし、再びしばらくするとこういった奥深い無念からなる無欲という境地はおのずと消えていき、代わって妄想や雑念が沸き起こり、ま ただんだん増えてくるのである。
     妄想が起こる時とは、すなわち「有欲」の時であり、以前の「有欲」で行ったように修行もしなくてはならないが、こういった雑念を払う過 程は、仙道経典では、「野戦」と譬えられている。しばらく経つと、元通り「無欲」の境地が改めて訪れるようになる。
     観照の過程とは、続けて現れる「有欲」と「無欲」がやってきては去っていくことで互いに交替しあうのであり、清浄の度合いも続けて現れ る「有欲」と「無欲」が往来して一段ずつ深まっていくのである。
     
  2. 返聴法:
    坐る時には、あらゆることを止めるために、自ら努力しななくてはならない。昔のことを思い出さず、未来のことを思い描かないのである。心 の中は、一つの思い、すなわち「私は静坐している」ということだけでなくてはならない。この様に心の内側をいったん静めた後、意識を凝ら して、臍下丹田の適当な場所に入れなくてはならない。この時は、耳の働きを内側へと向けて、外界の物音を聞かないようにして、一心に臍下 丹田の中へ集中させることが必要である。このやり方は、前に少し触れた「有欲観竅」と同じである。
     人間の聴覚は非常に微妙で、いつも外界で起こった一切の音を聞いている。音に含まれる意味は、すべて分析されうるのが普通である。特に 静坐をする時、音に邪魔されるのは、妄想の処理がやはり難しいということと較べられよう。耳が音をとらえ、それを聞き分けると、ものを識 別する意識が同時に生まれるのであり、この識別するという意識が生まれた結果、人の妄想はいよいよ複雑になるのである。
     妄想を生じないようにする方法とは、耳の生理的な働きを内側へ向けるということであり、外界へ触れないようにするのではなく、直接臍下 丹田の場所に耳を傾けるということなのである。
     もしも真意を臍下丹田にじっと集中させることができないうちは、耳もまだこの場所に対して傾けられていないということである。同様に、 もしもこの臍下丹田の場所へ耳を傾けることができないうちは、真意もまだこの臍下丹田の場所へ凝らすことができていないということであ る。この程度までできるようになると、妄想を制御できるようになり、真意の働きが現れてくる。臍下丹田に耳を澄まして十分な時間が経つ と、耳を傾けたこの場所は次第にはっきりしてくる。このとき妄想は次第に消えていき、次第に清らかになっていく。この時の体内の状況はと ても晴れやかに感じられ、みじんも妄想を抱くことはない。そうであってこそ、真意がしっかりこの臍下丹田の場所を守ることが可能なのであ る。こういった境地に達することができて、内側に耳を傾けるという修行の成果があったという証しになる。
     真意を純粋に安定して臍下丹田にかけられるようになった後は、次第に身体の中の様子は、極めて恍惚として愉快に感じられるようになり、 心の内にはどんなかげりもない。こういう境地も、やはり「無欲」の最初の段階であると考えられる。
     「無欲」の境地に達することができると、必ずしも最初に「有欲」の起きた時とは違って、真意を凝らし、つぶさに耳を使って内面を聞こう として、この「無欲」の境地に従いさえすれば、あとはその状態が発展するがままに任せてよい。それゆえ、仙道の経典で、「知れども守らざ る是れ功夫なり」というのである。
     この様に放っておいた結果、一見真意をなくしてしまったようで、身体も存在しないかのようになる。この作用が、前で述べた「無欲観妙」 なのである。
     「無欲」の境地は、極めてゆったりしていて、愉快なものである。この時身体に受ける感覚は、まるで突然ものごとが止まってしまったかの ようで、完全に他人や我を感じることがなく、清らかで静かな素晴らしい境地である。しかし、再びしばらくするとこういった奥深い無念から なる無欲という境地は、おのずと消えていき、代わって妄想や雑念が沸き起こり、次第にまた増えてくる。妄想が増えてくる時とは、すなわち 「有欲」の時であり、修行は以前の「有欲」で行ったやり方に習わなくてはならず、これを「野戦」という。しばらく後の「無欲」の時にはそ れが再び元通りに訪れ、やり方はやはり前の「無欲」の時の様子と同じで、贅言を要さない。
     
  3. 観息法:
    静坐を始めるときは、一切のものごとをおいておかなくてはならない。だが、ものを考えることが止まらず、妄想が沸く時には、正念でそれを 晴らさなくてはならない。妄想は静坐を妨げるものであり、それを取り除かずに静坐を行うことはできないということははっきり理解する必要 がある。
     いったん自らやろうという気を起こすことができると、内に誠意が生まれる。この様な誠意があって、初めてそれを有効に使うことができる のである。この時、意識を散漫にせずに、鼻の穴から出入りする呼吸を観想しなくてはならない。
     人の注意力というものは、対象の違いによって常に差がある。一般に、動くものだとどちらかといえば人の注意を引くが、静かなものはどち らかといえば人の注意は引きにくい。呼吸の出入りは一種動的な現象なので、もし注意しなくてはならないなら、比較的容易であるというのは 自然なことである。精神を集中して、単一の現象に注意することができると、人の意念はとても容易に単純になってしまう。だから、そこでよ うやく真意は、心理の生理への影響という働きを生じさせることができるのである。
     呼吸の出入りを観想(注意)して十分な時間が経つと、妄想はだんだん減少し、まったく起こらない程度まで到達する。
     静坐して、妄想をなくすことができるようになると、この時真意をしっかり凝らすことができる。真意を凝らすことができるようになると、 真意を臍下丹田の中へかけて、前に記した内視法、あるいは返聴法で行うやり方に従わなくてはならない。この観息法はけっして「心息相依 法」ではないとかんがえられる。「心息相依」は正しい修行法であるが、これは妄想を取り除くための便宜的な方法である。
     
  4. 数息法:
    息を一度吸って一度吐くのを、一息という。静坐している時には、一息から五息か十息まで自分で誠意を保って、この五息あるいは十息の間、 その他の妄想を起こしてはならない。もし五息や十息以内に妄想が襲いかかってくるなら、すでに数えた呼吸は放棄して、もう一度最初から別 に数え始め、妄想が混入してこないように保ちつつ、最後まで息を数えつづけなくてはならない。
     もし十息を数え終わることができたら、ゆっくりと数える息を増やさねばならず、五十か百息まで増やすことができる。
     息を数えることによる作用とは、妄想を取り除いて、心を落ち着かせることである。息を数える時、もし数えているうちに気持ちが安らい で、まったく妄想がなくなり、呼吸がとても微かになれば、息を数えるのをやめてもよい。これは、意識がすでに澄み渡り、真意を生じさせら れたということである。これぐらいまでになると、もう息を数えることには習熟したということのであり、さらに内視法や返聴法にしたがって 修行する必要がある。
     
  5. 吐納法:
    静坐する以前に、まず一度腹式の深呼吸をしなくてはならない。腹式深呼吸の方法は次の通りである。
     最初床の上に横になって、両足を延ばして、臍の下あたりで両手をつないで、それから鼻から息を吸う。息を吸う時は、空気をゆっくりと少 しずつ吸い込み、同時に腹部も少しずつ膨らませなくてはならない。息を吐く時は、口から息を吐く。吸い込んだ空気を少しずつゆっくりと掃 き出していくのと同時に、腹部も少しずつ収縮させなくてはならないが、必要ならば両手で臍の下を押さえて、腹部を収縮させるのを助けても よい。
     この腹式の深呼吸で呼吸する時には、必ず少しずつ、ゆっくりと腹部を膨らませたり縮ませなくてはならない。少しずつというのは、無理に 行うのではないということであり、無理にすると内臓を傷つけるだろうし、少しずつという程度は、日を追ってだんだんと深く長くしなくては ならないということである。こうしないと、内臓を十分運動させられないし、生理機能も旺盛にならず、吐納法の効果も最大に発揮され得な い。
     息を一度吸って一度吐くのを一息という。この腹式深呼吸をするのは、二十回で十分だろう。この二十回の深呼吸をし終わった後は、続いて 静坐をしなくてはならない。この時の静坐では必ずや臍の下あたりまで感覚が及び、今しがたした腹式深呼吸との関係で、膨らんだりへこんだ りといった動きは休むことなく緊縮を続け、呼吸も自然と一息ごとに根へ帰するのである(臍下丹田は体の根である)。
     臍の下で膨らんだり縮んだりという動作をすると、注意を引くので集中しやすい。臍下丹田へ注意が向くようになると、これは吐納法の効果 があったという証明になる。この時は、自然に任せて息を臍の下にとどめ、意識も臍の下へと凝らさねばならないが、呼吸と誠意を臍の下に帰 すことができさえしたら、その後は内視法や返聴法にしたがって行を進めなくてはならない。
     以上わずかに横になって行う吐納法の一種について記したが、その他にも二種類、坐って行うもの、立って行うものとがある。形式は違って いても大体似た作用があるので、拘泥せず、やりやすいものを選べばよい。
     
  6. 以上、合計五種類のやり方を挙げた。この中の内視法と返聴法は、仙道をする者にとっては伝統的な方法に属するが、その長所は、簡単に できて、利き目が早く、比較的ものごとを達観し世俗を越えた人にあっている点にある。その他の気持ちが乱れている人にとっては、効果を現 すのは比較的難しいかもしれない。
     
  7. 観息法、数息法、吐納法といったこれらの方法はすべて便宜的なやり方であって、それぞれの人の違いにあっていることが大切であり、ど ちらかといえば拙い方法であるとはいえ具体的で確実である。こうした便宜的な方法は、内視法や返聴法までの過渡的な方法であるということ ができ、内視法や返聴法に習熟して成果が出せさえすれば、その後はうち捨てて使わなくても構わない。
     
  8. 観照は静坐においてとても重要な作業であり、陽気が増してくるにしたがって重大な関係を持つようになるが、これは非常に抽象的なの で、簡単に説明できない。修行したいと願うものは、十分研鑽して、その中にある道理を把握しなければ、静坐するにあたって進歩はおぼつか ない。

 静かにしていても妄想が起きる都度、何度も妄想を取り除き続けるわけだが、なくなってもまたやってくる現状に対し、「決して煩悩を起こし てはならないのだ、妄想を除くのだ」という気持ちもやはり妄想であるということを知るべきである。もしそれでも煩悩を抱くならば、それは妄の 中のまた妄ではなかろうか。この考えが何処より起これるか目を凝らし、この考えがどうして起こるのか一心に照らしださねばならない。そうして 絶えず観照すること久しければ、他も我もない境地に達するであろう。これこそ、野戦の最上の秘訣である。

 

次のページへ

築基参証の目次へ
仙学研究舎のホームページへ