風追想

宇田郷 (山口県阿武町)

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西山陰を細々とたどり〔いそかぜ〕は益田へ(宇田郷-須佐 2004.12)
[Nikon D100, AF Nikkor 50mm F1.4D, ISO200]

益田〜長門市間は山陰本線でもっとも遅く開業した区間である。付近に大都市はなく、山間が日本海のすぐ近くまでせり出す地形からもわかるように人口は希薄で、列車密度は最も低い。

そこに、大阪に住んでいる人にもあまり知られていない特急が細々と走っていた。

〔いそかぜ〕(益田〜小倉:2005年3月改正で廃止)。

元をたどれば〔まつかぜ〕の一部区間で、1986年に1・4号を米子で系統分割して西区間(米子〜博多)の列車にこの名がついた。約440kmを6時間弱かけて走っていたから、分割されてもなお長距離ランナーであった。以来ずっと国鉄色の181系気動車による1往復で、運転時間帯もほとんど変わっていない。しかし区間は1993年〔にちりん〕の増発に押されて小倉〜博多間が切り詰められ、さらに2001年の187系投入では対象から外れたばかりか益田以東を〔スーパーくにびき〕に譲り、最終期の走行距離は174.6kmとミニ特急クラスに縮小。車両もわずか所要2編成の1運用と、ますます存在感が薄れていた。列車も路線も見放されたという穿った見方もできなくはないが、そのために「最後の国鉄色DC特急」として注目を集めることになったというのも皮肉な話だ。

最初に、というか前回(1996年)だが、山陰本線を乗りとおしたときの後半(松江→小倉)はこの〔いそかぜ〕だった。年末だけどこのルートなら座れないほどではないだろうと思い、事実その通りだった。「その程度」であることも考えてみれば哀しいことだが、それよりトイレが「停車中は使用しないでください」だったことは今でも忘れられない。


出雲市 6:46-(1001D:スーパーおき1号)-8:39 益田 9:50-(1569D)-10:30 宇田郷
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夜明け前、ふたたびの187系〔スーパーおき1号〕で出発。年末最繁期の新幹線連絡のためか2編成併結の4両で、やっぱりトンネルごとに窓ガラスをゆがませながら、明けゆく日本海を右に見て軽快な走りが続く。

小都市にこまめに停車して客を拾い集めるうち、屋根の瓦が赤くなった。益田(514.5km)までくると、さすがに遠くまで来たなと思う。山口線に入る列車を見送って、特にすることもなく1時間あまりを消費し、キハ47 2両の普通列車へ乗り込んだ。

ここから先は山がいよいよ近い。須佐(すさ)を出てひととき山中を走り、また海辺に戻った宇田郷(うたごう)(549.2km)で下車。タクシーなど期待できる場所ではない。今しがた通ったところを歩いて30分、惣郷(そうごう)川の河口にかかる名所の橋へ。橋脚を波が洗う、山陰本線でもっとも海に近いところだ。空はうす曇。晴天でも荒天でもないというのはなんとも表現しづらいところで。


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来た道を引き返して駅に戻った。次の列車まで1時間。さらに2ヶ月に一度、線路保守のため昼間の列車が運休となる。本線を名乗ってはいるが、実態はそのへんのローカル線となんら変わりはない。特急が走っているということが逆に特異なくらいだが、そんな状態もうじき終わる。ただ、ほとんどの駅に交換設備があり、いまでも多くの駅で列車交換ができることが、らしいといえばそうかもしれない。

この駅にも交換設備はあるが、とっくにCTC化されて駅に人はいない。窓口に板を打ち付けた駅本屋は地方で嫌というほど見るさびしい光景だが、地元の方の手入れがあるのか、荒れていないのが救いである。駅付近には食堂はもちろんのこと雑貨屋も、自動販売機さえもない。道路(国道191号線)一本隔てて反対には日本海が広がり、波の音だけががらんとした駅本屋に訪れていた。


宇田郷 13:47-(1575D)-14:15 東萩 15:44-(29D:いそかぜ)-17:44 小倉
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雨粒が落ちてきた。下り〔いそかぜ〕は撮るか乗るか迷ったが、入ってきたのは列車はキハ120の単行だった。乗り続ける気がしなくなって東萩(ひがしはぎ)で下車。

「〔いそかぜ〕の指定席ください」

「ここなら指定じゃなくてもいいと思うんですけど…」

「んー、でもいいです」

「いそかぜ」と名のついた証が欲しかった。


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東萩駅に到着する〔いそかぜ〕(2004.12)
[Nikon D100, AF-S Nikkor ED 80-200mm F2.8D, ISO200]

確かに自由席も座れなくはなかったが、指定席にもそれなりに乗っている。進行右側で窓の後列であった。右手に日本海を眺め、187系とまるきり違うゆったりとした旅路をしばらく味わうことにする。

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181系気動車の登場は1968年。中間車屋上の放熱器や、丸みを残しつつ要所を「角」でかこった先頭部が勇ましい。大出力エンジン(当時500PSというのは「大」といってよかった)は、東京・大阪から地方の亜幹線へ乗り入れるのに、幹線での高速走行をまかなうためであった。〔しなの〕〔つばさ〕から投入されて性能を発揮するものの、電化が進むたびに特急電車に追われることとなる。それから四国と山陰に集まって生きながらえたが、とくにJR化後は目覚しい進化を遂げた新型振子DCを前にしてはなす術もなく、勢力図は一気に縮小した。最後の華といえるのは智頭急行経由〔はくと〕への投入だった(1994-1997年)。いよいよ最後となる〔はまかぜ〕にグリーン車の残るところが、「国鉄特急型」の威厳を保っているといえよう。

室内は国鉄車両の標準的なそれで、特急電車と違いカーテンもなく2列で一枚のブラインドと、いっそう質素に見せる。こういうところ、国鉄では気動車を長い間電車より格下に扱ってきた節がある。

日没の近い小串(こぐし)付近で海と別れると下関の近郊区間となり、列車本数は格段に増える。山陰本線内で最後の停車駅となる川棚温泉(かわたなおんせん)に停車。交換設備を撤去した無人駅で、使われないホームには花壇が造られていた。近くの小学校生徒が手入れしているようで、春になれば彩を添えるだろう。〔いそかぜ〕はもうそこにはいないけれど。

山陽本線に合流する幡生を通過し、下関で一息入れた列車は関門トンネルへ。このトンネルはなんだか長くなったり短くなったりする不思議な区間で、なかなか終わらなかったり、かと思えばいつの間にか通過していたり。きょうは……すこし長かったような気がする。ディーゼルなので門司構内の交直セクションは関係なく通過、そのまま門司駅も停まらずに過ぎた。〔いそかぜ〕は関門間最後の昼行特急であり、門司駅に停車しない最後の旅客列車だった。

ある程度予想していたことではあるが、改正号の山陰本線を見て「やはり……」と思った。〔いそかぜ〕の後を受け継ぐ列車はなく、まるでそんな列車などはじめから存在していないような風体だからだ。予想していたというのは、かつて急行〔さんべ〕がそうして消されてしまったからだ。ここに残るネームドトレインは、臨時の〔萩・津和野号〕だけになる。


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そしてこの「風」も消えてしまった (下関 2005.1)
[Nikon D100, AF-S Nikkor ED 80-200mm F2.8D, ISO200]