歴史年表
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「まなべ」に関連する歴史年表を、次の凡例に従いリストアップします。
<凡例:西暦,和歴,場所,出来事,「出典」>
少しづつ手元の資料を整理していきますので、気長にお待ちください。
807, 大同2, 宇摩郡新宮村, 鍋三統{田鍋(田邊)・真鍋・三鍋}が熊野神社を紀伊國新宮より勧請, 「新宮村誌」
1156, 保元1, (保元の乱)
1184, 寿永3(元暦1), 一ノ谷, 源平合戦 備中まなべ四郎・五郎, 「平家物語」
1407, 応永14,長門國, 一宮領吉母公文真鍋藤五, 「住吉神社資料」
1453, 享徳2, 真鍋島, 真鍋貞友が真鍋継図作成, 「真鍋先祖継図」
1480, 文明12, 多度津青木, 真鍋佐右衛門尉没年墓銘, 「四箇村史」
1556, 弘治2, 新居浜, 真鍋近江守孝綱没
1575, 天正3, 土居町, 北野庄屋の先祖真鍋右衛門喜寿が土佐より来た, 「土居町誌」
1577, 天正5, 伊予三島, 松尾城主真鍋大炊介通周と轟城主大西備中守元武が戦闘, 「伊予三島市史」
1581, 天正9, 高松, 向城主真鍋弥助祐重が長宗我部軍と戦う, 「日本城郭大系 第15巻 香川・徳島・高知」
1605頃 真鍋島, 藤大納言信成の末孫真鍋右衛門大夫(没?), 「備中真鍋島の史料」
1615頃 真鍋島, 右衛門大夫の子息真鍋藤兵衛岩坪に住居, 「備中真鍋島の史料」
1625頃 真鍋島, 藤兵衛 肥後へ, 「備中真鍋島の史料」
1635頃 真鍋島, 村上八郎左衛門の三男肥後より来る。, 「備中真鍋島の史料」
1677, 延宝5, 仁尾町, 真鍋弥太夫墓, 「新修 仁尾町誌」
1685, 貞享2, 真鍋島, 真鍋嶋庄屋傳右衛門文書作成, 「備中真鍋島の史料」
1858, 安政5, 多度津青木, 真鍋左衛門尉孫, 「四箇村史」
1453年に真鍋貞友が書いた(真鍋島の)真鍋先祖継図によれば、真鍋先祖(姓名は書かれていない)が白河院より五代の頃(あるいは保元の乱直後?)に『当島』にやってきた。しかし平家物語によれば、そのわずか30年後には備中國のまなべ四郎五郎が登場している。
平家物語では「備中國の住人眞名辺四郎五郎」となっていてその下の本名がわからないが、源平盛衰記では「讃岐國住人眞鍋五郎助光」となっており(四郎の本名はわからないが)五郎の本名は助光である。この兄弟は「真鍋先祖継図」の中のだれかに相当するのだろうか。そしてそれは源平合戦の年代と合うのだろうか?
「真鍋先祖継図」では、非違(=検非違使)の子が三人(嫡子日方間大夫馬資、二男福原新大夫、三男サウツノ七郎)いて、その先の系図は縦に読めばいいのか横に読めばいいのかすらわからないが、取り敢えず横に読むと、その嫡子重貞(平三殿)、二男信貞、三男資光(五郎殿)となっており、この三男が五郎助光(=資光)であろうか?そうならば平家物語や源平盛衰記に登場してくる四郎とは二男信貞か?
この仮定が仮に正しいとして、おそらく1156年の保元の乱直後に、非違が真鍋島にやって来て島で子供が三人生まれたとして、嫡子日方間大夫馬資が生まれるのが1157年、(平安時代のことはわからないが、江戸時代と同じく15歳ぐらいで成人=元服するとして)15歳になるのは1172年、元服即結婚したとしてその嫡子重貞が生まれるのが1173年、その後年子で二男・三男が毎年続けて生まれたとしても五郎資光が生まれるのは1175年、五郎が元服するのが1190年、源平一ノ谷の合戦(1184年)の時点では五郎はわずか9歳である。非違の嫡子は真鍋島へ来る数年前に既に生まれていて、親の赴任に従って移住してきたのか、あるいは非違が島へ来たのは保元の乱後ではなく、「白河院より五代」の近衛天皇の御代(1150年頃)なら、辻褄は合う。
真鍋氏はいつから真鍋姓を名乗るようになったのだろうか。もっと古くから真鍋氏が真鍋島に住み着いていたのではなかろうか。上記の新宮村の記述が正しければ、保元の乱より350年も前に真鍋氏は世の中にいたことになる。一方真鍋島史料によれば、真鍋島は古くは寄島であったが、真鍋氏が住み着いてから真鍋島となったとのこと。この島はいつ頃から真鍋島と呼ばれるようになったのだろうか。
島に流されてきた人、あるいはその護送と配流先での監視警固のために同行して住み着いた役人(検非違使)が絶大な権力を持っていたため、先住の真鍋氏が姻戚関係を結んだ、ということはなかろうか。貞友の書いた継図には、(検非違使の)子が3人いたことは書かれているが、検非違使の名前は書かれていない。貞友が「真鍋先祖継図」を書くに当たって、都から来た人の血を引くことは書きたかったが、真鍋姓でない者の名前を書く必要はなかった、といえないだろうか。あるいは寄島に「まなべ(真魚部、真南辺など)」の別呼称が既にあって、検非違使はその名をとったのか?あるいは検非違使は最初から真鍋氏であり、真鍋先祖継図にわざわざ真鍋と断る必要がなかったとも考えられなくはないが、それなら下の名は書かれていてもいいはずである。
(→次ページも参照)