東海北陸私鉄探訪 〜 part-2 2004夏 〜
倶利伽羅峠
高岡 13:02-(436M)-13:22 倶利伽羅 15:17-(442M)-15:35 金沢
特急電車は倶利伽羅トンネルを抜け石川県へ (石動-倶利伽羅) [Nikon D100, AF Nikkor 50mm F1.4D] |
国鉄色をふくむ485系の牙城だった北陸本線でも、ここ数年で急激に車両が世代交代しており、すれ違う特急は白いボディばかりになっていた。485系も〔雷鳥〕は金沢どまりにされ、倶利伽羅(くりから)峠越えをする国鉄色電車は定期ではもう〔能登〕しかない。
それでも特急の数はやたら多いから、1時間も待たずして〔サンダーバード〕〔しらさぎ〕〔はくたか〕をほぼ確実にとらえることができ、たまに〔北越〕、貨物列車と〔トワイライト〕もやってくる名撮影地のひとつの最寄り駅を、途中下車に選んだ。
出入口の狭いもと寝台電車にもぐりこんで出発。高岡出発時点では立客もあったが次第に降りてゆき、県境でもある峠の手前・石動(いするぎ)でだいぶ空いた。人家もぐんと減り、モーター音をうならせて勾配を上る車内では、こういったシチュエーションでよく行われる車内改札。長いトンネルを抜けると一転して足取りも軽く、倶利伽羅駅に到着。
一陣の風とともに特急が通過 | 475系グループ 今や急行形としても貴重 |
その名の響きと知っている写真からしっとりとした深山の谷間を想ったのだが、どちらかというと麓の雰囲気だった。源平古戦場で、源氏勢が牛の角に松明をくくりつけて放ち、夜襲をかけた「火牛の計」が残る舞台である。近くの国道バイパスからエンジンを吹かすトラックとタイヤの乾いた音はするけれど、列車の来ない時間は日本海側の動脈と思えないほどの静かな駅だ。
峠まで歩いて30分。やってくる特急は681・683系ばかり。一方普通列車は475系など国鉄形で占められていて、それはそれで貴重だ。北陸新幹線はこの近くを走るようだが、若干北側を長いトンネルで抜けていっている。
特急が一通り回ってきたのでまた30分かけて駅に戻り、金沢へ。車掌がまわってきて、無人駅から乗ったから「乗車券を拝見……」と思いきや、
「(金沢支社限定)オレンジカードはいかがですか?」
んー、それはちょっと見るべきところが違うんじゃないかな……。
さておき電車は森本から新線区間の東金沢を経て、北陸新幹線となる高架を横目に金沢に到着。経路の変更はこの新幹線に路盤を譲るためだった。これで記録回復。
再生 - えちぜん鉄道 -
金沢 16:02-(4036M:サンダーバード36号)-16:43 福井 16:57-17:45 三国港 =(京福バス)= 東尋坊 =(京福バス)= あわら湯のまち 19:36-20:05 田原町 20:07-20:15 福井駅前
愛知環状から来た単行電車 (三国港) | 終点・三国港 隣に漁港 |
福井には2つの私鉄がある。県都福井から漁港の三国港(みくにみなと)、禅寺の永平寺、そして勝山(かつやま)への3路線を伸ばしていたのが京福電気鉄道(福井支社)。しかし2000年にブレーキの故障が原因で列車暴走・正面衝突事故を起こし、さらに翌年にも正面衝突事故を起こして北陸運輸局から運行停止命令を受け、以後電車が走ることはなかった。もともと路線の縮小がささやかれていた路線が全線廃止の危機にも立たされたのだが、2002年に第三セクターのえちぜん鉄道が設立され、2路線を存続して2003年にようやく営業を再開した。
高架化工事中のJR福井駅、東口から出てすぐ脇のえちぜん福井駅で、土休日限定の一日乗車券(¥800)を購入、三国芦原線に乗る。再開時に運賃は値下げしているのだが、それでも終点・三国港まで行くだけでも¥750だからかなりの安値だ。昼間のアテンダント乗務時には車内でも買える。ホームに停車中の単行電車は愛知環状鉄道で走っていたものだった。
市街地を抜けて九頭竜川を渡ると視界が一気に開けた。両側には水田。あわら市まで約1km東の北陸本線ともども、まっすぐに北上していく。あまりにもまっすぐで変わりばえのない風景なものだから、つい寝てしまう。
あわら湯のまちからは一転、西へ。東方の金津(現芦原温泉)から国鉄三国線が延びていた。三国から一駅すすみ終点・三国港。九頭竜川の河口に位置する漁港のすぐ隣で、戦前は国鉄線の駅だったらしい。昔は鮮魚輸送をしていたのだろうか。
ここまで来ておいて東尋坊(とうじんぼう)まで行かない手はないだろう。ちょうど夕暮れ時だし。というよりも、その時間帯を狙って来たのだ。タクシーでもいいんだろうけど……と近くのバス停に行くと、ちょうどまもなく来るところだった。
福井 7:05-8:02 勝山 8:34-9:22 福井
恐竜の里・勝山 |
翌日、こんどは勝山永平寺線で勝山へ行く。また一日券を買って乗り込んだ。
永平寺口(当時は東古口)から、京福時代は永平寺線が分岐していた。もともと前出の金津から伸びていた旧永平寺鉄道の一部で、転換以前より一部列車をバスで代行していたこともあり、えちぜんには引き継がれなかった。構内のはずれ、旧車両が留置されている先に路盤の跡だけが山奥へ伸びている。
三国芦原線沿線よりは長く続いた家並みも途切れ、また水田が広がってきた。ひと畝ごとに段差があり、しだいに上っていることがわかる。線路両側が九頭竜川と山地にはさまれてくると次第に駅勢圏も小さくなり、小舟渡(こぶなと)・保田(ほた)・比島(ひじま)付近は人家も少ない。電車も小舟渡停車と保田・比島停車が交互運転になっている。