和泉の眞鍋氏
   −−− 本氏馬場真鍋家資料(真鍋敏昭)より −−−

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真鍋五郎右衛門(藤氏)−五郎右衛門−五郎右衛門−高閑−内蔵助貞行−+

+−主馬兵衛貞友−五郎右衛門貞成−貞雄−貞留−−−−−




淡輪の山に真鍋先祖の墓あり(貞成が作る)。
貞成の墓は鈴丸町龍源寺にある。 家紋は上り藤。
真鍋城の跡地は泉大津市にあり。その一角に南溟寺(なんめいじ)あり。

信長記」によると、主馬兵衛尉は、敵が中国より兵糧を大坂へいれるのを防ぐために戦っている。「信長記」の諸本によっては、主馬兵衛はここで討死、あるいは退散の違いがある。

和泉の眞鍋氏も先祖は真鍋島から出ている。



南溟寺と眞鍋城址碑
南溟寺

真鍋主馬兵衛は、間鍋・間部、主馬大夫・主馬大輔といろいろ記録されている。淡輪から大津に移り住んだ。淡輪には真鍋山あり。

和泉の真鍋氏は、主馬兵衛から貞成の間に、信長・秀吉・福島正則・紀州徳川氏に仕えている。

後に老中となった間部氏は、元塩川氏と称していたが、和泉の真鍋家と姻戚関係になり、真鍋を称するようになり、その後、間鍋→間部と変えている。

なお、単なる偶然だろうが、和泉周辺および淡輪は土浦藩によって領有されていた。



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    ↑平成22年11月現在、まなべに関する記述は消滅しているようです。

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