事典類の記述

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◇◇「新編姓氏家系辞書」太田亮著 丹羽基二編(秋田書店)より◇◇

 眼部(マナベ)宿禰 【出自未詳】
  次の氏は此の後裔。

  【】 眼部、眞名邊、眞名部、眞部、眞邊、眞鍋、間鍋、間部等は互いに通用することがある。橘姓の眞鍋氏は、備中國小田郡眞鍋島より起こる。平家物語に「備中國の住人眞名邊四郎」とあり、源平盛衰記に「讃岐國住人眞鍋五郎助光」とある。和泉國日根郡の眞鍋氏も著名。なおマナコはマ(目)ノ(助辭)コ(子)からおこったもので、眼部とは目に關係のある仕事をしていた部氏か。


 間部(マナベ)氏 【稱藤原氏族】

  藤原山蔭曾孫季隨より出る。其の男滿任が、鹽川氏を稱する。其の十三世孫滿永は尊氏に屬し、其の九世信氏は三河に到り松平清康に仕える。其の子信行、其の孤子詮光は、間鍋主馬兵衞に養われ、その氏を冒す。後に星野、西田等を稱したが、詮房に至り間鍋に復し、間部に改める。「詮光−詮則−詮吉−詮清−清貞−詮房(老中、越後村上五萬石)−詮言−詮方−詮央−詮茂−詮熈−詮充−詮勝−詮實−詮道−詮信(越前鯖江五萬石)」、元子爵。家紋丸に横三引、三銀杏。


 眞鍋(マナベ)氏 【稱藤原氏】

  前條氏に同じか。


◇◇「姓氏苗字事典」丸山浩一著(金園社)より◇◇

  真 鍋 まなべ
  近江国真鍋から備後(ママ)国真鍋島に移住した鎌倉期以来の豪族で、伊予・讃岐・阿波にも広まる。出自は橘姓あるいは藤原姓ともいうが定かでない。家紋鷹の羽・茗荷。文献「真鍋氏系図考」真鍋藤治、「三島真鍋家について」真鍋敏太郎、「真鍋氏同族会」真鍋重治。


◇◇「全国名字辞典」森岡 浩著(東京堂出版)より◇◇

  真 鍋 まなべ
  戦国時代の紀伊の土豪に真鍋氏がいる。天正13年(1585)豊臣秀吉が根来衆と戦った時に、秀吉に与している。のち蜂須賀氏に仕えた。讃岐の戦国大名香西氏の家臣に真鍋氏の名が見える。向城(高松市)に拠っていた。現在は北四国に多い姓。香川県では仲多度郡以西に分布し、特に詫間町・満濃町・仁尾町などに多い。
    (香川県の多い姓15位)

  間 鍋 まなべ
   越前鯖江藩主の間鍋氏は藤原北家山陰流。詮房は徳川家宣に仕えて、若年寄、老中を歴任し、上野高崎藩主となって、諸侯に列した。その後、越後村上を経て、享保14年(1720)宣言の時越前鯖江に移る。明治17年子爵となる。


◇◇「日本姓氏事典」丹羽基二著(新人物往来社)より◇◇

  真 鍋 まなべ
  備中の氏は橘姓。藤原姓は讃岐。和泉の氏は豪族などにみられる。ほかに伊予、摂津、武蔵などに。


◇◇「苗字・名前・家紋の基礎知識」渡辺三男著(新人物往来社)より◇◇

  真鍋(真名部・真部) まなべ
  備中小田郡真鍋に起こるものは橘氏。讃岐の真鍋氏も同じ。和泉日根郡にも名族がある。


◇◇「知ってなるほど 苗字の謎」丹羽基二著(小学館)より◇◇

  曲直部さん まなべ/間部・眼部・真名部・真部・真辺などとも
 曲直部(まなべ)には「曲がったことを直す人」という意味がある。
 とすると、この苗字の人はかっての刑部(ぎょうぶ)省の役人か弾正台(だんじょうだい)の司直の後裔かとも思う。ながい歴史のなかには、そういう役職の人もあったかもしれない。しかし、曲直とは文字を変えたまでで間部のほうが正字だ。また、この間部のほうが、実は多く、社会的にも広まっている。 祖は藤原北家の山蔭流の名族だ。足利時代には尊氏に仕え、江戸時代は、徳川氏に仕えた。間部詮房(あきふさ)は六代将軍家宣のとき老中格にもなった。その間、真鍋や間鍋などの文字も使っている。
 それなら間部とは何か。
 これは、眼部・真名部・真部・真辺などとも書くが、みな当て字で、もとは地形語である。意味は、小地域、または小空閑地ぐらいのところを指す。鍋などの文字を当てると、漢字に迷わされてしまう。





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